欺キ

文字数 4,534文字

 急に後ろから抱きしめられた。ナザエだった。頬に当たる髪の感触と匂いでわかる。

「落ち着いてください! みなさん!」

 ルドガンが走って来て叫んだ。一度解散した人々は、おろおろと路地のそこかしこで立ち止まっている。

「まだ敵は遠いです。カルプセスには入って来ていない」
「どうしよう、じきに攻めて来るんじゃ」
「セルセトの特務治安部隊が応戦しています。落ち着いてください。ここにいてはセルセト兵の動きの邪魔になるかもしれない。神殿に避難しましょう」

 その言葉に人々が一旦落ち着きを取り戻す。ルドガンはペシュミンとナザエの姿を見つけ、無言のまま一つ頷いた。

 人々は神殿に移動を始め、その集団の後ろを、ナザエに手を引かれて歩いた。神殿が近付くにつれ人の数が多くなった。

 いつも全ての人の為に開かれている門の前に、長い列ができていた。

 朝日が道を染める頃、ペシュミンはようやく神殿の中に入った。神官達が手際よく人々を整理し、ペシュミン達は普段は開放されていない二階に通された。ペシュミンは心細い気持ちで辺りを見回し、神官長ルロブジャンの姿を探したが、見当たらなかった。代わりにミハルの姿を見つけた。ミハルはルドガンに手を引かれ、やはり心細そうにしていたが、目が合うとそれでも微笑みを見せた。心和む微笑みだった。

 ルドガンがミハルの手を引いてペシュミンの所に来た。

「ご無事で何よりです」

 ナザエとルドガンは浮かぬ顔のまま、挨拶代りの軽い抱擁を交わした。

「ここはまだ、安全なんですよね?」
「ええ。セルセトの兵が応戦していると、表通りの兵士達が……」
「では、じゃあ」

 ナザエが押し殺した声で言う。

「セルセト兵がみんな、カルプセスを出て行った後は?」

 母親が話している間に、ペシュミンはミハルと手を繋いで廊下の壁際に座りこんだ。

「昨日の夕方、びっくりしたね」

 話しかけると、ミハルが「うん」と手を強く握った。

「君は大丈夫だった? ぶたれたりしなかった?」
「ううん。誰に?」
「セルセトの兵隊さんに、ぶたれた人がいるんだって。どうしてだかわからないけど」
「そんな事はされなかったよ。ミハルの家は大丈夫だった? 兵隊さん、来なかった?」
「来たよ。でも大丈夫だった。怖くなかったよ」

 やがて沈黙が、重みを持って降りてきて、人々を押し潰した。誰も皆廊下に座りこみ、口を利かなくなる。張り詰めた静けさの中で、幼いペシュミンとミハルは、繋いだ手を強く握ったり、握り返したりして、無音のコミュニケーションを行った。

 時折声の(さざなみ)が起きて、様々な情報を伝えた。

 緊張する事に疲れたペシュミンは、まどろみの中で隊列の最後尾がカルプセスを出たという話を聞いた。目を覚ました時には、戦闘のどさくさでカルプセスに取り残された兵士とネメスの木兵隊、兵役経験のある市民とで、臨時のカルプセス守備隊を結成するらしいと、人々が噂していた。それを聞いて、何人かの老人が神殿から出て行った。ペシュミンは伸びをする。つられてミハルが目を覚ます。日は既に高い。

 時は緊張を連れ去ることなく、蛇のように進んだ。

 神官たちが来て、避難所が分散される知らせをもたらした。二階の廊下から、更に人が減る。少なくとも魔術による攻撃は止んだようで、もう轟音は聞こえない。

 次に兵士が来て、避難民たちの数を数えていった。

 とうに正午を過ぎたと思う。ペシュミンは空腹だが、それを言い出せない。誰も言い出さないからだ。

 次に来たのは、ペシュミンから見たら大きなお兄さんたち、大人たちから見れば、十三歳以下の少年たちだった。彼らは街を守る大人の手伝いができる誇らしさで胸を張り、

「グロズナはみんな外に出て!」

 と、神殿中に触れ回った。

「外に出てどうするんだい?」

 ルドガンが尋ねる。少年は答える。

「何かね、グロズナの人たちはリデルの神殿に避難してもらうんだって! 理由はわかんないけど」

 グロズナ達は不審に思う。しかし、それを伝えに来たのが子供である事が、彼らの油断を招く。

「ミハル、待ってなさい」

 ルドガンは腰を上げ、最後にミハルの頭に手を置いた。

「おじさんは少し、行って来るよ。何もなければまた後で迎えに来る」

 ルドガンは戻って来なかった。時折ナザエがもらってくる水以外、二人は何も口に入れず、またも過ぎ去る時をやり過ごすのみとなった。

 大人たちはぽつぽつと、声を潜めて話し始めた。

「おじさん、遅いね」

 ペシュミンが話しかけたのをきっかけに、ミハルとペシュミンの間にも、ようやく会話が生まれた。

 ミハルは初めてカルプセスに来た時、おじさんが食べきれないほどの手料理でもてなしてくれた事を喋った。生まれ育った村にいる両親の事や、心躍る狩猟祭の事、その祭りで行われる、子供たちによる狩りの演習の事を喋った。

