魔術戦
文字数 2,418文字
薄明、東の門へと抜ける隊列が滞った。混乱が列前方から、最後尾の集団まで伝わってきた。その為、市内にいるロロノイも、街を取り囲むグロズナの軍事組織からの攻撃が始まったのだとわかった。
「行け、歩け!」
通りで兵士らが声を張り上げる。
「俺ら治安特務部隊が盾になる! 急げ!」
カルプセスを囲む壁の内側で、階段の上から逃走する市民がいないか見張る任務に就いていたロロノイは、段差に足を投げ出して不機嫌な顔で押し黙っているベリルに目をやった。
「始まったな」
生返事をくれる魔術師は、いつもそうしている通り、左手に大きなアクアマリンを握りしめている。眼下では死の行進に加わる市民達が、東の門へ、グロズナの兵が待ち構えるさなかへと駆り立てられてゆく。ロロノイは先頭集団にいる筈の妹ラプサーラを想った。無事だと良いが。
無事だと信じよう。近い将来必ず再会が叶うと。
「さぁて。何人が農耕地帯を生きて出られるかな」
黙っていたベリルが、それに返事もせず急に立ち上がった。表情は緊張で強張り、目になみならぬものを秘めている。
「魔術師がいる」
ベリルは早口で言うや、ロロノイを押しのけて階段を駆け上り始めた。後を追うと、ベリルは壁の天辺まで登りつめ、胸壁に身を隠した。
「どれくらいいる」
「わからない、でも気配が……東門に向かってる! 魔術師だけでも仕留めないと」
まだ弱い朝日を守護石に集めるかのように、ベリルは掌を開いた。目を閉じる。
ロロノイには魔術の才はもとより、妹が持つような巫覡 の才もない。結構な事だ――と、ベリルは思う。魔術師同士の殺し合いは、陰惨な力の応報だ。清冽で神聖な神の力を、殺しの為に使う。陰惨にならない筈がない。
背後、頭の後ろの高い所、やや左寄り。そこが緑 の界への通路が開く場所だ。緑の界から流れ出る魔力に呼応して、掌中の守護石が感覚を増幅する。魔術師は心を殺し、魔力の流れに意識を乗せた。流れはじきに何かにぶつかり、対流を起こした。緋黄 の界の力だ。
目を見開く。緑の界の力が波となって世界に押し寄せる。その波を、緋黄の界の神を奉じる魔術師の気配の源へと一直線に流しこんだ。
直線上にいたグロズナの兵士達が、魔力の波に水分を奪われ、立ち尽くしたまま干からびていく。混乱が起き、敵の動きに乱れが生じた。緋黄の界の力が消え失せる。
「一人やった!」
悪意に満ちた別の気配が自分を探し始めるのを感じ、緑の界の通路を閉ざした。隣でロロノイが手を打つ。
「よし!」
「安心するな、まだいる」
今の攻撃は、不意打ちだったから成功したようなものだ。だが敵はカルプセス市内にも魔術師がいる事に、今、気付いた。魔力の道を細く絞って開き、先ほどよりも慎重に、敵の魔術師の気配を探り始める。ここから先は、いち早く敵の居場所を見つけて攻撃する、速さの戦いだ。
嫌な感覚が肌を包み、背筋が凍りつく。見つかった。ベリルは守護石を握りしめ、全方位に緑の界の力を発散した。
日が上る方向から、矢のように向けられる紫紺界の力を感じる。掌中の石の力を借り、緑の界の力で押し返した。
ぶつかりあう力の渦が、凄まじい頭痛を引き起こした。地上からの敵の悲鳴とナエーズ語の悪態が集中力を削ぐ。紫紺界は腐術の領域を支配する。渦の中で高密度の魔力が質量を持ち、雫となって地上に降り注ぐ。雫を浴びた敵兵の皮膚が黒く腐り、目玉が飛び出して落ちる。そうして、腐敗した黒い水たまりと、鎧があとに残る。額の内側にその光景が見えた。
