黄昏
文字数 2,454文字
次の輸送船が出るまでの一週間を、ウラルタは無気力に過ごした。
逃走しようかと思わないでもなかった。寝たまま自分の将来を、ああでもないこうでもないと考え続けていると、居ても立ってもいられぬ焦燥感に駆られた。実行に移そうと計画を練ったが、銃を持った町の警邏官の姿を施療院の入り口近くで見る度に、そんな思いつきも計画もどうでもよくなってしまった。
ウラルタは体の痛みを、行動しない事についての自分への言い訳にした。実際、体中に打撲と捻挫があった。何日かして、顔に出来た大きな切り傷に気付いた。右目の下から、右耳の耳たぶにかけて大きく裂けている。指でその傷をなぞりながら、材木で切りでもしたのだろうと考えた。
傷に気がついてしまうと、奇妙な事に、その瞬間から傷が痛むように感じられ始めた。傷から、全ての気力も生命力も流れ出ていき、もはや自分にそれを止める手立てはないと思った。ウラルタは、かつて祖父が死んだ日にそうしたように、寝床で、自分の無力と無気力を嘆いてすすり泣いた。
希望を探さなければならない、と思っていた。だがそれは違っていて、希望を探す使命を得た事、そして行動する事そのものが希望だったのだと、ウラルタは思い直し始めていた。希望など、自分の胸の内以外には、世界のどこにもなかったのだ。この胸の希望に共鳴しうる、外的で尊い、全き希望など。今やその身の内の微かな希望さえ、寿命を迎えようとしている。すなわち旅が終わるのだと、ウラルタは予感する。諦めて、イグニスの侍祭として、この先十年も二十年も三十年も、四十年も五十年も六十年も、あるいはそれ以上の年月を、同じ事をし、同じ事を言い、聞き、見て、過ごすのだ。我らは罰を受けた――神は我らに罰を与えたもうた――その罰を全うすることで我らを赦したもうと約束された――と。
そんなのは嫌だ。
死にたい、と思った。心の底から。それしか生きる道がないのなら。味がわからない食事を僅かずつ与えられ、ウラルタは生き、船に乗る日が来た。
※
海上で事故に遭った時、それを幸運だと思う強 かさがまだウラルタには残っていた。
時化に流された幽霊船が輸送船に激突した時、ウラルタは貨物室で「死ぬ」と思った。もっともその時点では、何が起きたかなど知る由もなく、しばらくの間窓のない部屋で這いつくばり、激烈な揺れに耐えるのみであった。ウラルタの他に老女がいた。二人は互いに口を利かず、離れた場所に座っていた。老女の手首にも護送票があったから、彼女もまた何らかの事情で旅立ったのだろうと思われた。
船員が来て、ウラルタと老女を貨物室から出した。船はゆっくり、斜めに傾きつつあった。壁に手をつきつつ甲板に出た。赤く曇る空の下に出て初めて、衝突が起きたのだと理解した。
ウラルタは怖くて、死をもたらしに来た廃船を直視することができなかった。
乗客たちが船員の指示に従い、救難艇に詰めこまれてゆく。
ウラルタと老女は最後の救難艇に乗り、大時化の中に放り出された。
「死ぬ」とウラルタはまた思った。上からは激しく雨が降り、横からは波が襲ってくる。隣の人にしがみついた。その人が男か女か、若いか老いているか、何も見えなくてわからない。反対側の隣の人もまた、ウラルタにしがみついていた。それもまた、どういう人間なのか、確かめる気にはなれなかった。一人だけ乗りこんでいるはずの船員がどうしているかは全くわからない。ウラルタは激しい揺れと吐き気に耐えながら、意外にも恐怖はなく、あるのは倦怠感ばかりで、ただ乾いた服に着替えて眠りたいと、それだけ思っていた。
眠るという点に関してのみ、願いは叶った様子だった。あるいは長い間放心していたのかもしれない。誰かに肩を借りて固い床の上を歩いた記憶がある。
