第43話 殿、夜襲にござります!

文字数 1,491文字

 よもや本当に切腹しようなどとは思っていなかった。
 甲斐の手が止まる。刀身は腹に半身ほど刺さったままだ。
(こやつ、間者ではなかったのか)
 雄利は伊賀が差し向けた間者だと思っていた。偽りの報を流しこちらを欺く。だが、拷問もせぬうちから自害する間者はいない。
 甲斐は突き刺した短刀の柄を握りしめたまま雄利を睨み据えて言った。
「では、信じていただけるのであるか?」
 雄利は額に汗して囁いた。
「し、信じよう」
 甲斐が短刀を腹からゆっくりと引き抜いた。刀疵(かたなきず)から血が吹き出す。
(忍びづれが、武士(もののふ)の真似事を)
 武士に雇われる下忍は切腹の作法など学ばぬ。逃げてでも我が命を最後まで使い切る。それが伊賀から逃げてきたこの男はどうしてこう容易く腹を切ったのか。雄利には理解できなかった。
 じつは下山甲斐にも理解はできていない。術中にあったからだ。ここまで小猿の幻術には含められていた。即ち、疑われるなら腹を切れと。正気の下山甲斐ならばそんなことはしない。しかし、幻術に掛かっている甲斐には痛みも躊躇いもなかった。
 甲斐は腹も押さえず平然と言った。
「有り難きこと。拙者が伊勢国を必ずや勝利に導きますぞ」
 雄利は思い直すことにした。
(使うてみるか、この男)
 そして、滝川雄利は信雄に進言し8000の兵を預かり、下山甲斐を案内役に丸山城に向かい築城を始めたのである。
 しかし、その動きはすべて伊賀に筒抜けだった。

 滝川雄利の兵が丸山城に布陣し築城を始めてから三日後。百地丹波ら伊賀衆は丸山城を攻撃するため前線基地であった木津川の西側にある無量寿福寺を出て、丸山城に迫りつつあった。
 百地丹波は先に滝川雄利軍に間諜として送り出していた衣茅と小太郎からこんな報告を受けている。
 衣茅が伝えたところによると、
「おおかた眠らせました」
 丹波が返す。
「でかしたぞ」
 衣茅と小太郎は昨夜から敵軍の炊事方に変装して雑卒として忍び込み、敵兵の夕餉の握り飯に伊賀流眠り薬を混ぜた。眠り薬の成分は酒と大麻とアカシアの葉である。これがよく効いた。敵方は夕餉の後、日中の土木作業の疲れも相まって次々と眠りに落ちた。
 丹波は衣茅に尋ねた。
「城には誰が残っておる?」
「見張り番だけでござります」
 兵の多くは城から離れた寝所で寝静まっていた。
 小太郎が補足する。
「されどご安心あれ。物見櫓で皆気持ち良さげに居眠っておりまする」
 丹波は満足げにこう下知した。
「では、初手、かゝれ!」
 これを合図に背後にいた小猿が草笛を鳴らす。それをまた合図に伊賀の豪族の頭がそれぞれに持ち場に走る。彼らは二隊に分けられていた。
 まず、先遣隊の忍びが見張りがいないも同然の城内に忍び入り、柱という柱に菜種油と粉砕した硝石を塗り込んだ。
 これが済んだことを知らせる合図が帰ってきたところで、丹波が、
「二の手、かゝれ!」
 と告げた。これを受けて、城外に控えていた後発隊が一斉に城に向かって火矢を射掛ける。
 放たれた矢は次々と城の柱に命中した。菜種油と硝石が塗布された柱に火が燃え移り、硝石に引火し柱を粉砕した。
 そこでようやく寝静まっていた滝川雄利の兵たちは目覚める。
「何事ぞ?」
 寝所の一番奥にいた雄利が問う。家臣が慌てて飛んでくる。
「殿、夜襲にござります。城が燃えております」
「なんだと! 敵はいずこに?」
「わかりませぬ」
「戯け! 早う火を消せ!」
 こうしている間にも、火は丸山城をすっぽりと包み込み灰燼に帰していた。
 未明には城は跡形もなく焼け落ち、滝川雄利軍は全軍伊勢に撤退した。
 下山甲斐はこのどさくさに紛れ辛くも逃げ落ちた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み