終章 - 3 高尾山(3)

文字数 843文字

 3 高尾山(3)
 


 そんなことから、五時間ほど前のことだ。
 涼太の実家へ、一本の電話が掛かってきていた。
 電話口に出た涼太の母、真弓は最初、それほど深刻な話だと思わない。
 医師を辞めて、新たな人生を始めるくらいに受け止めて、
 ――親にくらい、前もって教えてくれてもいいじゃない?
 なんてことを感じたくらいだったのだ。
 ところが最後の最後で、
「吉崎くんの指導していた研修医に、永野芽依って女性がいるんですが、彼女の名前によく似ている女性と、彼は二十年ぶりに会うんだと言っていたそうでして……」
 関係ないかも知れないけれど……と、前置きをして、電話を切る寸前にそんなことを告げたのだった。
「その場所が、高尾山なんだと、吉崎くんは彼女に言っていたらしいんです」
 二十年ぶりに、永野芽依という名と、よく似た名前の女性と会う。
 ――二十年。
 ――永野芽依。
 ――高尾山。
 そんな言葉が頭の中でぐるぐる回った。
 そうして電話が切れた後、真弓は必死に考えたのだ。
 ――あれから確かに、もう二十年……。
 しかしいくら思い出そうとしても、名前の方がはっきりしない。
 それでも記憶の片隅には少女の顔がしっかりあって、高尾山に登ったという日の夜に、涼太が珍しく父親と一緒に帰宅したことも覚えていた。
 そして高尾山に登っただけでふらふらになったと告げて、
「今度は、もっと鍛えてから登るんだ」
 そう続けた後に、久しぶりとなるとびっきりの笑顔を真弓に向けた。
 しかし二度目はなかった筈だ。
 だからって、二十年も経った今、
 ――どうして今頃?
 そんなふうに思いながらも、真弓の不安はどんどん大きくなっていく。
 彼が医者を辞めるなんて考えられない。
 ――だから、心配なんです。
 そう告げた男の声が、何度も何度も頭の中で蘇った。
 そうしてとうとう我慢ならずに、真弓は夫の病院に電話を掛ける。
 早く帰ってきて欲しいと告げて、その頃にはもう完全に、
 ――涼太が〝行方知れず〟になっている。
 と、そう思い始めていたのだった。
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