二話 現実逃避
文字数 2,056文字
「クレス! お前は! 働いているってどういうことだ!」
働き始めてしばらくたった、ある晩。
俺の部屋の扉の前で怒号が響いた。
それは、大神官である父さんの声だ。原因は叔父の店で働いていることがバレたから。
俺は扉の鍵をかけ、部屋にこもった。いちいち説教なんて聞いていられるか。
扉をドンドンと叩いて開けろ、とわめく父さんがあんまり煩いから、俺は部屋の窓からこっそりと外へ出て遊びに行くことにした。幸い給料が少し入ったから、お金が貯まっていた。
靴は部屋でも穿いているから、そのまま金をもって街へ向かう。
部屋ではまだ扉をたたく音が響いていた。
何もかも、だるいし、億劫だ。
遊びに来た夜の首都の繁華街で、俺は何をしていいのかも、迷った。
劇場では劇がやっていて、飲み屋ではみんなで歌を歌っている。買い物をする人のために店は夜遅くまで開いていて、路地では露店が出て食べ物を売っていた。
とりあえず露店で売っている果物の揚げ物を買ってみた。
甘くておいしい。揚げたての果物は衣がサクッとしてて、果実がトロリとして、それに甘い蜜がかかっているのがまた絶品だった。
俺がいままで食べたことが無いようなもの。
屋敷からたった数十分しか離れていなくても、そこには俺にとって未知の世界が広がっていた。
果物の揚げたものを手で食べながら――手で食べるというのも、新鮮だった――俺は街を歩きだす。
今度は酒を飲みに行ってみた。
そこは客が歌を歌ってはしゃいでいる店で、通りに面したガラス張りの店内から合唱が聞こえていた。
店に入ると度数の軽い葡萄酒を頼んで、席に着く。隣にいた男が大声で歌をうたっている。だから俺も大声で歌ってみた。
酒も入って結構気持ちがいい。
飲みながらみんなと一緒に歌を歌って手を打っていると、何もかも忘れられそうだった。
そんな風に歌っていると、隣の男に話しかけられた。
「なんだ、お前、なんか暗い顔してんな」
「俺? 暗い顔か?」
「ああ、暗いね、もっと飲んではしゃげ」
そう言うと、酔った男は俺の器に葡萄酒を注ぎ足す。
「俺は、ヴェン。十六歳だ」
「俺、クレス。俺も十六だ」
「同い年か。見ない顔だな」
「ああ、初めてここに来たから」
ヴェンの器を見ると、葡萄酒ではない強い酒を飲んでいるようだった。
彼は俺と同じ歳であるのに、やけにこの場に馴染んでいる。
「クレスか。お前、仕事は何してんだ?」
「……食堂で給仕とか調理とかやってる」
「ああ、飲食業か。俺もそうだ。大神殿の隣の食堂街で働いている」
奇しくも同じ食堂街だ。仕事は叔父の食堂のことを言っておいた。
そうすれば、変に思われないと思ったから。
酒も入って口が滑らかになっていた。この男、ヴェンも同じだろう。
「じゃあ、クレス、この店の初顔見せに一曲歌え」
「はあっ? 俺、歌なんて歌えないよ」
「気取ってんじゃねえよ、なんかあるだろ?」
ヴェンにしつこく歌をせがまれ、俺は歌をうたうことになった。
何がいいかと考えるが、こういう酒場で歌える歌なんて知らない。
だから、屋敷の手伝いが洗濯のときに歌っていた歌をうたった。
ヴェンはそれを聴いて女の歌じゃなか、と笑う。周りの人にも笑われて。
歌い終わった頃には、その酒場に気持ちよく溶けこんでいる自分がいた。
ああ、楽しい。
こんなに楽しいことがこの世にあったなんて、と嬉しくなる。
俺は久しぶりに大声で笑った。
それからの俺は、神官学校へ行きつつ、仕事と、あの酒場通いに夢中になった。
一杯の葡萄酒で、気分がよくなる店。とくにヴェンはいつもあの店に来ていて、俺と急速に仲が良くなって行った。
今日も酒場へ行くと、ヴェンがいた。
「クレス!」
「ああ、ヴェン。来てたのか」
彼は手を挙げて自分の居場所を俺に伝える。
カウンターに座っていたヴェンの隣に行って俺も座った。
「仕事はどうだ?」
「まあ、それなりにやってるよ」
当たり障りのない答えを返し、葡萄酒を店主に頼む。
ヴェンはすでにもう、出来上がっているようだった。
「なあ、クレス? お前、兄弟っている?」
「……ああ、いる」
「へえ、上に? それとも下?」
「下に。弟がいる」
「俺も弟と妹がいる」
ヴェンはそこまで言うと、また酒をぐびりと飲む。
「クレス、俺はさあ、学校は出られなかったから、弟と妹は学校を出してやりたいんだ」
「学校を出てないのか?」
何故? この世界はそんなに貧しい訳でもないのに。
「親父が早く死んだから、母親と俺で食い扶持を稼いでいてさあ」
「そうか……。悪いこと聞いたな」
酒に酔っているヴェンはにへらと笑い、俺のぶしつけな質問をさらりと流してくれた。
「神官学校にとはいわないからさあ、一般の学校を出させて人並にしてやりたい。それが俺の夢だ」
そう言って安酒を飲みながらヴェンは赤い顔で幸せそうに笑う。
神官学校はこの国の官吏養成機関だ。当然敷居の高い学校だ。