ありったけの呪詛をこめて、ついに力を押し返した。額が激しく疼き、中年のグロズナの魔術師、心臓を緑の界の魔力に貫かれ、悶絶して死んでいく魔術師の姿を幻視した。
集中力が切れた。緑の界との接続が切れる。同時に五感が失われ、無明無音に陥った。ベリルは胸壁に手をつき、その触感を頼りに五感の回復を急いだ。酷く汗をかいている。徐々に聴力が戻り、市内でも混乱が起きていると把握する。ロロノイが何か喋りながら、肩を揺さぶっている。目を開けたが、世界は黒い霧がかかったように不鮮明だ。
肩を支えられ、葡萄酒入りの革袋を口に押しつけられた。それを呷 ると全身の血が巡り、ゆっくりと視界に色が戻ってきた。
同時に、殺意に満ちた力が地上から飛んできた。
それがどの界の力か、分析する間もなかった。咄嗟に緑の界の通路を開く。頭の後ろの高い所から馴染みある力が溢れ、ベリルとロロノイを包んだ。
結界は敵の力を削いだが、集中力を欠いたベリルには防ぎきれなかった。結界に亀裂が入り、頭の中の血管が切れるような嫌な感覚を得た直後には、凄まじい力によって弾き飛ばされていた。
死んだな、とベリルは思った。敵の攻撃の致命的な勢いは削いだが、墜死は免れない。足許で、壁の石組が崩れるのを感じた。弾き飛ばされたロロノイの姿が、一瞬目に見え、遠ざかる。
ああ。
死ぬ。
意識が途切れた。
「起きろ!」
誰かが頬を叩いた。気が付くと胸倉を掴まれ、街を囲む壁の上に膝立ちの姿勢でいた。
男の足が見えた。
その向こうには分断され、崩れた壁が見える。
ベリルは少しずつ目線を上げ、男の顔を見る。
顔の特徴で、セルセト人だとわかった。浅黒い肌に黒髪。歳は中年、四十前後といったところだ。
「あんた、魔術師かい?」
ベリルは意識朦朧としたまま尋ねた。急に手を放され、床に倒れこむ。
「加勢してやる」
床に手をついて体を起こすと、待ち構えていたように男が言った。
「ミューモットだ」
瑠璃の界の魔術師だ。身に纏う気配から、ベリルはそう思った。男は苛立った調子で言葉を重ねる。
「名前だ。お前の名は」
「行け、歩け!」
通りで兵士らが声を張り上げる。
「俺ら治安特務部隊が盾になる! 急げ!」
カルプセスを囲む壁の内側で、階段の上から逃走する市民がいないか見張る任務に就いていたロロノイは、段差に足を投げ出して不機嫌な顔で押し黙っているベリルに目をやった。
「始まったな」
生返事をくれる魔術師は、いつもそうしている通り、左手に大きなアクアマリンを握りしめている。眼下では死の行進に加わる市民達が、東の門へ、グロズナの兵が待ち構えるさなかへと駆り立てられてゆく。ロロノイは先頭集団にいる筈の妹ラプサーラを想った。無事だと良いが。
無事だと信じよう。近い将来必ず再会が叶うと。
「さぁて。何人が農耕地帯を生きて出られるかな」
黙っていたベリルが、それに返事もせず急に立ち上がった。表情は緊張で強張り、目になみならぬものを秘めている。
「魔術師がいる」
ベリルは早口で言うや、ロロノイを押しのけて階段を駆け上り始めた。後を追うと、ベリルは壁の天辺まで登りつめ、胸壁に身を隠した。
「どれくらいいる」
「わからない、でも気配が……東門に向かってる! 魔術師だけでも仕留めないと」
まだ弱い朝日を守護石に集めるかのように、ベリルは掌を開いた。目を閉じる。
ロロノイには魔術の才はもとより、妹が持つような
背後、頭の後ろの高い所、やや左寄り。そこが