我にかえった時、ウラルタは屋根がある建物の床に寝かされていた。ただ一つの正方形の小さな窓は夕闇に染まっている。雨はもう降っていない。
ごく狭い部屋だとわかってくる。隣にあの老女が寝かされていて、その二人分のスペースで部屋はいっぱいだった。ここは、どこかの海堡の内部らしい。
小さな机の上に古い海図とペンが散らばり、引き出しの中に工具箱があった。
ウラルタは錆びたペンチを見つけ、それを手に取って見つめた後、手首に通された護送票をまじまじと見つめた。
次いで、老女の護送票の行き先を読んだ。
「タイタス」
悪くない。
「……タイタス」
ウラルタはすぐに肚 を決めた。容赦なく海水を浴び続けた老いた女の体は冷たい。間もなく死ぬだろう。彼女と口を利かなくて良かったと、ウラルタは妙な救いを感じた。彼女の人生の何一つ、背負わなくて良かった。何故タイタスの町から逃げたか、どこに行き、何を目指していたのか、聞かなくて良かった。
護送票を取り替えた後、救助の船が来るまで、ウラルタは老女に背を向けて、じっと膝を抱えていた。
やがて汽笛が、遠くから、海堡に近付いて来た。
※
私は何故、旅に出たのだろう。
救助船の甲板で、ウラルタは波のうねりの中に答えを探している。私は、イグニスで決まりきった毎日を死ぬまで繰り返す事を拒んだ。信じてもいない教条を、さも信じているかのように振る舞うことを拒んだ。そうしなければ生活していけない事実を拒んだ。
では、何も信じない為に旅に出たのだろうか。つまり、孤独で居続けるために?
一人でこの世に落ちてきて、一人で死へ落ちてゆく為に? 落ちゆく先を――せめて――死に場所を決めるために?
遠くで、厚い雲が一か所割れた。周囲の雲が火のごとき色彩にそまり、太い光の束が、黒くうねる海目がけて落ちてくる。
この星の、遅すぎる自転の、長すぎる黄昏にもたらされた、束の間の光。
その余波が顔に触れるのを感じ、目を細めた。
星は、どこに落ちてゆくのだろう?
逃走しようかと思わないでもなかった。寝たまま自分の将来を、ああでもないこうでもないと考え続けていると、居ても立ってもいられぬ焦燥感に駆られた。実行に移そうと計画を練ったが、銃を持った町の警邏官の姿を施療院の入り口近くで見る度に、そんな思いつきも計画もどうでもよくなってしまった。
ウラルタは体の痛みを、行動しない事についての自分への言い訳にした。実際、体中に打撲と捻挫があった。何日かして、顔に出来た大きな切り傷に気付いた。右目の下から、右耳の耳たぶにかけて大きく裂けている。指でその傷をなぞりながら、材木で切りでもしたのだろうと考えた。
傷に気がついてしまうと、奇妙な事に、その瞬間から傷が痛むように感じられ始めた。傷から、全ての気力も生命力も流れ出ていき、もはや自分にそれを止める手立てはないと思った。ウラルタは、かつて祖父が死んだ日にそうしたように、寝床で、自分の無力と無気力を嘆いてすすり泣いた。
希望を探さなければならない、と思っていた。だがそれは違っていて、希望を探す使命を得た事、そして行動する事そのものが希望だったのだと、ウラルタは思い直し始めていた。希望など、自分の胸の内以外には、世界のどこにもなかったのだ。この胸の希望に共鳴しうる、外的で尊い、全き希望など。今やその身の内の微かな希望さえ、寿命を迎えようとしている。すなわち旅が終わるのだと、ウラルタは予感する。諦めて、イグニスの侍祭として、この先十年も二十年も三十年も、四十年も五十年も六十年も、あるいはそれ以上の年月を、同じ事をし、同じ事を言い、聞き、見て、過ごすのだ。我らは罰を受けた――神は我らに罰を与えたもうた――その罰を全うすることで我らを赦したもうと約束された――と。
