呼応
文字数 2,600文字
ヴェルーリヤは群晶の前に椅子を設けて老人を待った。一番大きな水晶を睨みつけて待つ内、老人が現れて、皮肉っぽい口調で言った。
「今日はお前の神の名を呼ばんのかね?」
「もはやジェナヴァに神はおらぬ」
神を待つ日々に疲れ切ったヴェルーリヤは、殺気立った声で答えた。
「神殿が閉ざされて以来、外界で何が起きた」
「ほう、お前が私に教えを乞うのかね。これは驚いた」
老人はわざとらしく目をくりくり動かしてから答えた。
「そうさな、何と言っても一番大きな出来事は、歌劇が行われた事かの」
「歌劇?」
「そうだ。全く、お前は物を知らなすぎる。水相という相があってだな。様々な技術が他の相に比べぬきんでて発達した相だった。水相はその力で他の相に侵略し支配した」
ヴェルーリヤは暗い眼 で老人を見つめ、先を促した。
「水相による支配から逃れるべく動いたのが、発相におけるタイタス国だ。ネメスの都で神レレナとネメスの託宣によって魔性の歌劇が書かれた。その歌劇が上演されることによって、水相は没落した」
「レレナとネメス……。それほど高位の神々が何故、人間の身勝手な争いに手を貸したのだ?」
「さてな。神の考えを知ろうとするな。ろくな事にならん」
最高位の神レレナの名に、ヴェルーリヤは驚いた。レレナは原初の混沌の神であり、陰陽と調和を司る。水相はレレナの目に余るほど、階層の力の調和を乱したと言うのだろうか。
「時が来た、という事だ」
胸中を汲んだように、老人は言った。
「不変のものなど人の世には存在せぬ。水相も、またその他の多くの相も、それを思い知らされたというだけの事だ」
「この相の領界の揺らぎも、歌劇が書かれ行われた事と関係しているのか」
「無関係とは言えんな」
ヴェルーリヤは椅子から立ち上がり、空に顔を上げた。
「こら。人から物を教わったら礼くらい言わんか」
老人を無視し、揺らめく相の境界を、昨晩よりも慎重に探った。そうして、己の気配を限りなく無に近付けて、炎の線を越えた。
またも巫女の後ろ姿と、彼女を守り取り巻く赤黒い花が見えた。真っ白い世界には、床もなく、壁もなく、無数の窓が変わらず青空を映していた。
『オリアナ。ブネは何をしている』
耳を澄ますと、高圧的な女の声が、いずれかの窓から聞こえてきた。
『変わらず白の間におこもりになられたままでございます、ニブレット様。侍従長が説得を試みておりますが、入室さえままならぬと』
『ふん……無能が!』
ああ、と巫女が耳を塞いだ。そして、首を左右に振りながら、また、ああ、と声をあげて嘆き、すすり泣きを始めた。
彼女もまた人間を恐れているのだとヴェルーリヤは理解し、久方ぶりの憐憫の情が胸に湧くのを感じた。すると、ヴェルーリヤの感情に呼応するように、女が泣くのをやめ、振り返ろうとした。
「同情してはならん!」
老人の声によって、ヴェルーリヤの意識は群晶の間にある己の肉体に引き戻された。
「何故、邪魔をする!」
「無謀な真似をするな。覚悟を伴わぬ憐憫は、身の破滅にしかならんぞ」
「貴様には関わりのない事であろう」
「過去の失敗の理由がわからんのか」
水晶の中で、老人の顔が大きくなった。
「お前に人間の何がわかる? お前が人間をよく知り、人間に必要な物が何であるかを知っているというのなら、わしは止めんかった」
ヴェルーリヤは怒りに頬を染めながら、老人から顔を背けた。老人は言い募る。
「お前は人間をもっとよく知る事ができた筈だ。人間の中で生きる知恵を身に着ける事もだ。だが、ヴェルーリヤ、お前はそうはしなかった」
「人間は私を害し殺そうとした。そのような連中の何を知る必要がある」
殺される恐怖を思い出し、震え出しそうになった。
「私が邪魔であるならば、ただジェナヴァの町から出て行くよう言えば良かったのだ。ならば、私は従った。なのに何故、人間たちはあのような仕打を!」
