第10話 夏島の帆船
文字数 3,740文字
「うわあ、すごい……」
夏島についてのクレスの第一声は、この言葉だった。
目の前に広がる海は、今まで見たどの湖よりも大きくて、それに白く波立っていた。
歩く足元は砂に埋もれ、ざーという海の音が心地よく響き渡っている。
海はエメラルドのように緑色に光り、その中に真っ白い帆を掲げた大きな白い船が、悠然と浮かんでいた。
しかし、ここは夏島の最果てなので、やはり季主による結界の届かない場所は、砂は黒ずんで、飛行船のその向こうは灰色の雲が広がる虚無の世界になっていた。
「あれが帆船か……」
「ああ。あの帆はまだ全体の三分の一も広げてないけどね。全部広げて風と季主の力でこの海を渡る仕組みになっているんだ」
「季主の力……夏主さまの貴石、サファイアか」
「良く知ってるね。まさにそう」
季主の力のこもった貴石は、この世界のあらゆるところで動力となっていた。
たとえば冷房と暖房の動力。
そして、飛行船の動力も。
この帆船の動力もそうらしい、とクレスは知った。
帆船を見たのは、初めてのクレスだ。帆船で夏島の海を渡ることは神官学校の初歩の授業で習っていたし、その絵も見ていた。
しかし、実際に見るのと、絵を見るのとでは雲泥の差だった。
緑色の海に浮かぶ純白の船は、白い海鳥のように美しい。
「この船は一人部屋が結構あるから今度はゆっくりできると思うよ」
「へえ、そうか。それにしてもやっぱり夏島は暑いな」
クレスは海と帆船を見ながら、口をあけて感心するばかりだ。
しかし、夏島特有の暑さに正直、辟易 もした。
夏島の首都には、主島のように『中央冷房装置』なるものがあり、冬島の冬主 の力で冷水が町中に流れている。それを利用した冷房装置も首都にかぎり使われていた。
だが、ここは夏島のはずれ。冷房装置などない。
「そんなに帆船が珍しい?」
「ああ、最高だ」
感極まってクレスはそう口にする。
レイは乗車券売り場の前まで来ると、ここで券を買うんだ、と言って自分の分を買った。
クレスもレイと同じように、一人部屋の券を買った。
陸に渡してある橋を越えて、白い帆船に乗り込む。
コハクは内緒で船の中へと入れた。
いちいち説明するのが面倒だったし、部屋からださなければいいか、と思う。
レイと船内で別れ、自分の船室の扉を開けて、中に入る。
しかし、そこは外と同様にとても暑かった。
「あっつい……」
むんとする熱気に身体中から汗がでる。暑いので身体をあおぐ物も用意されていた。
クレスは扇 で身体をあおぎながら、荷物の整理を始めた。
帆船に乗っているのは二泊三日だ。
その間、ゆっくりと過ごせそうだと思いながら、荷物からでてきた手紙に手を止めた。
大神殿の象徴色である深緑色。その縁飾 りのついた二通の手紙。
一通は、季主に会う為の通行手形。今回は夏島の夏主さまに会うのに必要な手形だ。
もう一通は、季主に見せて、その返事をもらってくるように言われた封筒。
それがきちんとあることを確かめて、ふと中身が気になった。
見ようと思えば見ることができるつくり。
しかし、クレスは封筒をそのまま荷物へと仕舞った。
そうして、荷物の整理を終えたのだった。
水を飲もうと、食堂へ行くためにクレスは扉を開けた。そのときに部屋の正面の通路でうずくまっている老人を見た。
白い髭や長い毛髪のせいで、顔色などはよく分からないが、咳き込んで苦しそうにしている。思わず声を掛けていた。
「大丈夫ですか?」
「うっつ…うう……ごほ…」
背をさすってみるが、老人の様子は良くはならない。
「水を……くれま…せんか……?」
途切れ途切れにそう呟く老人に、クレスは取り敢えず、目の前の自分の部屋へその老人を招き入れた。
「今、水を持ってきますから、ちょっと待っていてください」
「……すみま……せん…ごほ…」
老人は苦しそうにクレスの差し出した椅子に座ると、ぐったりと身体から力を抜いた。
食堂へ行って水を分けてもらうと、クレスはそれを水筒に入れて、自室へ戻る。
備え付けの器に水筒からぬるい水を注ぐと、それを老人の前へと差し出した。
「水を飲んだら医務室へ行った方がいいですよ。一緒に行きましょうか」
老人は無言で水を一気に飲み干すと、幾らか気分が良くなったのか、声が少し明るくなった。
