木人形
文字数 3,610文字
未来からの手紙を頼りに、ウラルタは旅を続けた。真水の管理が杜撰 な町では、出稼ぎ労働者に紛れて真水を得る事ができた。それができない時には、雨水を貯めた。幸い雨は多く、反面、それゆえ海上で危険に遭う日も多かった。
船がひどく揺れる時には、無人の海堡に点る青い誘導灯が、手招く亡霊のように見えた。その向こうの黒く聳える町へ、船は溺れる人のように進んだ。
※
船が町に着いても、ウラルタはなかなか降りなかった。小型船用の駅に船が繋がれた後も、体が上下左右に激しく揺さぶられる感覚が続き、ウラルタは木の椅子に腰かけて、背を丸め目を閉じていた。背後では、先ほどまで波に洗われていた窓が、今は雨に洗われている。その音に無言で耳を傾けていると、誰かが船内に戻って来て、前に立った。
吐き気を堪えて目を開けると、人の手が、目の前に差し出された。
僅かでも口を開けば吐きそうだった。ウラルタは無言で、差し出された手を握ろうとしたが、驚きに打たれ硬直した。
差し出された手はつるつるで、木目があった。球体の関節が指を動かし、おいでと合図をくれている。顔を上げた。それは木彫りの人形で、顔には目と口の代わりに、穴が三つ開いていた。
右目の穴から、一匹の蜂が橙色の顔を覗かせた。蜂は探るように短い触角をそよがせて、黒い大きな複眼でウラルタを凝視した。そのまま後ずさり、穴の中に戻った。木人形がどのような魔術に操られているのかは知らないが、敵意はないようだ。ウラルタが立ち上がると、ゆっくり後ろを向き、先導した。木人形が纏う外套は臭く、カビが生えていた。
船を下りても、体が揺れている感覚は消えなかった。つんのめって這いつくばり、暗い屋根の下で、床から海に首を突き出して胃液を吐いた。
木人形はその間、動かず待っていた。右目から、蜂が、身を乗り出して見ていた。心配しているようにも、動けぬほど弱ったら刺してやろうと目論 んでいるようにも見えた。
ウラルタは屋根がない場所に力なく歩いて行き、雨水を溜めるべく、水筒の蓋を外し置いた。海に向かってよろめいた時には、木人形はウラルタの服をそっと引き、支えてくれた。
木人形が駅舎の戸を開いた。温かい空気が顔に触れた。駅舎の中にはストーブがあり、火に当たることが許されていた。
「……ありがとう」
木人形は駅舎に入って来なかった。本当は人々の輪に交じって服を乾かしたかったが、隅のベンチに腰掛けるだけで満足する事にした。
「あんた、あれを見るのは初めてか?」
ストーブの前に座る白髪頭の老人が、ウラルタを見て尋ねた。ウラルタは青白い顔のまま「はい」と応じた。
会話は続かなかった。皆無言で雨が弱まるのを待っていた。雨音に、甲高い泣き声のような、不気味な声音が混じった。死者だ。一定周期で近くなったり遠くなったりする。駅の上を回っているのだ。
「去らんな」
誰かが呟く。
「人を探しているのかもしれん」
私のおじいちゃんは、あんな風に泣かなかったとウラルタは思い返す。あの日、おじいちゃんが迎えに来た時、私は。私は。
「早く夜に行けばいいのにねぇ。ここには何もない」
老婆が憐れむように言った。
「どうしてあいつらは夜に行くんだ?」
「夜にはネメスがある」
ウラルタの心臓が強く脈打った。
「ネメスの大聖堂図書館には、腐術の魔女が住んでおる。その魔女のところに行くという」
「作り話じゃねえか。ばあさん、それ、古い劇のお話だぜ。本当の事じゃない」
若い男の言葉に、老婆は一旦黙った。死者は空で泣き続けていた。また吐きそうになった。頼むから、死者に黙っていてほしかった。
「よほどの未練があるんだねぇ」
老婆が言う。
「自殺者かもしれんねぇ」
自殺。その一言が、重く心にのしかかった。
水相では、自ら命を絶った人間は、また人間としてこの水相に生まれてくる。何度も輪廻を繰り返すのだ。ただ漂流するだけの人生を。夜から逃げるだけの人生を。死なないように生きるだけの人生を。
生への未練から。やり遂げられなかった事への未練から。
未練。
ウラルタは腕を抱き、その腕に爪を立てる。私に未練はない。家族もいない。友もいない。希望もない。