そんなのは嫌だ。
死にたい、と思った。心の底から。それしか生きる道がないのなら。味がわからない食事を僅かずつ与えられ、ウラルタは生き、船に乗る日が来た。
※
海上で事故に遭った時、それを幸運だと思う
時化に流された幽霊船が輸送船に激突した時、ウラルタは貨物室で「死ぬ」と思った。もっともその時点では、何が起きたかなど知る由もなく、しばらくの間窓のない部屋で這いつくばり、激烈な揺れに耐えるのみであった。ウラルタの他に老女がいた。二人は互いに口を利かず、離れた場所に座っていた。老女の手首にも護送票があったから、彼女もまた何らかの事情で旅立ったのだろうと思われた。
船員が来て、ウラルタと老女を貨物室から出した。船はゆっくり、斜めに傾きつつあった。壁に手をつきつつ甲板に出た。赤く曇る空の下に出て初めて、衝突が起きたのだと理解した。
ウラルタは怖くて、死をもたらしに来た廃船を直視することができなかった。
乗客たちが船員の指示に従い、救難艇に詰めこまれてゆく。
ウラルタと老女は最後の救難艇に乗り、大時化の中に放り出された。
「死ぬ」とウラルタはまた思った。上からは激しく雨が降り、横からは波が襲ってくる。隣の人にしがみついた。その人が男か女か、若いか老いているか、何も見えなくてわからない。反対側の隣の人もまた、ウラルタにしがみついていた。それもまた、どういう人間なのか、確かめる気にはなれなかった。一人だけ乗りこんでいるはずの船員がどうしているかは全くわからない。ウラルタは激しい揺れと吐き気に耐えながら、意外にも恐怖はなく、あるのは倦怠感ばかりで、ただ乾いた服に着替えて眠りたいと、それだけ思っていた。
眠るという点に関してのみ、願いは叶った様子だった。あるいは長い間放心していたのかもしれない。誰かに肩を借りて固い床の上を歩いた記憶がある。
我にかえった時、ウラルタは屋根がある建物の床に寝かされていた。ただ一つの正方形の小さな窓は夕闇に染まっている。雨はもう降っていない。
ごく狭い部屋だとわかってくる。隣にあの老女が寝かされていて、その二人分のスペースで部屋はいっぱいだった。ここは、どこかの海堡の内部らしい。
小さな机の上に古い海図とペンが散らばり、引き出しの中に工具箱があった。
ウラルタは錆びたペンチを見つけ、それを手に取って見つめた後、手首に通された護送票をまじまじと見つめた。
次いで、老女の護送票の行き先を読んだ。
「タイタス」
悪くない。
「……タイタス」
ウラルタはすぐに
護送票を取り替えた後、救助の船が来るまで、ウラルタは老女に背を向けて、じっと膝を抱えていた。
やがて汽笛が、遠くから、海堡に近付いて来た。
※
私は何故、旅に出たのだろう。
救助船の甲板で、ウラルタは波のうねりの中に答えを探している。私は、イグニスで決まりきった毎日を死ぬまで繰り返す事を拒んだ。信じてもいない教条を、さも信じているかのように振る舞うことを拒んだ。そうしなければ生活していけない事実を拒んだ。
では、何も信じない為に旅に出たのだろうか。つまり、孤独で居続けるために?
一人でこの世に落ちてきて、一人で死へ落ちてゆく為に? 落ちゆく先を――せめて――死に場所を決めるために?
遠くで、厚い雲が一か所割れた。周囲の雲が火のごとき色彩にそまり、太い光の束が、黒くうねる海目がけて落ちてくる。
この星の、遅すぎる自転の、長すぎる黄昏にもたらされた、束の間の光。
その余波が顔に触れるのを感じ、目を細めた。
星は、どこに落ちてゆくのだろう?