「いえ、ここで休ませて頂いたおかげで大分楽になりました。部屋に帰って休みます。本当に有難うございます。なんてお礼を言っていいか……!」
「お礼なんていいですけど……本当に大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございました」
老人はよたよたとクレスの部屋を出て行った。
クレスはそれを心配そうに見送って、部屋に鍵をかけて老人の使った器を食堂の洗い場へと戻しに行った。
部屋から出たついでに、この帆船の中央広場にも行ってみようと思い立って向かう。そのころにはもう夕方になっていた。外の様子も見てみようとクレスは甲板に出てみた。
夕日が海に沈んでいくのが見える。今度は赤い海だ。レイが夏島の海は七色に変化するといったのを思い出した。
この夏島は広大な虚無の雲の中に浮遊している。
しかし、そんなことなど思わせない絶景だった。
海の方へ太陽が沈んでいくのがよく見える。
真っ赤に染まった海と、空。そしてそれを反射して赤く光る帆と船体。
言葉にならないくらい美しかった。
そのまま、帆船中央広場まで行って、クレスは売店で果汁水を買った。それを夕日の見える窓近くの椅子に座って飲んでいると、クレスの席の前にレイが立った。
「やあ、もうすぐ夕食だね。前にすわってもいい?」
「ああ」
返事を聞くと、レイは相変らず優美な仕種でクレスの向かいに座る。
「なあ、レイ。夕食ってここで食べるのか?」
「そうだよ。売店でも何か買えるけど、食堂で注文したものをここに持ってきて食べるんだ」
「へえ、どんなものが食えるんだ?」
好奇心旺盛でクレスはレイに聞いた。
「鶏肉の入った辛いスープとか、パン、それに焼き肉も魚も野菜炒めも、果物も、なんでもあるよ」
「へえ、美味 そうだな! そういえば俺、腹へってきたよ」
そして、レイは真剣な顔をして、一言付け加えた。
「そうそう、ここ最近この帆船で泥棒が出るみたいだ。さっきここの備え付けの新聞で読んだよ」
「どろぼう?」
「お金が盗まれるんだ」
真剣な顔で不穏なことを言われて、クレスの心はにわかに曇った。
「……それは……自己管理が甘いんじゃないか」
「私はきちんと備え付けの金庫に財布を入れて鍵をかけて来たけどね」
この船には盗難防止の備え付けの金庫があって、鍵は部屋の鍵と一緒になっていた。
「俺も金庫に入れて鍵はかけてきたけど……小銭だけしか今はもってない。財布は金庫の中だ」
「鍵をかけていれば大丈夫だと思うけど……」
クレスは急に不安になった。
荷物にはこの四季の浮島をめぐる旅の財産が入っている。
それを盗まれては、非常にまずい。
「ちょっと俺、部屋見てくる」
「ああ、そう? じゃあ一応、私も確かめてこよう」
その場はそれでレイと別れて部屋に戻った。
そして部屋の中の金庫の中身を確認して、クレスは蒼くなった。
どこをどう探しても。
「ない!!」
財布がなくなっていたのだ。
まて、まて、落ち着け。
そう自分自身に言い聞かせて、嫌な音を立てる心臓を押さえた。
レイに借りるか? いや、それは嫌だ。知り合ってわずかしかたっていないのに、お金のことで迷惑を掛けたくない。
それにさっきレイが教えてくれた矢先に、案の定さいふを盗まれている自分にも腹がたつ。
レイには内緒でここは乗り切ろう。
幸い、弟のカイスの知恵で、夏島の宿にはお金の入った木箱が届いているはずだ。
そこまで持てば大丈夫。
いま持っている小銭を数えてみた。
パンが二個と牛乳が二本ほど買える金額しかのこっていない。
「そ、それでもこれから二日は食べていける……それを耐えれば首都のキリブにつく……」
自分を奮 い立たせ、取り敢えず帆船の中央広場にある売店へと向かった。
夕食のパンを買うためだ。
レイに教えてもらった、豪華な食事にはありつけそうにない。
売店に向かうと、向こうからレイがやってくるのが見えた。
なにか彼らしくなく、ぼうっとしているように見える。
「クレス」
「あ、レイか。どうした?」
「……金庫に入れておいたのに……。お金、盗まれちゃったんだ!」
「……は?」
クレスに気をつけろと言った舌の根も乾かぬうちに、自分が盗まれているらしかった。
