2章-5
文字数 2,243文字
「ねえ、お兄さん。辛い思い出には二種類あるって知ってる?」
「二種類? うーん。考えたことないな」
「一つは、ただ辛いだけ。思い返してもムカつくだけ。ちなみに、人間はこの種の辛い思い出は普段は表層意識には二割しか存在してないらしいよ。それ以上の比率でそんな辛さを意識してしまったら、人間は生きていけないんだって。本当はそんな記憶はゼロにできればいいんだけど、そうもいかないみたいなのね。これは、医学的に証明されつつあるよ」
「へえ、ヨーコちゃん、博識だね。で、残りの八割の中に『もう一種類の辛い思い出』が混じっているわけか。それは、どんな辛い思い出なの?」
「そうね……。あ、私ね、子どもの頃、犬を飼ってたの。真っ白なチワワで『レオ』っていうんだけど、八年目に死んだわ。ちょっと短い生涯よね」
「確かに夭折 だね。で、可愛いがってたの?」
「それはもちろん」
ヨーコはレオとの思い出話を始めた。ヨーコが小学三年生のときの話だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「人間の食べ物をあげちゃ駄目よ。ドッグフードを食べなくなるから」
ヨーコの母親の口癖だった。そして、ヨーコは子どもなりに、母親の言いつけを守り続けていた。
そんなある日、ドッグフードをボリボリと、食べるというよりしかたなく飲み込んでいるレオの後ろ姿が、ヨーコの瞳にはとても切なげに映った。幸い、部屋にはヨーコとレオだけだ。ヨーコは自分が食べていたビスケットをほんの一切れ、レオに差し出してみた。
最初は怪訝な目をしていたレオだったが、やがてはその警戒心を解き、ビスケットにかぶりついた。
と、次の瞬間、なんとレオは散歩に行くときにだけする歓喜のポーズを見せた。その場で跳躍した後、千切れそうに尻尾を振る仕草だ。散歩のときは、決まって二回跳躍するが、そのときレオは三回跳躍をした。そして、ヨーコの体を前足で押した。
ビスケット、美味しい! もっと、ちょうだい!
ヨーコは、レオがそう言っているに違いないと感じた。そこで、ビスケットをさらに一切れあげると、レオは再び跳ねた。それからは、部屋に母親がいないときには、彼の食事メニューにビスケットが加わった。
その日も、ヨーコは大きなビスケットを丸まる一枚、レオに差し出した。レオが嬉しそうにそれをくわえる。しかし、そのタイミングでドアが開き、母親が姿を現してしまった。すると、レオは信じられない行動に出た。
近くにあった、クリーニング屋に持っていく衣類の入った紙袋にダイビングをしたのだ。レオは、しばらく紙袋の中でもそもそしていたが、顔を出したときにはビスケットはくわえていなかった。そして、紙袋を倒しながら外に出ると、何食わぬ顔でドッグフードが盛られた皿に向かった。
その様子を見ながら、母親はつい吹き出した。
「フフフ。もう、あなた達。ママがなにも知らないと思ってるの?」
彼女は、紙袋に手を入れて衣類をかき分けると、ビスケットを探り当て、それを握って紙袋から手を引き抜いた。
「レオがドッグフードを食べる量が減ったから、ママ、気付いてたわよ。ヨーコがレオになにかあげてるってことくらい。ふーん。レオはビスケットが好きなんだ」
「そうよ。レオの大好物なんだから」
「らしいわね。私に見つかったら取り上げられるから、慌てて紙袋に隠すくらいだもんね。まあ、いいわ。食後のおやつ程度なら、ビスケットをあげてもいいわよ」
だが、ヨーコはその一言に思わず顔をしかめた。
ヨーコはこう考えた。違う。レオはビスケットを取り上げられるのが嫌で隠したんじゃない。自分が母親に叱られないように、咄嗟にかばってくれたのだ。なんて、頭のいい犬なのかと、ヨーコはレオに感心するとともに、それまで以上の愛情を抱いた。彼女と彼の間に永遠に切れることのない絆が生まれた瞬間だった。
しかし、生あるものに「永遠」はない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ふーん。レオが死んだときは辛かっただろうね。でも、今となってはほろ苦い、いい思い出なんじゃないの?」
隆の反応に、ヨーコは満足げにうなずいた。
「そう! そこなのよ!」
「え?」
「人の辛い思い出というのは、そのときは辛くても、時間という化学薬品が少しずつそれを濾過するように溶かしていき、やがてはほんのりとほろ苦く、そしてどこか甘さとコクがある『いい味』に仕上がるのよ」
「なるほどね。それが、『もう一種類の辛い思い出』なわけだね。でも、確かにそういう思い出ってあるよね」
「そうなの。人は誰でもそういう『いい味に仕上がる思い出』というのをたくさん持ってるの」
ヨーコは微笑すると続けた。
「『風と共に去りぬ』じゃないけど、人には誰でも、一生のうちに一冊の本になるくらいの思い出があるの。ただ、辛い思い出は、時間が解決してくれる前、特にその渦中にいる間はただ辛いだけで、『あー、苦しいよー。逃げたいよー。忘れ去りたいよー。誰か助けてー』っていう経験でもあるんだけどね」
そのとき、ドアの開く音がした。客か、と隆が振り向くよりも早く、ヨーコが「いらっしゃいませ」と声を上げたが、男は隆とヨーコがいるカウンターには一瞥もくれずにテーブル席に座り、唸るように「アメリカン!」とオーダーすると、そのままテーブルに視線を落とした。
