第36話 得心いきませぬ

文字数 928文字


 久左衛門を蹴飛ばした。蹴飛ばされながらも久左衛門は村重をきりりと睨み言い返した。
「どちらが!」
 久左衛門も引くに引けぬ。
「この戦に勝ち目はござらん。ここで手を打たねば皆死にまする。そんなことも分からぬ殿の方が戯けておる」
「よう謂うた。儂が戯けであるならば、恥など微塵も感じぬ。よいか、この世で最も戯けた者はあの信長じゃ。あの戯け者をのさばらせておけば我ら妻子だけの犠牲で済まぬ。お主も知っておるだろう、すでにあの戯け者が御仏の心に背き幾千万の無辜を浄土に送ってきたことを」
 久左衛門は思った。先年からの信長の一向宗への仁義なき虐殺を。歯向かう者は武者だけでなく僧侶も一揆を起こした農民も、また将軍であろうと虐げた。歯向かわねど、自分にとって脅威になりうる種は悉く潰してきた。それが同盟を組む大名の妻子であろうと、容赦無く。
「ここで儂が信長に屈すれば、この日の本を布武で簒奪しようと謀る天下の逆賊を誰も止めることができぬ。この戦は我が戦にあらず。公儀の所領を取り戻す戦である」
 久左衛門はわかってしまった。これは村重の本心ではない。誰かから入れ知恵されている。この戦で勝てば旧幕府から知行国を与えてもらえると毛利、或いは本願寺から唆されているのでは。
 その私欲のために我が妻子まで犠牲になるというのか。久左衛門は涙ながらに訴えた。
「得心いきませぬ」
 しかし、村重は最後まで同意を見せなかった。
「我らが妻、子が悪鬼の生け贄になるというのなら公儀の戦における殉教であろう。浄土は約束されておる。剰(あまつさえ)え世はどちらに義があるかようわかっておる。後世に名を残すは我らじゃ。信長ではない」
 久左衛門には信長と村重が同じ悪鬼に見えた。これ以上説得を試みても鬼の心は変えられぬ。
「分かり申した。有岡へ戻りまする」
 信長の使者との約束、尼崎城と花隈城の開城、それに伴う有岡城の妻子の救命は果たせなかった。久左衛門に往く場所はない。戻る場所は有岡城ではなかった。
「我に代わり有岡を衛(まも)ってくれておること礼を申す。儂が信長を倒した暁には、そなたを格別に取り立てる所存故、安心せえ」
「有り難き幸せ。殿のご武運を共に戦いながら祈っております」
「うむ。大儀であった」
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