茫然自失なクレスの様子をみて、レイも戸惑う。
「クレスは?」
「実は……俺もやられた」
もう隠している意味もないような気がして、クレスは正直に答えていた。
夏島についてのクレスの第一声は、この言葉だった。
目の前に広がる海は、今まで見たどの湖よりも大きくて、それに白く波立っていた。
歩く足元は砂に埋もれ、ざーという海の音が心地よく響き渡っている。
海はエメラルドのように緑色に光り、その中に真っ白い帆を掲げた大きな白い船が、悠然と浮かんでいた。
しかし、ここは夏島の最果てなので、やはり季主による結界の届かない場所は、砂は黒ずんで、飛行船のその向こうは灰色の雲が広がる虚無の世界になっていた。
「あれが帆船か……」
「ああ。あの帆はまだ全体の三分の一も広げてないけどね。全部広げて風と季主の力でこの海を渡る仕組みになっているんだ」
「季主の力……夏主さまの貴石、サファイアか」
「良く知ってるね。まさにそう」
季主の力のこもった貴石は、この世界のあらゆるところで動力となっていた。
たとえば冷房と暖房の動力。
そして、飛行船の動力も。
この帆船の動力もそうらしい、とクレスは知った。
帆船を見たのは、初めてのクレスだ。帆船で夏島の海を渡ることは神官学校の初歩の授業で習っていたし、その絵も見ていた。
しかし、実際に見るのと、絵を見るのとでは雲泥の差だった。
緑色の海に浮かぶ純白の船は、白い海鳥のように美しい。
「この船は一人部屋が結構あるから今度はゆっくりできると思うよ」
「へえ、そうか。それにしてもやっぱり夏島は暑いな」
クレスは海と帆船を見ながら、口をあけて感心するばかりだ。
しかし、夏島特有の暑さに正直、
夏島の首都には、主島のように『中央冷房装置』なるものがあり、冬島の
だが、ここは夏島のはずれ。冷房装置などない。
「そんなに帆船が珍しい?」
「ああ、最高だ」
感極まってクレスはそう口にする。
レイは乗車券売り場の前まで来ると、ここで券を買うんだ、と言って自分の分を買った。
クレスもレイと同じように、一人部屋の券を買った。
陸に渡してある橋を越えて、白い帆船に乗り込む。
コハクは内緒で船の中へと入れた。
いちいち説明するのが面倒だったし、部屋からださなければいいか、と思う。
レイと船内で別れ、自分の船室の扉を開けて、中に入る。
しかし、そこは外と同様にとても暑かった。
「あっつい……」
むんとする熱気に身体中から汗がでる。暑いので身体をあおぐ物も用意されていた。
クレスは
帆船に乗っているのは二泊三日だ。
その間、ゆっくりと過ごせそうだと思いながら、荷物からでてきた手紙に手を止めた。
大神殿の象徴色である深緑色。その
一通は、季主に会う為の通行手形。今回は夏島の夏主さまに会うのに必要な手形だ。
もう一通は、季主に見せて、その返事をもらってくるように言われた封筒。
それがきちんとあることを確かめて、ふと中身が気になった。
見ようと思えば見ることができるつくり。
しかし、クレスは封筒をそのまま荷物へと仕舞った。
そうして、荷物の整理を終えたのだった。
水を飲もうと、食堂へ行くためにクレスは扉を開けた。そのときに部屋の正面の通路でうずくまっている老人を見た。
白い髭や長い毛髪のせいで、顔色などはよく分からないが、咳き込んで苦しそうにしている。思わず声を掛けていた。
「大丈夫ですか?」
「うっつ…うう……ごほ…」
背をさすってみるが、老人の様子は良くはならない。
「水を……くれま…せんか……?」
途切れ途切れにそう呟く老人に、クレスは取り敢えず、目の前の自分の部屋へその老人を招き入れた。
「今、水を持ってきますから、ちょっと待っていてください」
「……すみま……せん…ごほ…」
老人は苦しそうにクレスの差し出した椅子に座ると、ぐったりと身体から力を抜いた。
食堂へ行って水を分けてもらうと、クレスはそれを水筒に入れて、自室へ戻る。
備え付けの器に水筒からぬるい水を注ぐと、それを老人の前へと差し出した。
「水を飲んだら医務室へ行った方がいいですよ。一緒に行きましょうか」
老人は無言で水を一気に飲み干すと、幾らか気分が良くなったのか、声が少し明るくなった。
