第2話 大神官のダメ息子
文字数 2,706文字
昔の夢を見ていた。
突っ伏した机の上で顔を上げると、消しゴムのカスが頬についていた。
自室で勉強しているうちに寝てしまったのだろう。
「なんかヤな夢みたな……」
顔についた消しゴムのカスを手で無造作に払いのける。
昔の夢は、今現在のクレスにとって、とても嫌な夢だった。
あのとき父に見せられた、己に押しかかる責任。
いまでもクレスは忘れられない。
起き抜けの頭を覚醒させるために、顔を洗いに屋敷の洗面所へと向かう。
クレスが自宅の廊下を歩いていると、すれ違うお仕着せ姿の使用人たちが彼に頭を下げてくる。
それを無言でやり過ごし、洗面所の冷たい水でじゃぶじゃぶと顔を洗った。すると、すっと頭がすっきりとしてきた。
夢で見た四年前の十三歳のときからはだいぶ成長した顔が、正面の鏡には映っていた。
茶色の直毛は短く整えられ、琥珀色の目がクレス自身を睨むように見ている。
クレスが住む主島は今現在十四月を迎えており季節は真冬だ。
首都ガルダでは中央冷暖房装置という水力機関が発達しており、首都中の家々を温めていた。
冷たい水で頭をはっきりさせると、寝る前に感じていた重苦しい気分がクレスの心を支配してくる。
また、時を見はからったかのように、春島に行ったときの夢を見たから。
これがお前の護る世界の一部だ――
そう言って見せられた主島の広大な大地。クレスはそこに住む人々の生活の責任を負って、五つの浮島を有するこの世界の大神官にならなければいけない。
それが、最近とても重くて、どうしようもなく憂鬱になるのだった。
家にいて勉強ばかりしていても気が滅入るので、クレスは叔父の経営する店で給仕の仕事をしていた。
そして、得たお金で酒場へ行って酒を飲んで、憂さを晴らしていたのだった。
学校へ通いながら仕事をし、夜は酒場へ行く。
乱れた生活が、最近の疲れの理由だった。
そんな生活態度を周りが許してくれるはずもないのだが、クレスの周りの人々は彼に反感をもちつつも今後の彼の軌道修正に期待していた。
なんせ、大神官になるのは今のところクレスと、弟のカイスしかいないからだ。
「あ、今日は仕事の日だ……」
起きて頭がはっきりすると、今日は仕事の日だったと思い出し、時計を見る。
洗面所の壁に掛けた時計は夕刻前を指していた。
今から仕事へ行っても十分間にあう。
クレスは支度をして叔父の経営するレストランへと向かったのだった。
「クレス、食事休憩とっていいぞー」
クレスが仕事を終えて、食事をとれたのは、夕飯時を大分すぎたあとだった。
叔父の一声で裏方に回ると、すでに机にはシチューとパンが用意されている。クレスは腹が減っていたのでがつがつとそれらを食べ始めた。
仕事あとの食事はなんでこんなにうまいんだろう。
そう思いながら飯を食べるクレスの前に、この店の店長が座った。
「あ、叔父さん。じゃないや、店長。なに? 俺、メシ食べちゃいたいんだけど」
スープをすすりながら叔父の顔を見ると、叔父は難しい顔でクレスを眺めた。
「お前……神官学校へはきちんと行ってるのか?」
「……行ってるよ。成績も悪くない。飛びぬけて良くもないけど」
神官学校とは、この世界の官吏養成学校だ。
この世界には神のような存在がいるために、世界の政治中枢で働く人々、官吏を神官と呼ぶ。
「このままじゃ、お前だって色々つらいだろ? 仕事はやめてもいいんだぜ」
叔父は持っていた煙草を一口吸うと、ふっと横に煙を吐き出した。
「……」
核心に触れた叔父のことばに、クレスは黙り込んでしまう。
つらいのは本当だ。
本当に行き場がなくて、大きな、乗り越えられない壁にぶち当たったような感覚。
クレスが食事を飲み込んで大きくため息を吐くと、奥から同僚が顔をだした。
「クレス、お客さんよ。弟さんがきているわ」
そう言って十歳ほどの丸い眼鏡をかけた男の子を連れてきた。
「ああ、ありがとう」
クレスが礼を言うと、その男の子もクレスの同僚に頭を下げてお礼を言った。
「お姉さん、有難うございました」
「いえいえ、どういたしまして。兄弟なのにクレスとは大違いね」
あはは、と笑い声をたててまた広場に戻った同僚を後目にみて、クレスはその男の子に目を向けた。
「どうした、カイス。ここに来るなんてめずらしい」
「兄さま!」