それでも、自ら命を絶てば必ず、未練からこの世界に再度生まれるという。
何への未練だというのだろう。それでも、何かをする為に、もう一度生まれたいと願うのなら、それは何なのだろう。ウラルタには不思議だった。
生きる意味があるなら。私たちが、何かをするために生まれてきたというのなら。間違って生まれてきたのではないのなら。ただ産み落とされたのではないのなら。どこか高い世界から、落ちてきたのではないのなら。
私は希望を探さなければならない。
「ネメスには死者を慰める術や、木を操る術があった。死者たちが滅亡したネメスを目指しているとしても、おかしくはなかろう」
と、別の老人。
「木を操る術?」
「外の人形を見ただろう。あれだ」
「ネメスが滅んだのは陸が消えてすぐだと聞くぜ。そんな昔からあれが動いてるって?」
「そうだ」
老人のしゃがれた声を、ウラルタは耳に意識を集中して聞いた。
「ネメスは木を操る術で栄えた。木は四六時中働いた。木は戦争にも行った。木は人間がわけもなく虐げ、壊しても、人間に尽くした」
誰かが駅舎の戸を叩いた。部屋中が沈黙した。
また叩いた。
死者の泣き声が、その音に紛れて聞こえた。
「生きている人間なら、勝手に入ってくる」
老人は、震える声で言った。
ウラルタは静かに立ち上がった。誰もが背を丸めている。戸を開けた。木人形が虚ろな目と虚ろな口を開けて立っていた。
駅舎を出て、後ろ手で戸を閉めた。
「どうしたの」
木人形は静かに踵を返し、ウラルタを、彼女が水筒を置いた方に導いた。屋根と床の間に、雨音が響いていた。白い息を吐きながら、ウラルタは水筒を置いた場所にたどり着いた。
「溜まってないじゃない」
水筒を拾い上げる。木人形は別の方向を見ていた。腕を上げ、暗がりを指さした。
ウラルタは目を凝らした。目が慣れるまでに時間がかかった。
木人形は、駅と町の入り口を繋ぐ桟橋を指していた。
あっ、と声をあげた。
桟橋の手すりとなっている片側のロープが、切れて海の中に消えていた。橋自体が斜めになっている。駅と桟橋は今にも分離しそうだ。
ウラルタは今すぐにでも、自分だけ走って町に逃げこみたかった。その衝動を堪えて駅舎の戸を開けた。
「出てください」
何人かが顔を上げた。
「桟橋が壊れそうです。危険です」
そして耐えきれず、我先に桟橋まで走った。
壊れていない方の手すりを両手で掴んだ。恐る恐る橋に足をかけると、予想よりはしっかりした支えが橋の下にあるのを感じたが、ウラルタの体重で手すりは海に向かって大きく傾き、心細かった。
横歩きで町に向かって歩き出すと、何人かが事態を把握して、同じように桟橋を渡ってきた。桟橋がさらに、海に向かって大きく傾いた。
幸いにも桟橋は短かった。ウラルタはすぐに町にたどり着いた。しっかりした床に立つと、恐怖で体中の力が抜け、四つん這いで水辺から離れた。
駅舎を出た人々が、二人、三人と、次々に町に到達する。十人ほどがまだ駅に取り残されていた。
その人々が、ほとんど間隔を開けず桟橋を渡り始めた。床板が、耐えきれず、大きく傾いた。人々の足が海に接し、皆大声をあげ、古いロープにしがみついた。
ロープが切れた。
悲鳴があがった。
何人かは自力で町に泳ぎ着いた。先に町に避難していた人々が、彼らに手を貸して引き揚げた。
ウラルタはまだ呆然とし、動けなかった。
大波が来て、海に浮く人々の頭を洗った。海藻交じりの、緑色で、臭いにおいがする波だった。その波はウラルタにも飛沫を浴びせた。
町から分離した駅が、波に乗って揺れて、為す術なく流されてゆく。
駅が遠ざかった為に、遮られていた外の光が届き、視界が明るくなった。
駅の縁に、あの木人形が立っていた。
まだ海に浮く人々に、先に避難した人々が備え付けの浮き輪を投げる様子を、立って見ていた。
木人形の目から蜂が出てきた。蜂は活路を探すように、ぶんぶんと飛んだ。けれど、大粒の雨と風にさらされて、すぐに木人形の目に戻った。
木人形と蜂は、ウラルタを見つめ続けた。
遠ざかってゆく。
ウラルタも見つめ返した。