そして、すぐさまタバコに火をつけた。
「二種類? うーん。考えたことないな」
「一つは、ただ辛いだけ。思い返してもムカつくだけ。ちなみに、人間はこの種の辛い思い出は普段は表層意識には二割しか存在してないらしいよ。それ以上の比率でそんな辛さを意識してしまったら、人間は生きていけないんだって。本当はそんな記憶はゼロにできればいいんだけど、そうもいかないみたいなのね。これは、医学的に証明されつつあるよ」
「へえ、ヨーコちゃん、博識だね。で、残りの八割の中に『もう一種類の辛い思い出』が混じっているわけか。それは、どんな辛い思い出なの?」
「そうね……。あ、私ね、子どもの頃、犬を飼ってたの。真っ白なチワワで『レオ』っていうんだけど、八年目に死んだわ。ちょっと短い生涯よね」
「確かに
「それはもちろん」
ヨーコはレオとの思い出話を始めた。ヨーコが小学三年生のときの話だ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「人間の食べ物をあげちゃ駄目よ。ドッグフードを食べなくなるから」
ヨーコの母親の口癖だった。そして、ヨーコは子どもなりに、母親の言いつけを守り続けていた。
そんなある日、ドッグフードをボリボリと、食べるというよりしかたなく飲み込んでいるレオの後ろ姿が、ヨーコの瞳にはとても切なげに映った。幸い、部屋にはヨーコとレオだけだ。ヨーコは自分が食べていたビスケットをほんの一切れ、レオに差し出してみた。
最初は怪訝な目をしていたレオだったが、やがてはその警戒心を解き、ビスケットにかぶりついた。
と、次の瞬間、なんとレオは散歩に行くときにだけする歓喜のポーズを見せた。その場で跳躍した後、千切れそうに尻尾を振る仕草だ。散歩のときは、決まって二回跳躍するが、そのときレオは三回跳躍をした。そして、ヨーコの体を前足で押した。
ビスケット、美味しい! もっと、ちょうだい!
ヨーコは、レオがそう言っているに違いないと感じた。そこで、ビスケットをさらに一切れあげると、レオは再び跳ねた。それからは、部屋に母親がいないときには、彼の食事メニューにビスケットが加わった。
その日も、ヨーコは大きなビスケットを丸まる一枚、レオに差し出した。レオが嬉しそうにそれをくわえる。しかし、そのタイミングでドアが開き、母親が姿を現してしまった。すると、レオは信じられない行動に出た。
近くにあった、クリーニング屋に持っていく衣類の入った紙袋にダイビングをしたのだ。レオは、しばらく紙袋の中でもそもそしていたが、顔を出したときにはビスケットはくわえていなかった。そして、紙袋を倒しながら外に出ると、何食わぬ顔でドッグフードが盛られた皿に向かった。
その様子を見ながら、母親はつい吹き出した。
「フフフ。もう、あなた達。ママがなにも知らないと思ってるの?」
彼女は、紙袋に手を入れて衣類をかき分けると、ビスケットを探り当て、それを握って紙袋から手を引き抜いた。
「レオがドッグフードを食べる量が減ったから、ママ、気付いてたわよ。ヨーコがレオになにかあげてるってことくらい。ふーん。レオはビスケットが好きなんだ」
「そうよ。レオの大好物なんだから」
「らしいわね。私に見つかったら取り上げられるから、慌てて紙袋に隠すくらいだもんね。まあ、いいわ。食後のおやつ程度なら、ビスケットをあげてもいいわよ」
だが、ヨーコはその一言に思わず顔をしかめた。
ヨーコはこう考えた。違う。レオはビスケットを取り上げられるのが嫌で隠したんじゃない。自分が母親に叱られないように、咄嗟にかばってくれたのだ。なんて、頭のいい犬なのかと、ヨーコはレオに感心するとともに、それまで以上の愛情を抱いた。彼女と彼の間に永遠に切れることのない絆が生まれた瞬間だった。
しかし、生あるものに「永遠」はない。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「ふーん。レオが死んだときは辛かっただろうね。でも、今となってはほろ苦い、いい思い出なんじゃないの?」
隆の反応に、ヨーコは満足げにうなずいた。
「そう! そこなのよ!」
「え?」
「人の辛い思い出というのは、そのときは辛くても、時間という化学薬品が少しずつそれを濾過するように溶かしていき、やがてはほんのりとほろ苦く、そしてどこか甘さとコクがある『いい味』に仕上がるのよ」
「なるほどね。それが、『もう一種類の辛い思い出』なわけだね。でも、確かにそういう思い出ってあるよね」
「そうなの。人は誰でもそういう『いい味に仕上がる思い出』というのをたくさん持ってるの」
ヨーコは微笑すると続けた。
「『風と共に去りぬ』じゃないけど、人には誰でも、一生のうちに一冊の本になるくらいの思い出があるの。ただ、辛い思い出は、時間が解決してくれる前、特にその渦中にいる間はただ辛いだけで、『あー、苦しいよー。逃げたいよー。忘れ去りたいよー。誰か助けてー』っていう経験でもあるんだけどね」
そのとき、ドアの開く音がした。客か、と隆が振り向くよりも早く、ヨーコが「いらっしゃいませ」と声を上げたが、男は隆とヨーコがいるカウンターには一瞥もくれずにテーブル席に座り、唸るように「アメリカン!」とオーダーすると、そのままテーブルに視線を落とした。
そして、すぐさまタバコに火をつけた。