三話 不思議な夢
文字数 2,246文字
学校では勉強を、夜には仕事をして、そして飲み屋へ行く。そんな日々が続けられるわけもなく。
俺は学校を休むようになっていった。
それは神官学校の校長の耳にも入り、ある日、俺は校長室に呼び出された。
厳格な女校長は、扉を開けて入ってきた俺を見るなり、顔をしかめる。
きっちりと団子に結われた黒髪に、朱色の礼服を着た夫人は、自分の執務机に座っていた。
そこから立ちあがると来客用の柔らかい椅子の方へ移動して、自分の前の席を俺にさししめし、自分も小卓を挟んだその向かいに座った。
「クレス・クレウリー。まずはそこに座りなさい」
固い声音に俺も緊張する。
俺は言うとおりに、その椅子に座った。
校長は眼を細めて俺を眺めた。
「まずはその襟元を正しなさい」
厳しく言われて、俺はだらしなく開けた制服の襟元のボタンを気だるく締めていく。
タイなんてもちろんしていない。
そして、またしばらく校長は俺を眺めた。
「目元にくまが出来ています。そんなに『勉強』が大変ですか?」
勉強、の部分をことさら強調して、校長はいう。
「……いえ」
俺は一言しか答えられなかった。
「クレス・クレウリー。どんなに逃げても、解決はしません。向き合ってみることはできませんか?」
校長は、俺の胸にぐさりと突き刺さる言葉を言った。
授業態度を怒るのではなく。
欠席を責められるのでもなく。
逃げても解決はしないのだと。
現実を突きつけられて、俺は嫌な緊張で口の中が渇いていく。
「クレス・クレウリー。どんなにお酒を飲んでも、逃げても、貴方はきっと気分が晴れることはないでしょう」
何もかもを見透かした言葉に、自分がとても小さくて、バカに思えて、泣きたくなってくる。
自分が恥かしくなって校長の顔を見ることが出来ない。
何も言えずに顔を伏せていると、校長は言った。
「もう行っていいですよ」
あっけなく校長は俺を解放する。
これで終わりなのか? 俺は少し意表を突かれた。
何も、怒られてはいない。
でも、その方が痛いのは何故だろう。
心は大きな剣で斬られたようにズキズキと嫌な痛みを訴える。
校長の言葉に俺は部屋を出た。
そのまま、誰もいない場所へ行きたくなった。一人で乗り合い馬車に乗って、主島でも大規模な湖の方へ向かう。その湖は首都の水源になっている大きな湖だった。
夕方の今ならきっと誰もいない。
もともと水源になっている湖は、観光地じゃない。
隣町までの馬車を途中で降り、湖まで来る。湖は夕日を反射して赤く色づいていた。
俺は湖の岸に膝を抱えて座り込んだ。
夕方の湖には思った通り、人は誰もいなくて。
湖に沈む夕日を見ながら、こみあげてくる情けなさと、自分の運命に、今まで我慢していた涙が堰を切って溢れてきた。
綺麗な景色が、余計に俺の心に染みてきて。
世界を背負う大神官になんて、なれない。
逃げることも許されない。
そんな呪われた運命なんて、いらない。
ない、ない、とそんなことばかりが頭を駆け巡って。
「なんで……なんで俺なんだ……! なんで……!」
俺は顔を膝に埋めて泣き叫んだ。
誰もいないから、泣いてもだれも気がつかない。
誰も、俺がこんな風に泣いているなんて、思わない。
だからこの場所は都合がよかった。
この世界の人々の頂点にたつ、という生まれたときから決まっていた運命。
それにこのときの俺は、精いっぱい、あらがっていた。
その日、俺は家に帰ったあと、すぐに寝台に寝転がった。
そうしたら、ちょっと不思議な夢を視た。
俺よりも背が高い人物を、俺は見上げていた。
その人の顔は、夕日の朱に染まって、よく見えない。
真っ直ぐに正面を向いて、その人は俺にとって耳に痛いことを言った。
――大神官の跡取りは放蕩息子、という噂を聞いたことがある
――クレスが大神官の息子だって知った時、意外だと思った。大神官の息子はもっとどうしようもないバカで、きっと弟が継ぐのかと思ってた
――でも、クレスは性根が真面目で優しい。旅をしていて、生活の規則はきちんと守っていたし、私にもコハクにもサリちゃんにも優しかった。どうして大神官の放蕩息子をみんなが責めないのか、クレスを見ていて分かったような気がする。みんな、クレスが立ち直るのを待ってるんだ。今は迷っていい。迷って当然なんだよ。十七歳で世界は背負えない
その人は、俺の本質を見ていた。俺は本当に大神官のバカ息子で、どうしようもない。
俺はどうしたらいいんだろう。
わからない。わからない。
――自分が守らなければならないものが詳しく分からないから、怖いんじゃないかな
さいごに泡のようにその人の声が聞こえた。
なんて言っているのか、よく聞き取れなかった。
朝になった。
あの夢はなんだったんだろう。
寝ぼけまなこで目を擦って、洗面所へ顔を洗いに行く。
昨日、湖で散々泣いたけど、鏡を見ると目は腫れてなかった。
夢の中のことを反芻 する。
俺は夢の中で、あの人に重要な答えをもらったと思った。
でも、もうすでに夢を忘れかけている。
なんて言ってくれたのかも、もう覚えていない。
夢は夢。割り切ろう。
そう思っても現実でだって未熟な自分に、とても重苦しい気分になって洗面所の鏡でぼうっと自分自身を見た。
締まりのない顔をしている、と思う。目的を見失った顔。情けない。
でも、もうそろそろ神官学校へ行く準備をしないと。