「いえ、ここで休ませて頂いたおかげで大分楽になりました。部屋に帰って休みます。本当に有難うございます。なんてお礼を言っていいか……!」
「お礼なんていいですけど……本当に大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとうございました」
老人はよたよたとクレスの部屋を出て行った。
クレスはそれを心配そうに見送って、部屋に鍵をかけて老人の使った器を食堂の洗い場へと戻しに行った。
部屋から出たついでに、この帆船の中央広場にも行ってみようと思い立って向かう。そのころにはもう夕方になっていた。外の様子も見てみようとクレスは甲板に出てみた。
夕日が海に沈んでいくのが見える。今度は赤い海だ。レイが夏島の海は七色に変化するといったのを思い出した。
この夏島は広大な虚無の雲の中に浮遊している。
しかし、そんなことなど思わせない絶景だった。
海の方へ太陽が沈んでいくのがよく見える。
真っ赤に染まった海と、空。そしてそれを反射して赤く光る帆と船体。
言葉にならないくらい美しかった。
そのまま、帆船中央広場まで行って、クレスは売店で果汁水を買った。それを夕日の見える窓近くの椅子に座って飲んでいると、クレスの席の前にレイが立った。
「やあ、もうすぐ夕食だね。前にすわってもいい?」
「ああ」
返事を聞くと、レイは相変らず優美な仕種でクレスの向かいに座る。
「なあ、レイ。夕食ってここで食べるのか?」
「そうだよ。売店でも何か買えるけど、食堂で注文したものをここに持ってきて食べるんだ」
「へえ、どんなものが食えるんだ?」
好奇心旺盛でクレスはレイに聞いた。
「鶏肉の入った辛いスープとか、パン、それに焼き肉も魚も野菜炒めも、果物も、なんでもあるよ」
「へえ、
そして、レイは真剣な顔をして、一言付け加えた。
「そうそう、ここ最近この帆船で泥棒が出るみたいだ。さっきここの備え付けの新聞で読んだよ」
「どろぼう?」
「お金が盗まれるんだ」
真剣な顔で不穏なことを言われて、クレスの心はにわかに曇った。
「……それは……自己管理が甘いんじゃないか」
「私はきちんと備え付けの金庫に財布を入れて鍵をかけて来たけどね」
この船には盗難防止の備え付けの金庫があって、鍵は部屋の鍵と一緒になっていた。
「俺も金庫に入れて鍵はかけてきたけど……小銭だけしか今はもってない。財布は金庫の中だ」
「鍵をかけていれば大丈夫だと思うけど……」
クレスは急に不安になった。
荷物にはこの四季の浮島をめぐる旅の財産が入っている。
それを盗まれては、非常にまずい。
「ちょっと俺、部屋見てくる」
「ああ、そう? じゃあ一応、私も確かめてこよう」
その場はそれでレイと別れて部屋に戻った。
そして部屋の中の金庫の中身を確認して、クレスは蒼くなった。
どこをどう探しても。
「ない!!」
財布がなくなっていたのだ。
まて、まて、落ち着け。
そう自分自身に言い聞かせて、嫌な音を立てる心臓を押さえた。
レイに借りるか? いや、それは嫌だ。知り合ってわずかしかたっていないのに、お金のことで迷惑を掛けたくない。
それにさっきレイが教えてくれた矢先に、案の定さいふを盗まれている自分にも腹がたつ。
レイには内緒でここは乗り切ろう。
幸い、弟のカイスの知恵で、夏島の宿にはお金の入った木箱が届いているはずだ。
そこまで持てば大丈夫。
いま持っている小銭を数えてみた。
パンが二個と牛乳が二本ほど買える金額しかのこっていない。
「そ、それでもこれから二日は食べていける……それを耐えれば首都のキリブにつく……」
自分を
夕食のパンを買うためだ。
レイに教えてもらった、豪華な食事にはありつけそうにない。
売店に向かうと、向こうからレイがやってくるのが見えた。
なにか彼らしくなく、ぼうっとしているように見える。
「クレス」
「あ、レイか。どうした?」
「……金庫に入れておいたのに……。お金、盗まれちゃったんだ!」
「……は?」
クレスに気をつけろと言った舌の根も乾かぬうちに、自分が盗まれているらしかった。
茫然自失なクレスの様子をみて、レイも戸惑う。
「クレスは?」
「実は……俺もやられた」
もう隠している意味もないような気がして、クレスは正直に答えていた。