俺は――自分が何一つ苦労もなく神官学校へ通っている身分だとは、彼には到底言い出せなかった。
働き始めてしばらくたった、ある晩。
俺の部屋の扉の前で怒号が響いた。
それは、大神官である父さんの声だ。原因は叔父の店で働いていることがバレたから。
俺は扉の鍵をかけ、部屋にこもった。いちいち説教なんて聞いていられるか。
扉をドンドンと叩いて開けろ、とわめく父さんがあんまり煩いから、俺は部屋の窓からこっそりと外へ出て遊びに行くことにした。幸い給料が少し入ったから、お金が貯まっていた。
靴は部屋でも穿いているから、そのまま金をもって街へ向かう。
部屋ではまだ扉をたたく音が響いていた。
何もかも、だるいし、億劫だ。
遊びに来た夜の首都の繁華街で、俺は何をしていいのかも、迷った。
劇場では劇がやっていて、飲み屋ではみんなで歌を歌っている。買い物をする人のために店は夜遅くまで開いていて、路地では露店が出て食べ物を売っていた。
とりあえず露店で売っている果物の揚げ物を買ってみた。
甘くておいしい。揚げたての果物は衣がサクッとしてて、果実がトロリとして、それに甘い蜜がかかっているのがまた絶品だった。
俺がいままで食べたことが無いようなもの。
屋敷からたった数十分しか離れていなくても、そこには俺にとって未知の世界が広がっていた。
果物の揚げたものを手で食べながら――手で食べるというのも、新鮮だった――俺は街を歩きだす。
今度は酒を飲みに行ってみた。
そこは客が歌を歌ってはしゃいでいる店で、通りに面したガラス張りの店内から合唱が聞こえていた。
店に入ると度数の軽い葡萄酒を頼んで、席に着く。隣にいた男が大声で歌をうたっている。だから俺も大声で歌ってみた。
酒も入って結構気持ちがいい。
飲みながらみんなと一緒に歌を歌って手を打っていると、何もかも忘れられそうだった。
そんな風に歌っていると、隣の男に話しかけられた。
「なんだ、お前、なんか暗い顔してんな」
「俺? 暗い顔か?」
「ああ、暗いね、もっと飲んではしゃげ」
そう言うと、酔った男は俺の器に葡萄酒を注ぎ足す。
「俺は、ヴェン。十六歳だ」
「俺、クレス。俺も十六だ」
「同い年か。見ない顔だな」
「ああ、初めてここに来たから」
ヴェンの器を見ると、葡萄酒ではない強い酒を飲んでいるようだった。
彼は俺と同じ歳であるのに、やけにこの場に馴染んでいる。
「クレスか。お前、仕事は何してんだ?」
「……食堂で給仕とか調理とかやってる」
「ああ、飲食業か。俺もそうだ。大神殿の隣の食堂街で働いている」
奇しくも同じ食堂街だ。仕事は叔父の食堂のことを言っておいた。
そうすれば、変に思われないと思ったから。
酒も入って口が滑らかになっていた。この男、ヴェンも同じだろう。
「じゃあ、クレス、この店の初顔見せに一曲歌え」
「はあっ? 俺、歌なんて歌えないよ」
「気取ってんじゃねえよ、なんかあるだろ?」
ヴェンにしつこく歌をせがまれ、俺は歌をうたうことになった。
何がいいかと考えるが、こういう酒場で歌える歌なんて知らない。
だから、屋敷の手伝いが洗濯のときに歌っていた歌をうたった。
ヴェンはそれを聴いて女の歌じゃなか、と笑う。周りの人にも笑われて。
歌い終わった頃には、その酒場に気持ちよく溶けこんでいる自分がいた。
ああ、楽しい。
こんなに楽しいことがこの世にあったなんて、と嬉しくなる。
俺は久しぶりに大声で笑った。
それからの俺は、神官学校へ行きつつ、仕事と、あの酒場通いに夢中になった。
一杯の葡萄酒で、気分がよくなる店。とくにヴェンはいつもあの店に来ていて、俺と急速に仲が良くなって行った。
今日も酒場へ行くと、ヴェンがいた。
「クレス!」
「ああ、ヴェン。来てたのか」
彼は手を挙げて自分の居場所を俺に伝える。
カウンターに座っていたヴェンの隣に行って俺も座った。
「仕事はどうだ?」
「まあ、それなりにやってるよ」
当たり障りのない答えを返し、葡萄酒を店主に頼む。
ヴェンはすでにもう、出来上がっているようだった。
「なあ、クレス? お前、兄弟っている?」
「……ああ、いる」
「へえ、上に? それとも下?」
「下に。弟がいる」
「俺も弟と妹がいる」
ヴェンはそこまで言うと、また酒をぐびりと飲む。
「クレス、俺はさあ、学校は出られなかったから、弟と妹は学校を出してやりたいんだ」
「学校を出てないのか?」
何故? この世界はそんなに貧しい訳でもないのに。
「親父が早く死んだから、母親と俺で食い扶持を稼いでいてさあ」
「そうか……。悪いこと聞いたな」
酒に酔っているヴェンはにへらと笑い、俺のぶしつけな質問をさらりと流してくれた。
「神官学校にとはいわないからさあ、一般の学校を出させて人並にしてやりたい。それが俺の夢だ」
そう言って安酒を飲みながらヴェンは赤い顔で幸せそうに笑う。
神官学校はこの国の官吏養成機関だ。当然敷居の高い学校だ。
俺は――自分が何一つ苦労もなく神官学校へ通っている身分だとは、彼には到底言い出せなかった。