昨日の校長の話を聞いて、さすがに今日サボる気分にはなれなかった。
俺は学校を休むようになっていった。
それは神官学校の校長の耳にも入り、ある日、俺は校長室に呼び出された。
厳格な女校長は、扉を開けて入ってきた俺を見るなり、顔をしかめる。
きっちりと団子に結われた黒髪に、朱色の礼服を着た夫人は、自分の執務机に座っていた。
そこから立ちあがると来客用の柔らかい椅子の方へ移動して、自分の前の席を俺にさししめし、自分も小卓を挟んだその向かいに座った。
「クレス・クレウリー。まずはそこに座りなさい」
固い声音に俺も緊張する。
俺は言うとおりに、その椅子に座った。
校長は眼を細めて俺を眺めた。
「まずはその襟元を正しなさい」
厳しく言われて、俺はだらしなく開けた制服の襟元のボタンを気だるく締めていく。
タイなんてもちろんしていない。
そして、またしばらく校長は俺を眺めた。
「目元にくまが出来ています。そんなに『勉強』が大変ですか?」
勉強、の部分をことさら強調して、校長はいう。
「……いえ」
俺は一言しか答えられなかった。
「クレス・クレウリー。どんなに逃げても、解決はしません。向き合ってみることはできませんか?」
校長は、俺の胸にぐさりと突き刺さる言葉を言った。
授業態度を怒るのではなく。
欠席を責められるのでもなく。
逃げても解決はしないのだと。
現実を突きつけられて、俺は嫌な緊張で口の中が渇いていく。
「クレス・クレウリー。どんなにお酒を飲んでも、逃げても、貴方はきっと気分が晴れることはないでしょう」
何もかもを見透かした言葉に、自分がとても小さくて、バカに思えて、泣きたくなってくる。
自分が恥かしくなって校長の顔を見ることが出来ない。
何も言えずに顔を伏せていると、校長は言った。
「もう行っていいですよ」
あっけなく校長は俺を解放する。
これで終わりなのか? 俺は少し意表を突かれた。
何も、怒られてはいない。
でも、その方が痛いのは何故だろう。
心は大きな剣で斬られたようにズキズキと嫌な痛みを訴える。
校長の言葉に俺は部屋を出た。
そのまま、誰もいない場所へ行きたくなった。一人で乗り合い馬車に乗って、主島でも大規模な湖の方へ向かう。その湖は首都の水源になっている大きな湖だった。
夕方の今ならきっと誰もいない。
もともと水源になっている湖は、観光地じゃない。
隣町までの馬車を途中で降り、湖まで来る。湖は夕日を反射して赤く色づいていた。
俺は湖の岸に膝を抱えて座り込んだ。
夕方の湖には思った通り、人は誰もいなくて。
湖に沈む夕日を見ながら、こみあげてくる情けなさと、自分の運命に、今まで我慢していた涙が堰を切って溢れてきた。
綺麗な景色が、余計に俺の心に染みてきて。
世界を背負う大神官になんて、なれない。
逃げることも許されない。
そんな呪われた運命なんて、いらない。
ない、ない、とそんなことばかりが頭を駆け巡って。
「なんで……なんで俺なんだ……! なんで……!」
俺は顔を膝に埋めて泣き叫んだ。
誰もいないから、泣いてもだれも気がつかない。
誰も、俺がこんな風に泣いているなんて、思わない。
だからこの場所は都合がよかった。
この世界の人々の頂点にたつ、という生まれたときから決まっていた運命。
それにこのときの俺は、精いっぱい、あらがっていた。
その日、俺は家に帰ったあと、すぐに寝台に寝転がった。
そうしたら、ちょっと不思議な夢を視た。
俺よりも背が高い人物を、俺は見上げていた。
その人の顔は、夕日の朱に染まって、よく見えない。
真っ直ぐに正面を向いて、その人は俺にとって耳に痛いことを言った。
――大神官の跡取りは放蕩息子、という噂を聞いたことがある
――クレスが大神官の息子だって知った時、意外だと思った。大神官の息子はもっとどうしようもないバカで、きっと弟が継ぐのかと思ってた
――でも、クレスは性根が真面目で優しい。旅をしていて、生活の規則はきちんと守っていたし、私にもコハクにもサリちゃんにも優しかった。どうして大神官の放蕩息子をみんなが責めないのか、クレスを見ていて分かったような気がする。みんな、クレスが立ち直るのを待ってるんだ。今は迷っていい。迷って当然なんだよ。十七歳で世界は背負えない
その人は、俺の本質を見ていた。俺は本当に大神官のバカ息子で、どうしようもない。
俺はどうしたらいいんだろう。
わからない。わからない。
――自分が守らなければならないものが詳しく分からないから、怖いんじゃないかな
さいごに泡のようにその人の声が聞こえた。
なんて言っているのか、よく聞き取れなかった。
朝になった。
あの夢はなんだったんだろう。
寝ぼけまなこで目を擦って、洗面所へ顔を洗いに行く。
昨日、湖で散々泣いたけど、鏡を見ると目は腫れてなかった。
夢の中のことを
俺は夢の中で、あの人に重要な答えをもらったと思った。
でも、もうすでに夢を忘れかけている。
なんて言ってくれたのかも、もう覚えていない。
夢は夢。割り切ろう。
そう思っても現実でだって未熟な自分に、とても重苦しい気分になって洗面所の鏡でぼうっと自分自身を見た。
締まりのない顔をしている、と思う。目的を見失った顔。情けない。
でも、もうそろそろ神官学校へ行く準備をしないと。
昨日の校長の話を聞いて、さすがに今日サボる気分にはなれなかった。