死者

文字数 1,849文字

 四肢をだらりと下げて飛ぶ死者は善き死者。立った姿勢で飛ぶのは憎悪を抱えた死者。空を、何もないのにやたら折れ曲がりながら飛ぶ青白い光があれば、それは死者の憎悪である。

 一枚の絨毯のように、鳥たちが羽ばたいてゆく。
 死へ向かう一つの強固な意志を見せつけるかのように、霧の先の夜へと。

 空には病んだ太陽が垂れ流す血のような夕闇が広がるのみとなった。

 死者たちの翼を作る技術で栄えるこの町も、下町に広がる光景は他と変わらない。父親たちは戻る保証のない漁に出る。母親たちは工場で、通りに聞こえるほどの大声で罵倒される。路上で遊ぶ子供たちは皆、文字が読めない。

 ウラルタは板張りの道を歩み、町を囲む防波壁にたどり着いた。壁に取りつけられた、常に日陰の、寒い風が吹きすさぶ、錆びてぎしぎし軋む陰鬱な階段を上って、その壁の天辺に立った。
 それから単眼鏡(たんがんきょう)を覗いてどこかに大きな建物がないか探したが、赤く色づいた乳白色の闇の中には、何も見出せなかった。

 何人かの男達が、胸壁に(もた)れて海を見ていた。誰もが老いて見える。彼らが海と霧に何を探しているのかは知る由もない。ただ、伝説を聞いた事がある。夜に呑まれ瓦解したセルセトの都より、古き魔術師の霊が白い光となりて現れ、真水に関する術法を授かり金持ちになった人が昔いたのだと。同じ事が自分の身にも起こらぬかと、期待しているのだろうか。

 ウラルタは肩掛け鞄に手を入れ、薄い紙束を掴んで出した。糊で補修された大判の冊子である。
 演劇のパンフレットだ。
 歌劇に違いない。

『どの相からも見えるものがただ一つある』

 かつて祖父は語った。

『歌劇場だ。水相が栄華を極めた頃からの言い伝えだ。遠くで幻のように揺らぎ、誰もたどり着けない。この相で言うなら、ここより北のネメス……そこから今も見える』

 水に濡れ、乾かされ、幾度となく折り畳まれたせいでボロボロになったパンフレットから、ウラルタは何がしかの真実を見出そうと目を凝らす。黒字に白く浮き上がる――歌劇場。
 祖父は絵を描いてくれたことがあった。古い伝承に残る歌劇場。祖父自身も昔、幼い頃に見た本の挿絵として描かれていたというその外観を。

「……同じ」

 ウラルタはパンフレットを抱きしめ、離した。鞄にしまい、今度は封筒の束を取り出す。
 その差出人の名が自分の名であり、変わっていない事を、ウラルタは確かめた。
 そしてそれらの封筒が、自宅に届いた順に並べられており、捺された消印の日付がまだ来ぬ年月である事を確かめた。

 一番初めに来た封筒の消印は、三十年後の未来、ネメスから。
 それから順に、消印の日付は近い未来になり、捺印された都市の名も、少女の家があるイグニスの町に近づいてくる。

 ウラルタは、このありえなさが消えてしまう事を恐れていた。ある時ふと見たら、差出人の名が自分の名ではなくなってしまっていないか。その消印の日付が過ぎたる過去の日付になっていないか。都市の名が、今は滅びたるネメスの名ではなく、卑近な、例えばこのような、どこにでもある貧しい町の名になっていたら。

 どうして何の希望もなく、つまらぬ日々に戻れるだろう。

 少女の心は信じた。

 この手紙が来た道を遡れば、そこに未来の私がいるのよ。滅びたネメスに。あるいは、もしかしたら……ネメスから見えるという歌劇場に。

 そこに理由があるの。
 私たちの漂流を納得させる理由があるの。でなければ、何故、何に、私が呼ばれているというの。

 ウラルタは歩き出すための希望と確信を得た。
 水筒を確かめた。真水はまだある。携行食料もある。歩き出した時、海の上、視界の端で、青い誘導灯を点す海堡(かいほう)の砲門が、唐突に火を噴いた。

 立った姿勢で飛ぶ悪しき死者の姿が弾け、撃ち落とされた。

 光る物が飛んできた。

 それはウラルタの背後に落ちて、金属が砕ける音を立てた。

 ウラルタは振り向き、確かめた。男たちが胸壁から離れ、ウラルタの後ろで、落ちてきた何かに集った。

「こりゃあ、……さんの娘さんのペンダントじゃねえか」

 潮風に痛めつけられた老人の喉が掠れた声を出す。

「こんな事、……さんにどう言えば」
「言わんでいい。何も言う必要はねぇんだ」

 そして空を、翼工場から解き放たれた新しき善き死者たちが、手足をだらりと下げて飛び去っていった。


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