駅舎が折り重なる雲と黒い海が接する彼方に吸いこまれ、ただの黒い点になり、ついに見えなくなってしまっても、まだ見つめ返していた。
船がひどく揺れる時には、無人の海堡に点る青い誘導灯が、手招く亡霊のように見えた。その向こうの黒く聳える町へ、船は溺れる人のように進んだ。
※
船が町に着いても、ウラルタはなかなか降りなかった。小型船用の駅に船が繋がれた後も、体が上下左右に激しく揺さぶられる感覚が続き、ウラルタは木の椅子に腰かけて、背を丸め目を閉じていた。背後では、先ほどまで波に洗われていた窓が、今は雨に洗われている。その音に無言で耳を傾けていると、誰かが船内に戻って来て、前に立った。
吐き気を堪えて目を開けると、人の手が、目の前に差し出された。
僅かでも口を開けば吐きそうだった。ウラルタは無言で、差し出された手を握ろうとしたが、驚きに打たれ硬直した。
差し出された手はつるつるで、木目があった。球体の関節が指を動かし、おいでと合図をくれている。顔を上げた。それは木彫りの人形で、顔には目と口の代わりに、穴が三つ開いていた。
右目の穴から、一匹の蜂が橙色の顔を覗かせた。蜂は探るように短い触角をそよがせて、黒い大きな複眼でウラルタを凝視した。そのまま後ずさり、穴の中に戻った。木人形がどのような魔術に操られているのかは知らないが、敵意はないようだ。ウラルタが立ち上がると、ゆっくり後ろを向き、先導した。木人形が纏う外套は臭く、カビが生えていた。
船を下りても、体が揺れている感覚は消えなかった。つんのめって這いつくばり、暗い屋根の下で、床から海に首を突き出して胃液を吐いた。
木人形はその間、動かず待っていた。右目から、蜂が、身を乗り出して見ていた。心配しているようにも、動けぬほど弱ったら刺してやろうと
ウラルタは屋根がない場所に力なく歩いて行き、雨水を溜めるべく、水筒の蓋を外し置いた。海に向かってよろめいた時には、木人形はウラルタの服をそっと引き、支えてくれた。
木人形が駅舎の戸を開いた。温かい空気が顔に触れた。駅舎の中にはストーブがあり、火に当たることが許されていた。
「……ありがとう」
木人形は駅舎に入って来なかった。本当は人々の輪に交じって服を乾かしたかったが、隅のベンチに腰掛けるだけで満足する事にした。
「あんた、あれを見るのは初めてか?」
ストーブの前に座る白髪頭の老人が、ウラルタを見て尋ねた。ウラルタは青白い顔のまま「はい」と応じた。
会話は続かなかった。皆無言で雨が弱まるのを待っていた。雨音に、甲高い泣き声のような、不気味な声音が混じった。死者だ。一定周期で近くなったり遠くなったりする。駅の上を回っているのだ。
「去らんな」
誰かが呟く。
「人を探しているのかもしれん」
私のおじいちゃんは、あんな風に泣かなかったとウラルタは思い返す。あの日、おじいちゃんが迎えに来た時、私は。私は。
「早く夜に行けばいいのにねぇ。ここには何もない」
老婆が憐れむように言った。
「どうしてあいつらは夜に行くんだ?」
「夜にはネメスがある」
ウラルタの心臓が強く脈打った。
「ネメスの大聖堂図書館には、腐術の魔女が住んでおる。その魔女のところに行くという」
「作り話じゃねえか。ばあさん、それ、古い劇のお話だぜ。本当の事じゃない」
若い男の言葉に、老婆は一旦黙った。死者は空で泣き続けていた。また吐きそうになった。頼むから、死者に黙っていてほしかった。
「よほどの未練があるんだねぇ」
老婆が言う。
「自殺者かもしれんねぇ」
自殺。その一言が、重く心にのしかかった。
水相では、自ら命を絶った人間は、また人間としてこの水相に生まれてくる。何度も輪廻を繰り返すのだ。ただ漂流するだけの人生を。夜から逃げるだけの人生を。死なないように生きるだけの人生を。
生への未練から。やり遂げられなかった事への未練から。
未練。
ウラルタは腕を抱き、その腕に爪を立てる。私に未練はない。家族もいない。友もいない。希望もない。
それでも、自ら命を絶てば必ず、未練からこの世界に再度生まれるという。