クレスの弟、カイスはクレスの顔をみるなり満面の笑みで両手を広げて彼にだきつく。すると、彼の手もとの葡萄酒のコルクに気が付いた。
「兄さま、このコルク、もらってもいいですか」
「ああ、いいよ、やるよ。相変らず集めているんだな」
クレスは弟の奇特な趣味に苦笑した。
この世界の葡萄酒のコルクには、酒造の紋と生産地が刻印されていた。
それをあつめるのがカイスの趣味なのだ。
カイスは嬉々としてそれをポケットに収める。
それを見やってクレスは少し怖い顔をつくって弟を見た。
「カイス、そんな用の為にここへ来たのか? まさか、こんな夜遅くに一人できたんじゃないだろうな」
「執事も一緒ですよ。雪が降っているので傘をもってきました」
「そうか……悪かったな。寒かっただろ?」
クレスは弟の優しさに己の未熟を恥じた。
クレスがここで働いているのは、単なるクレスのわがままなのだ。
それにカイスを巻き込んでしまったようで、心苦しい。
それでもカイスは上機嫌でクレスの顔を見上げる。
「それと、父さまが兄さまをスゴイ剣幕で探していましたよ」
「父さんが?」
「兄さまじゃなくちゃ、できないことがあるんだって。僕じゃダメだって言ってました。だから、もう帰りましょう、兄さま」
「父さんが俺に用事があるのか。分かったよ。仕事も終わったし、帰るか!」
「はい!」
クレスが帰ると言って席をたつと、カイスは大喜びしてクレスの腰にまた抱きついた。
「帰りましょう!」
叔父と同僚に挨拶をすると、クレスは弟の手をとって店を出た。
怒られるのならともかく、父が何を考えてクレスを探しているのか見当がつかなくて、内心首を傾げる。
外へ出ると、執事がクレスの傘を持って待っていた。
深緑色のお仕着せを着た老齢の執事は、堅苦しくてクレスは苦手だった。
「クレスさま。こんな夜遅くにカイスさまに心配をかけないでください」
「ああ、悪かった」
執事の小言を聞き流して、傘を受け取る。
言われたことはもっともなので、反論もできない。
雪はカイスがきたときよりも勢いを増して首都ガルダに降りしきっていた。
明日にはきっと積もっているだろう。
主島の真冬、身を切るような寒さの中。
クレスとカイスは執事とともに大神官の屋敷である己の家へと帰って行った。
突っ伏した机の上で顔を上げると、消しゴムのカスが頬についていた。
自室で勉強しているうちに寝てしまったのだろう。
「なんかヤな夢みたな……」
顔についた消しゴムのカスを手で無造作に払いのける。
昔の夢は、今現在のクレスにとって、とても嫌な夢だった。
あのとき父に見せられた、己に押しかかる責任。
いまでもクレスは忘れられない。
起き抜けの頭を覚醒させるために、顔を洗いに屋敷の洗面所へと向かう。
クレスが自宅の廊下を歩いていると、すれ違うお仕着せ姿の使用人たちが彼に頭を下げてくる。
それを無言でやり過ごし、洗面所の冷たい水でじゃぶじゃぶと顔を洗った。すると、すっと頭がすっきりとしてきた。
夢で見た四年前の十三歳のときからはだいぶ成長した顔が、正面の鏡には映っていた。
茶色の直毛は短く整えられ、琥珀色の目がクレス自身を睨むように見ている。
クレスが住む主島は今現在十四月を迎えており季節は真冬だ。
首都ガルダでは中央冷暖房装置という水力機関が発達しており、首都中の家々を温めていた。
冷たい水で頭をはっきりさせると、寝る前に感じていた重苦しい気分がクレスの心を支配してくる。
また、時を見はからったかのように、春島に行ったときの夢を見たから。
これがお前の護る世界の一部だ――
そう言って見せられた主島の広大な大地。クレスはそこに住む人々の生活の責任を負って、五つの浮島を有するこの世界の大神官にならなければいけない。
それが、最近とても重くて、どうしようもなく憂鬱になるのだった。
家にいて勉強ばかりしていても気が滅入るので、クレスは叔父の経営する店で給仕の仕事をしていた。
そして、得たお金で酒場へ行って酒を飲んで、憂さを晴らしていたのだった。
学校へ通いながら仕事をし、夜は酒場へ行く。
乱れた生活が、最近の疲れの理由だった。
そんな生活態度を周りが許してくれるはずもないのだが、クレスの周りの人々は彼に反感をもちつつも今後の彼の軌道修正に期待していた。
なんせ、大神官になるのは今のところクレスと、弟のカイスしかいないからだ。
「あ、今日は仕事の日だ……」
