ミューモット

文字数 2,911文字

「ドブ街か」
 護送票を見た官吏が侮蔑の眼差しをくれた。貧しい者が更に貧しい者に向ける侮蔑が絶えずそうであるように、激しい嫌悪と憎しみが交ざっていた。

 ウラルタはタイタスの二人の警邏官に左右を挟まれ、護送票に記された住所へ連れていかれた。先ほどドブ街と聞いたその地区は町の外れにあり、無数の小屋付きの筏が頼りなく身を寄せ合う事によって形成されていた。筏と筏の隙間の細く区切られた海は、町から流れ出た廃液によって虹色の油膜に覆われ、白く泡立っていた。腐臭が漂い、その臭気は筏を繋ぐ細い橋の上で一層濃くなった。

 警邏官は一つの筏の、一つの小屋の前で立ち止まり、ウラルタの肩を後ろから小突いた。

「追って、中央から出頭命令が来る」
 と、やたらと威圧的に言った。
「わかっていると思うが、無許可に町を離れるのは重罪だ。覚悟しておけよ」
「どれくらいの刑になるの」
 ウラルタは好奇心から尋ねた。「知るか」と警邏官は応じた。
「せいぜい言い訳を考えておくんだな」

 ウラルタは反感をこめて警邏官を睨んだが、それが何になるわけでもなかった。警邏官は去り、ゆらゆらと揺れる筏に一人、ウラルタが残された。ウラルタはしばらく呆然と佇み、それから、小屋に歩み寄った。この町に長居は無用だ。旅を続けなければならない。役立つ物を拾って行こう。ウラルタはもう一度、つくづく思った。あの老女と一言も会話をしなくて、本当に良かった、と。

 小屋の入り口に戸はなく、重く垂れ下がる古い布が目隠しの役目を果たしていた。ウラルタは、その古い布の下にそっと差しこまれた一通の封筒に気付いた。
 拾い上げてみると、ウラルタ宛ての封書であった。
 差出人もまた、ウラルタ自身であった。
 消印の日付は二十年後。
 たまらず封を破った。中には紙が一枚。そして、一言だけ記されていた。

『いつか全ての光と闇が和合する場所で、月が落ちてくるのを見よう』

 何か重いものが筏に乗って来るのを感じた。

「よう、シオのババアがえらく若返って帰って来たぜ」

 ウラルタは肩越しに後ろを確かめた。そして、誰かが筏の先端に立っており、まだ自分との間には距離があると把握するや、相手の容貌も、人数も確認せず、隣の筏に飛び移った。

 待て、と怒鳴り声が追いかけてきた。

 ウラルタは筏から筏へ、小屋の陰から小屋の陰へ、町の壁を目指して走った。

 途中で、どこかに封書を落としてしまった事に気がついた。町にたどり着くまでに、何人かとすれ違ったように思う。最後の筏を飛び越え、町のしっかりした床に立った時には、鞄がやけに軽くなっていた。

 鞄が大きく裂かれていた。ウラルタが金目の物を落として行くのを期待して、誰かがすれ違いざまに裂いたのだ。ウラルタは鳥肌を立てる。後生大事に持ち歩いていた封書は全て、こぼれ落ちてしまっていた。

 何かを間違えたのだ、と、ウラルタは打ちひしがれながら考えた。あの小屋の前で立ち止まりすぎたのが間違いだったんだ。逃げ道が間違いだったんだ。
 そして、ドブ街を抜けた安堵感から立ち止まってしまった事もまた、間違いだった。

 筏から、人影が目の前に飛び出してきた。ウラルタにできた事は、僅かに体を強張らせる事だけだった。力強い腕によって体を近くの壁に押しつけられた。鞄が腕から滑り、足許に落ちた。

 高い壁が生み出す影の中で、ウラルタは目に黄昏の光を集めて相手を凝視した。

 男だった。三十前後に見える。その体格と射るような目の光で、抵抗しても勝てる相手ではないとウラルタは悟る。男は右手でウラルタの防水マントの襟を掴み、壁に押しつけていた。そして、左手には、数通の封書と、何度も水に濡れたせいでボロボロになったパンフレットを握りしめていた。

 金を要求されると思いきや、思わぬ事を男は尋ねた。

「これをどこで手に入れた」

 ウラルタは目を見開き、男の質問の意図を探ろうとするが、相手の表情に漲る殺意にも似た真剣さからそれを汲み取ることは出来なかった。

「それ、あんたが()ったの?」
「そんな事はどうでもいい――」

 子供が筏から町に飛び移ってきた。下着しか身に着けておらず、痩せこけている。

「ねえ、ミュー……」
「下がってろ!」

 男が怒鳴った。

「何よ!」

 ウラルタも男に怒鳴った。
「欲しいならあげるわよ、そんな紙屑! 放せ! あんたドブ臭いのよ!」
「ネメスに行くつもりじゃないだろうな」
 ウラルタは凍りつくような衝撃を堪えた。

「あんたには関係ないでしょ」
「お前の名は?」

 真正面から男を睨みつけながら、ウラルタは懸命に考えた。足許(あしもと)では子供がウラルタの鞄を漁っている。

 男の関心がまずパンフレットと封書にある事は間違いない。封書に記された名の主が自分であると知られれば、どのような危険が、あるいは進展がもたらされるか、予測できなかった。

 ウラルタは今一度慎重に、男を見定めた。ドブ街のような貧民街はこれまでも見てきた。この男はドブ街の人間ではないとウラルタは判断した。着ている物がちゃんとし過ぎている。

 ならば欺けると、ウラルタは踏んだ。

「シオ」
「これをどこで手に入れた」
「これって? その紙屑の事? 鞄の事?」
「両方だ」
「ちょっと拝借しただけよ。馬鹿なよそ物がぼうっとしてたから。私を警邏に突き出すつもり?」
「何故こんな物を掏った?」
「紙屑しか入ってないって知ってたら、掏らなかったわ」
「書かれている内容を読んだか」

 ウラルタは震えながら嘘をついた。

「私、字、読めない……」
「ねえ、ミューモット、こいつ何にも持ってないよ!」

 子供が言う。
 男の目から張り詰めていた光が消えた。

「どこで盗った?」
「駅で」
「どんな奴が持っていた」
「女……若い……それが何だって言うのよ」

 手が離れる。男は散らばった封書をかき集め、拾い上げた。その左手に炎が宿る。パンフレットも、封筒も、見る間に灰に変わってしまったのでウラルタは衝撃を受けた。この男は魔術師だ。

「ねえ、あんた、さっき言ってたネメスってどういう所? 金持ちがいる所? 仕事がある所?」
「やめておけ。ネメスに行こうとして帰って来た奴はいない」

 男は背を向ける。ドブ街とは反対方向、町の路地の闇深くに、マントの裾をはためかせて消えて行く。駅に行くつもりだろうか。居もしない、鞄を失くした若い女を探して。

「待って、ミューモット」置き去りの子供が憐れな声をあげ、追いかける。「どこに行くの、ねえ、ミューモット」

 帰って来るつもりはないわ、と再び一人になったウラルタは、胸の内で答えた。
 続けて、ではどうするつもりなのだろうと自問する。

 たどり着いた場所に死ぬまでいる事になるのか。だとしたらその場所で、どのように死ぬのだろうか。

 飢えて死ぬのか。
 渇いて死ぬのか。
 凍えて死ぬのか。

 その事を、旅に出て以来、初めて考えた。


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