第1話 乱世の覇者を暗殺する

文字数 691文字

(脱ぐのじゃ!)
(えっ?)
(いまじゃ、ここで着物を脱げ!)
 衣茅(いち)は沸き起こる不安と戦いながら蟋蟀(こおろぎ)の声に耳をそば立てている。
(だ、大丈夫ですか?)
 衣茅も鈴虫の微かな啼き声で軒下の小太郎に返す。
(大丈夫じゃ、術は効いておる)
 軒下の蟋蟀の声が短くそう囁く。逡巡が鈴虫の声にならず衣茅の体を駆け巡る。しかし衣茅は唇をピクリとも動かさず懸命に鈴虫の声を発した。
(さ、されど、控えの者がまだすぐそこに・・・)
 軒下に返す。すると、蟋蟀に似せた小太郎の声が軒下から怒りを帯びてこう戻ってくる。
(心配いらん! 教えたであろう、喉笛の掻き方を)
 衣茅の結った長い髪には結髪用具である笄(こうがい)、即ち研ぎ澄まされた小刀が隠されている。
(教わりました)
(そのとおりやればよい。声など出せぬ)
 衣茅は思い出していた。欲づいた何人かの地侍の喉笛をこの手で掻き割いたことを。修行とはいえ彼らに恨みがあったわけではない。だが、忍術を覚えるためには練習台が要った。その時も、こうして師の小太郎と虫の声で意思疎通をしている。
(よいか、信長を殺れば、平穏は保たれる。おぬしが我らが里を守るのじゃ)
(し、承知仕りました)
 女人である自分に忍術を一から叩き込んでくれた伊賀忍術十一名人の一人、新堂小太郎を衣茅は師と仰いでいる。小太郎が謀ったこの暗殺は必ず自分の手で成し遂げるつもりだった。
 暗殺する相手は乱世の覇者織田信長。先年伊賀の里より甲賀を超え北方近江安土に天まで届かんとする巨城を湖畔に築城した。
 衣茅はこの巨城構える城下に、新堂小太郎と幾度も偵察に行った。乱世の覇者を暗殺するために。




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