腐術

文字数 2,189文字

 大砲が火を噴き、悪しき死者が撃ち落とされた。死者はウラルタが向かう方向に落ちていった。そのまま歩いて行って角をいくつか曲がると、死者が身に着けていた筈のなけなしの財を求めて、人々が通りをうろついていた。

 ウラルタは壁が緑色に塗られた、大きな建物の戸を開けた。大量の食器が触れ合う音や人々の話し声、肉をあぶる音などが、湿った熱気と共に溢れ出てきた。各テーブルで大人たちがカードを繰る間を縫い、奥のテーブルの、貝毒で酩酊状態に陥っている男の隣に座り、売り子を呼び、防水マントの下から銅貨を出して渡した。

「クラッカーをちょうだい」

 本当は野菜とチーズもつけたいが、贅沢は言えない。それらの食べ物の匂いだけで自分を誤魔化し、満足することにした。

 ウラルタは、テーブルに肘をつきまどろんだ。激しい雨が建物の屋根を叩き始めるのを眠りの中で感じた。雨音をきっかけに僅かに覚醒した意識が、周囲の物音を認識し始めた。いびき、ざわめき、売り子を呼ぶ声、『腐術』――腐術?

 完全に覚醒し、ウラルタは目を開けて周囲を窺った。隣の男は深く眠っている。壁際に丸く人だかりができていた。ウラルタは立ち上がり、人垣越しに、輪の中心を窺った。

 老いた男が横たわっていた。顔は灰色で、開いた口から見える舌は細く尖っており、死んでいるとわかる。床には死体を中心に円陣が描かれ、五本の蝋燭が陣を取り囲んでいる。死体の横にはローブで顔を隠した女が座りこんでいた。

 ウラルタは隣の男に尋ねた。
「何をするの?」
「亡霊を呼ぶんだとよ。とびきり古い奴をな」

 女は眉間に皺を寄せ、目を閉じてしきりに死体の顔の上で両手を動かしていた。何も起きなかったが、次第に額が疼き、耳鳴りがし始めた。それはウラルタだけではない様で、周囲の人間たちも額をこすったり、耳を抑えたりし始める。

 いきなり死体が上体を起こした。大人達がどよめき、ウラルタもたじろぐ。

「この者は滅びしネメスの大聖堂図書館の司書である」女が言った。「何でも尋ねてみろ。ただし、質問は三つまでだ」

 困惑するような静けさを挟んでから、誰かが口を開いた。

「何だってそんな古い時代の霊が今ここにいるって言うんだい」
 死体が目を開けた。白濁した眼球はどこも見てはいない。

「待っていた」
 亡霊は応える。
「今一度、(いにしえ)のネメスの歌劇場に灯が点り、全ての相より役者たちが(つど)おうとしている。この時を待っていた」
「ネメスの歌劇場なんてお伽噺じゃねえか」
 誰かが言う。
「全ての相より役者が集うったって、水相はもう相を跨ぐ事も、よそから来ることも、そう容易くはできないんだろ? 水相は全ての陸を失っちまった。かつて他の相に干渉しすぎた代償として」

「相を跨ぐのに必要な代償は陸ではない。時間だ」
 亡霊は淀みなく答えた。
「相とはすなわち、世界の中の、人間が現実として認識できる範囲。他の相へ渡るエネルギーを得る代償として、相は時間を支払う。水相とて例外ではない。時間を渉相術のエネルギーに変換し、その力で、現実として認知可能な領域を越えるのだ」

「では何故!」
 ウラルタは声をあげた。
「では何故、水相は陸地を失ったの?」

 死体は白濁した目をウラルタに向けた。

「蜂たちは諫言(かんげん)した」

 その声は、これまでよりも一層低く響いた。

「木もまた諫言した。我らネメスの司書も書記官も、そして一部の聖職者も、あの歌劇の上演を止めるよう諫言した。だが忌々しい、あの発相の……」

 声は小さくなり、ぶつぶつと呟くような調子になる。ウラルタは耳に意識を集中した。

「……月を欲するなかれ。全ての闇が打ち払われる日が来るなどと二度と思うなかれ。されどまだ、幻影に希望を求めるなら、覚悟せよ」
 死体の声が邪悪な響きを帯びたような気がして、ウラルタは体を強張らせた。
「覚悟せよ――」

 死体は元通り、床に仰向けに横たわった。その体の、皮膚が露出した部分に、白い粉が湧き始め、体を覆った。

「質問は三つまでだ」
 女は蝋燭を消し、片付け始める。見物人達は女の前に置かれた椀に硬貨を入れて、順次解散した。
「薄気味悪ぃ……何だ、この粉は」
 すると死体はむくりと起き上がり、壁伝いに歩いて建物から出て行こうとする。

「一夜にして滅んだネメスの民は、皆体から塩を噴いて死んでいたという」
 女は無愛想に見物人に答えた。
「その記憶だろう。亡霊は屍という器がある限り、私がかけた術の残滓(ざんし)につき動かされ、ネメスに帰ろうとする(はず)だ。うまくいくかどうかは、わからんがな」

 ウラルタはぐっと奥歯を噛みしめて、死体の後を追った。死体は既に建物を出ていた。ひどい雨だった。強風に弄ばれながら、右によろめき、左によろめき、明かりのない細い道へ消えて行く。ウラルタも同じようによろめきながらついて行った。

 やがて細い水路に出た。死体は繋ぎ止められていた小舟に乗りロープを外す。ウラルタも町の床を蹴って、同じ小舟に乗った。

 小舟は雨と風に押し出されて、タイタスの水路を夕闇が濃くなる方へ突き進む。

 ウラルタは後ろを振り向いた。
 町の灯が、雨の膜の向こうに、既に遥かに遠い。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み