「それはお前も同じ事だろうが。あの晩、人間が怖いなら、ただお前が人間の前に姿を現さないでおればよかったのだ。死にゆく人間たちに門を閉ざし、みすみす見捨てる必要はなかった。ヴェルーリヤ、お前は臆病だ。臆病ゆえ、人間たちは死んだのだ」
「違う! 人間たちの末路は彼らの自業自得だ!」
「お前は」
老人の顔が水晶の中をうつろい、ヴェルーリヤの眼前に来た。ヴェルーリヤはなおも顔を背けた。
「人間たちを見殺しにし、その行為を正当化し続けるために、成熟する事もなく、安全な神殿に引きこもり、人間を憎み、自分を憐れみ、神に縋り」
「黙れ」
「ただその為に何百年の時を無駄にしたというのだ?」
「黙れと申しているであろう!」
ヴェルーリヤの銀の瞳に、怒りと恐怖が散った。老人を黙らせなければならないと、彼は強く思った。そうしなければ、長い長い平穏が、崩れ去ってしまう。この老人は相の異変を知らせに来たのではない、相の異変をもたらした元凶であると思えた。ヴェルーリヤをもう一度外に駆り立てて、殺してしまう為に。
ヴェルーリヤの右手に、冴え冴えとした氷の閃光が宿った。
「私が時を費やして学んだ事は、こういう事だ」
閃光が手から放たれ、水晶を打った。書庫の古き魔術書に記されていた通り、意に沿わぬ者の気配が散逸し、消え去る手応えを得た。
水晶に、刃で刻み付けたような一筋の傷が残った。ヴェルーリヤは感覚を研ぎ澄ませ、不愉快な老人の気配が残っておらぬか確認しようとした。
老人の気配は、もうどこにもなかった。
代わりに、明確な敵意を持つ者が、階下から来るのを感じた。それは、かつて人々から向けられたのと同じ種類の敵意であった。殺意だ。
群晶の間の扉を開け放ち、屍の番兵が槍を振りかざし、ヴェルーリヤに向かってきた。
ヴェルーリヤの指先が胸の前で弧を描き、その軌跡から放たれた閃光が番兵を弾き飛ばした。
番兵の五体がちぎれ飛び、槍が落ちた後、神殿に静寂が戻った。
老人は消えた。だが、誰かが、誰かの意志が、ヴェルーリヤによる長き支配を超えて、屍に干渉した。
神殿を統べる力の均衡が既に崩れている事を、ヴェルーリヤもついぞ、認めざるを得なかった。
「今日はお前の神の名を呼ばんのかね?」
「もはやジェナヴァに神はおらぬ」
神を待つ日々に疲れ切ったヴェルーリヤは、殺気立った声で答えた。
「神殿が閉ざされて以来、外界で何が起きた」
「ほう、お前が私に教えを乞うのかね。これは驚いた」
老人はわざとらしく目をくりくり動かしてから答えた。
「そうさな、何と言っても一番大きな出来事は、歌劇が行われた事かの」
「歌劇?」
「そうだ。全く、お前は物を知らなすぎる。水相という相があってだな。様々な技術が他の相に比べぬきんでて発達した相だった。水相はその力で他の相に侵略し支配した」
ヴェルーリヤは暗い
「水相による支配から逃れるべく動いたのが、発相におけるタイタス国だ。ネメスの都で神レレナとネメスの託宣によって魔性の歌劇が書かれた。その歌劇が上演されることによって、水相は没落した」
「レレナとネメス……。それほど高位の神々が何故、人間の身勝手な争いに手を貸したのだ?」
「さてな。神の考えを知ろうとするな。ろくな事にならん」
最高位の神レレナの名に、ヴェルーリヤは驚いた。レレナは原初の混沌の神であり、陰陽と調和を司る。水相はレレナの目に余るほど、階層の力の調和を乱したと言うのだろうか。
「時が来た、という事だ」
胸中を汲んだように、老人は言った。
「不変のものなど人の世には存在せぬ。水相も、またその他の多くの相も、それを思い知らされたというだけの事だ」
「この相の領界の揺らぎも、歌劇が書かれ行われた事と関係しているのか」
「無関係とは言えんな」
ヴェルーリヤは椅子から立ち上がり、空に顔を上げた。
「こら。人から物を教わったら礼くらい言わんか」
老人を無視し、揺らめく相の境界を、昨晩よりも慎重に探った。そうして、己の気配を限りなく無に近付けて、炎の線を越えた。