目を見開く。緑の界の力が波となって世界に押し寄せる。その波を、緋黄の界の神を奉じる魔術師の気配の源へと一直線に流しこんだ。
直線上にいたグロズナの兵士達が、魔力の波に水分を奪われ、立ち尽くしたまま干からびていく。混乱が起き、敵の動きに乱れが生じた。緋黄の界の力が消え失せる。
「一人やった!」
悪意に満ちた別の気配が自分を探し始めるのを感じ、緑の界の通路を閉ざした。隣でロロノイが手を打つ。
「よし!」
「安心するな、まだいる」
今の攻撃は、不意打ちだったから成功したようなものだ。だが敵はカルプセス市内にも魔術師がいる事に、今、気付いた。魔力の道を細く絞って開き、先ほどよりも慎重に、敵の魔術師の気配を探り始める。ここから先は、いち早く敵の居場所を見つけて攻撃する、速さの戦いだ。
嫌な感覚が肌を包み、背筋が凍りつく。見つかった。ベリルは守護石を握りしめ、全方位に緑の界の力を発散した。
日が上る方向から、矢のように向けられる紫紺界の力を感じる。掌中の石の力を借り、緑の界の力で押し返した。
ぶつかりあう力の渦が、凄まじい頭痛を引き起こした。地上からの敵の悲鳴とナエーズ語の悪態が集中力を削ぐ。紫紺界は腐術の領域を支配する。渦の中で高密度の魔力が質量を持ち、雫となって地上に降り注ぐ。雫を浴びた敵兵の皮膚が黒く腐り、目玉が飛び出して落ちる。そうして、腐敗した黒い水たまりと、鎧があとに残る。額の内側にその光景が見えた。
ありったけの呪詛をこめて、ついに力を押し返した。額が激しく疼き、中年のグロズナの魔術師、心臓を緑の界の魔力に貫かれ、悶絶して死んでいく魔術師の姿を幻視した。
集中力が切れた。緑の界との接続が切れる。同時に五感が失われ、無明無音に陥った。ベリルは胸壁に手をつき、その触感を頼りに五感の回復を急いだ。酷く汗をかいている。徐々に聴力が戻り、市内でも混乱が起きていると把握する。ロロノイが何か喋りながら、肩を揺さぶっている。目を開けたが、世界は黒い霧がかかったように不鮮明だ。
肩を支えられ、葡萄酒入りの革袋を口に押しつけられた。それを
同時に、殺意に満ちた力が地上から飛んできた。
それがどの界の力か、分析する間もなかった。咄嗟に緑の界の通路を開く。頭の後ろの高い所から馴染みある力が溢れ、ベリルとロロノイを包んだ。
結界は敵の力を削いだが、集中力を欠いたベリルには防ぎきれなかった。結界に亀裂が入り、頭の中の血管が切れるような嫌な感覚を得た直後には、凄まじい力によって弾き飛ばされていた。
死んだな、とベリルは思った。敵の攻撃の致命的な勢いは削いだが、墜死は免れない。足許で、壁の石組が崩れるのを感じた。弾き飛ばされたロロノイの姿が、一瞬目に見え、遠ざかる。
ああ。
死ぬ。
意識が途切れた。
「起きろ!」
誰かが頬を叩いた。気が付くと胸倉を掴まれ、街を囲む壁の上に膝立ちの姿勢でいた。
男の足が見えた。
その向こうには分断され、崩れた壁が見える。
ベリルは少しずつ目線を上げ、男の顔を見る。
顔の特徴で、セルセト人だとわかった。浅黒い肌に黒髪。歳は中年、四十前後といったところだ。
「あんた、魔術師かい?」
ベリルは意識朦朧としたまま尋ねた。急に手を放され、床に倒れこむ。
「加勢してやる」
床に手をついて体を起こすと、待ち構えていたように男が言った。
「ミューモットだ」
瑠璃の界の魔術師だ。身に纏う気配から、ベリルはそう思った。男は苛立った調子で言葉を重ねる。
「名前だ。お前の名は」