何への未練だというのだろう。それでも、何かをする為に、もう一度生まれたいと願うのなら、それは何なのだろう。ウラルタには不思議だった。
生きる意味があるなら。私たちが、何かをするために生まれてきたというのなら。間違って生まれてきたのではないのなら。ただ産み落とされたのではないのなら。どこか高い世界から、落ちてきたのではないのなら。
私は希望を探さなければならない。
「ネメスには死者を慰める術や、木を操る術があった。死者たちが滅亡したネメスを目指しているとしても、おかしくはなかろう」
と、別の老人。
「木を操る術?」
「外の人形を見ただろう。あれだ」
「ネメスが滅んだのは陸が消えてすぐだと聞くぜ。そんな昔からあれが動いてるって?」
「そうだ」
老人のしゃがれた声を、ウラルタは耳に意識を集中して聞いた。
「ネメスは木を操る術で栄えた。木は四六時中働いた。木は戦争にも行った。木は人間がわけもなく虐げ、壊しても、人間に尽くした」
誰かが駅舎の戸を叩いた。部屋中が沈黙した。
また叩いた。
死者の泣き声が、その音に紛れて聞こえた。
「生きている人間なら、勝手に入ってくる」
老人は、震える声で言った。
ウラルタは静かに立ち上がった。誰もが背を丸めている。戸を開けた。木人形が虚ろな目と虚ろな口を開けて立っていた。
駅舎を出て、後ろ手で戸を閉めた。
「どうしたの」
木人形は静かに踵を返し、ウラルタを、彼女が水筒を置いた方に導いた。屋根と床の間に、雨音が響いていた。白い息を吐きながら、ウラルタは水筒を置いた場所にたどり着いた。
「溜まってないじゃない」
水筒を拾い上げる。木人形は別の方向を見ていた。腕を上げ、暗がりを指さした。
ウラルタは目を凝らした。目が慣れるまでに時間がかかった。
木人形は、駅と町の入り口を繋ぐ桟橋を指していた。
あっ、と声をあげた。
桟橋の手すりとなっている片側のロープが、切れて海の中に消えていた。橋自体が斜めになっている。駅と桟橋は今にも分離しそうだ。
ウラルタは今すぐにでも、自分だけ走って町に逃げこみたかった。その衝動を堪えて駅舎の戸を開けた。
「出てください」
何人かが顔を上げた。
「桟橋が壊れそうです。危険です」
そして耐えきれず、我先に桟橋まで走った。
壊れていない方の手すりを両手で掴んだ。恐る恐る橋に足をかけると、予想よりはしっかりした支えが橋の下にあるのを感じたが、ウラルタの体重で手すりは海に向かって大きく傾き、心細かった。
横歩きで町に向かって歩き出すと、何人かが事態を把握して、同じように桟橋を渡ってきた。桟橋がさらに、海に向かって大きく傾いた。
幸いにも桟橋は短かった。ウラルタはすぐに町にたどり着いた。しっかりした床に立つと、恐怖で体中の力が抜け、四つん這いで水辺から離れた。
駅舎を出た人々が、二人、三人と、次々に町に到達する。十人ほどがまだ駅に取り残されていた。
その人々が、ほとんど間隔を開けず桟橋を渡り始めた。床板が、耐えきれず、大きく傾いた。人々の足が海に接し、皆大声をあげ、古いロープにしがみついた。
ロープが切れた。
悲鳴があがった。
何人かは自力で町に泳ぎ着いた。先に町に避難していた人々が、彼らに手を貸して引き揚げた。
ウラルタはまだ呆然とし、動けなかった。
大波が来て、海に浮く人々の頭を洗った。海藻交じりの、緑色で、臭いにおいがする波だった。その波はウラルタにも飛沫を浴びせた。
町から分離した駅が、波に乗って揺れて、為す術なく流されてゆく。
駅が遠ざかった為に、遮られていた外の光が届き、視界が明るくなった。
駅の縁に、あの木人形が立っていた。
まだ海に浮く人々に、先に避難した人々が備え付けの浮き輪を投げる様子を、立って見ていた。
木人形の目から蜂が出てきた。蜂は活路を探すように、ぶんぶんと飛んだ。けれど、大粒の雨と風にさらされて、すぐに木人形の目に戻った。
木人形と蜂は、ウラルタを見つめ続けた。
遠ざかってゆく。
ウラルタも見つめ返した。
駅舎が折り重なる雲と黒い海が接する彼方に吸いこまれ、ただの黒い点になり、ついに見えなくなってしまっても、まだ見つめ返していた。