起きて頭がはっきりすると、今日は仕事の日だったと思い出し、時計を見る。
洗面所の壁に掛けた時計は夕刻前を指していた。
今から仕事へ行っても十分間にあう。
クレスは支度をして叔父の経営するレストランへと向かったのだった。
「クレス、食事休憩とっていいぞー」
クレスが仕事を終えて、食事をとれたのは、夕飯時を大分すぎたあとだった。
叔父の一声で裏方に回ると、すでに机にはシチューとパンが用意されている。クレスは腹が減っていたのでがつがつとそれらを食べ始めた。
仕事あとの食事はなんでこんなにうまいんだろう。
そう思いながら飯を食べるクレスの前に、この店の店長が座った。
「あ、叔父さん。じゃないや、店長。なに? 俺、メシ食べちゃいたいんだけど」
スープをすすりながら叔父の顔を見ると、叔父は難しい顔でクレスを眺めた。
「お前……神官学校へはきちんと行ってるのか?」
「……行ってるよ。成績も悪くない。飛びぬけて良くもないけど」
神官学校とは、この世界の官吏養成学校だ。
この世界には神のような存在がいるために、世界の政治中枢で働く人々、官吏を神官と呼ぶ。
「このままじゃ、お前だって色々つらいだろ? 仕事はやめてもいいんだぜ」
叔父は持っていた煙草を一口吸うと、ふっと横に煙を吐き出した。
「……」
核心に触れた叔父のことばに、クレスは黙り込んでしまう。
つらいのは本当だ。
本当に行き場がなくて、大きな、乗り越えられない壁にぶち当たったような感覚。
クレスが食事を飲み込んで大きくため息を吐くと、奥から同僚が顔をだした。
「クレス、お客さんよ。弟さんがきているわ」
そう言って十歳ほどの丸い眼鏡をかけた男の子を連れてきた。
「ああ、ありがとう」
クレスが礼を言うと、その男の子もクレスの同僚に頭を下げてお礼を言った。
「お姉さん、有難うございました」
「いえいえ、どういたしまして。兄弟なのにクレスとは大違いね」
あはは、と笑い声をたててまた広場に戻った同僚を後目にみて、クレスはその男の子に目を向けた。
「どうした、カイス。ここに来るなんてめずらしい」
「兄さま!」
クレスの弟、カイスはクレスの顔をみるなり満面の笑みで両手を広げて彼にだきつく。すると、彼の手もとの葡萄酒のコルクに気が付いた。
「兄さま、このコルク、もらってもいいですか」
「ああ、いいよ、やるよ。相変らず集めているんだな」
クレスは弟の奇特な趣味に苦笑した。
この世界の葡萄酒のコルクには、酒造の紋と生産地が刻印されていた。
それをあつめるのがカイスの趣味なのだ。
カイスは嬉々としてそれをポケットに収める。
それを見やってクレスは少し怖い顔をつくって弟を見た。
「カイス、そんな用の為にここへ来たのか? まさか、こんな夜遅くに一人できたんじゃないだろうな」
「執事も一緒ですよ。雪が降っているので傘をもってきました」
「そうか……悪かったな。寒かっただろ?」
クレスは弟の優しさに己の未熟を恥じた。
クレスがここで働いているのは、単なるクレスのわがままなのだ。
それにカイスを巻き込んでしまったようで、心苦しい。
それでもカイスは上機嫌でクレスの顔を見上げる。
「それと、父さまが兄さまをスゴイ剣幕で探していましたよ」
「父さんが?」
「兄さまじゃなくちゃ、できないことがあるんだって。僕じゃダメだって言ってました。だから、もう帰りましょう、兄さま」
「父さんが俺に用事があるのか。分かったよ。仕事も終わったし、帰るか!」
「はい!」
クレスが帰ると言って席をたつと、カイスは大喜びしてクレスの腰にまた抱きついた。
「帰りましょう!」
叔父と同僚に挨拶をすると、クレスは弟の手をとって店を出た。
怒られるのならともかく、父が何を考えてクレスを探しているのか見当がつかなくて、内心首を傾げる。
外へ出ると、執事がクレスの傘を持って待っていた。
深緑色のお仕着せを着た老齢の執事は、堅苦しくてクレスは苦手だった。
「クレスさま。こんな夜遅くにカイスさまに心配をかけないでください」
「ああ、悪かった」
執事の小言を聞き流して、傘を受け取る。
言われたことはもっともなので、反論もできない。
雪はカイスがきたときよりも勢いを増して首都ガルダに降りしきっていた。
明日にはきっと積もっているだろう。
主島の真冬、身を切るような寒さの中。
クレスとカイスは執事とともに大神官の屋敷である己の家へと帰って行った。