またも巫女の後ろ姿と、彼女を守り取り巻く赤黒い花が見えた。真っ白い世界には、床もなく、壁もなく、無数の窓が変わらず青空を映していた。
『オリアナ。ブネは何をしている』
耳を澄ますと、高圧的な女の声が、いずれかの窓から聞こえてきた。
『変わらず白の間におこもりになられたままでございます、ニブレット様。侍従長が説得を試みておりますが、入室さえままならぬと』
『ふん……無能が!』
ああ、と巫女が耳を塞いだ。そして、首を左右に振りながら、また、ああ、と声をあげて嘆き、すすり泣きを始めた。
彼女もまた人間を恐れているのだとヴェルーリヤは理解し、久方ぶりの憐憫の情が胸に湧くのを感じた。すると、ヴェルーリヤの感情に呼応するように、女が泣くのをやめ、振り返ろうとした。
「同情してはならん!」
老人の声によって、ヴェルーリヤの意識は群晶の間にある己の肉体に引き戻された。
「何故、邪魔をする!」
「無謀な真似をするな。覚悟を伴わぬ憐憫は、身の破滅にしかならんぞ」
「貴様には関わりのない事であろう」
「過去の失敗の理由がわからんのか」
水晶の中で、老人の顔が大きくなった。
「お前に人間の何がわかる? お前が人間をよく知り、人間に必要な物が何であるかを知っているというのなら、わしは止めんかった」
ヴェルーリヤは怒りに頬を染めながら、老人から顔を背けた。老人は言い募る。
「お前は人間をもっとよく知る事ができた筈だ。人間の中で生きる知恵を身に着ける事もだ。だが、ヴェルーリヤ、お前はそうはしなかった」
「人間は私を害し殺そうとした。そのような連中の何を知る必要がある」
殺される恐怖を思い出し、震え出しそうになった。
「私が邪魔であるならば、ただジェナヴァの町から出て行くよう言えば良かったのだ。ならば、私は従った。なのに何故、人間たちはあのような仕打を!」
「それはお前も同じ事だろうが。あの晩、人間が怖いなら、ただお前が人間の前に姿を現さないでおればよかったのだ。死にゆく人間たちに門を閉ざし、みすみす見捨てる必要はなかった。ヴェルーリヤ、お前は臆病だ。臆病ゆえ、人間たちは死んだのだ」
「違う! 人間たちの末路は彼らの自業自得だ!」
「お前は」
老人の顔が水晶の中をうつろい、ヴェルーリヤの眼前に来た。ヴェルーリヤはなおも顔を背けた。
「人間たちを見殺しにし、その行為を正当化し続けるために、成熟する事もなく、安全な神殿に引きこもり、人間を憎み、自分を憐れみ、神に縋り」
「黙れ」
「ただその為に何百年の時を無駄にしたというのだ?」
「黙れと申しているであろう!」
ヴェルーリヤの銀の瞳に、怒りと恐怖が散った。老人を黙らせなければならないと、彼は強く思った。そうしなければ、長い長い平穏が、崩れ去ってしまう。この老人は相の異変を知らせに来たのではない、相の異変をもたらした元凶であると思えた。ヴェルーリヤをもう一度外に駆り立てて、殺してしまう為に。
ヴェルーリヤの右手に、冴え冴えとした氷の閃光が宿った。
「私が時を費やして学んだ事は、こういう事だ」
閃光が手から放たれ、水晶を打った。書庫の古き魔術書に記されていた通り、意に沿わぬ者の気配が散逸し、消え去る手応えを得た。
水晶に、刃で刻み付けたような一筋の傷が残った。ヴェルーリヤは感覚を研ぎ澄ませ、不愉快な老人の気配が残っておらぬか確認しようとした。
老人の気配は、もうどこにもなかった。
代わりに、明確な敵意を持つ者が、階下から来るのを感じた。それは、かつて人々から向けられたのと同じ種類の敵意であった。殺意だ。
群晶の間の扉を開け放ち、屍の番兵が槍を振りかざし、ヴェルーリヤに向かってきた。
ヴェルーリヤの指先が胸の前で弧を描き、その軌跡から放たれた閃光が番兵を弾き飛ばした。
番兵の五体がちぎれ飛び、槍が落ちた後、神殿に静寂が戻った。
老人は消えた。だが、誰かが、誰かの意志が、ヴェルーリヤによる長き支配を超えて、屍に干渉した。
神殿を統べる力の均衡が既に崩れている事を、ヴェルーリヤもついぞ、認めざるを得なかった。