「その出しものにはね、木をこう、人の形に束ねた物を使うんだ。それを、弓とか槍で射ったり、射したりするの」
「ミハルもそれをやったの?」
「ううん。だけどね、お父さんが、この出しものの事は、カルプセスに行ったら話しちゃ駄目って言うんだよ。特にペニェフには駄目だって。でも、そんなの、おかしいよね。おじさんはペニェフにもグロズナにも違いはないって言うのにね」

 廊下に射しこむ日差しの角度が変わり、少しずつ暗くなる。どこかで赤子が泣き始めた。赤ちゃんも何も食べてないんだとペシュミンは思った。ペシュミンはやはり空腹だった。そしてやはりそれを言い出せなかった。

 階下からざわめきが立ち上ってくる。

「少し様子を見てくるわ」

 ナザエが腰を上げる。

「ここにいて。動いちゃ駄目よ」

 母親が廊下の角を曲がり消えると、入れ違うように若い女性神官が小走りでやって来た。神官はいきなりミハルの手首を掴み、立ち上がらせた。

「待って!」

 ミハルは立ち上がらされ、どこかに手を引かれていく。恐怖が滲む顔で振り返るミハルの後を、ペシュミンは追った。

「どこに行くの? ミハル、ねえ、神官さんどうしたの?」

 女性神官はミハルを三階に連れて行き、長机と椅子の他何もない、小さな部屋に通した。ドアを閉め、ミハルを抱きしめると、続けてついて来たペシュミンを抱きしめた。

「あなたはここにいるの。絶対に出ては駄目」

 と、ミハルに言い、今度はペシュミンと向き合う。

「いい? あなたは絶対……」

 神官は声を詰まらせた。

「この部屋の事を人に言っては駄目よ。お友達やグロズナの人がどこにいるか大人の人に聞かれても、絶対に言っちゃ駄目。お姉さんと約束できる?」

 ペシュミンはわけもわからぬまま、うんと頷いた。

「待って、神官さん。僕のおじさんが僕を迎えに来るよ。僕、待ってろって――」

 神官は、何かを堪えるような声を漏らした。顔を引き攣らせ、ぎこちない笑みを作る。

「もし君のおじさんが戻って来るような事があれば、私が教えるから。いいわね」

 ペシュミンは元通り二階の廊下に戻されて、一人きりになった。ナザエは戻って来ない。

 様子を見に行くことにした。

 ナザエは混雑する一階の礼拝所の片隅で、セルセトの兵士を相手に何かを話していた。

「ママ?」

 呼びかけると、すぐに話を中断してペシュミンの前に立ち、両肩に手を置いて、膝を屈めた。

「ペシュミン、ミハルと一緒じゃないの? あの子はどこにいるの?」

 問いかけるナザエの表情が、不意に恐ろしく感じられた。

「知らない!」

 ペシュミンは咄嗟に答える。ナザエの表情は恐ろしいままで、ペシュミンの言葉を信じていない事が伝わってきた。ペシュミンは言葉を繋げた。

「えっとね、さっきね、お外に出て行ったの」
「……そう」

 ナザエはペシュミンを信じる事にしたようだが、顔には落胆と気疲れが、深く刻まれていた。

 二階への階段に続く廊下に戻ると、そこにミハルが立っていた。ミハルは青白い顔をして、唇に手を当てて黙るよう合図すると、ペシュミンの手を引っ張って、神殿の裏口に連れて行った。

「何だかおかしいよ!」

 裏庭に出て、ミハルは泣き出しそうな表情で叫んだ。

「ミハル、どうしたの? 何がおかしいの?」
「だって、だって、おじさんの帰りが遅いし……『グロズナはリデルの神殿に行け』なんて変だよ……そこだってきっと、避難してる人いっぱいいる筈なのに……」

 その目に涙の粒が浮かび、ペシュミンは動揺する。

「ミハル、泣かないで、ミハル――ねえ、じゃあさ、リデルの神殿を見に行こうよ!」

 泣き出しそうだった表情が、その一言で和らいだ。

「おじさんの所に行ってみよ。きっと何かわけがあって迎えに来れないんだよ!」

 幼い二人は手を取り合って、神殿の通用門を抜ける。ルフマンの神殿が背後に遠ざかる。来た時には道を染めていた朝日が、今は夕日になっていた。

 狩人の守り神リデルの神殿への道は、ミハルが知っていた。道にセルセト兵の姿があると、それを避けて遠回りをした。子供ゆえの直観で、そうしなければならないとわかった。

 リデルの神殿の通用門は施錠されていた。二人は柵によじ登り、堅い地面に着地する。

「おじさん、おじさん」

 裏の扉も鍵がかかっていた。扉に耳をつけてみるが、何も聞こえてこない。建物をぐるりと回ってみたが、どの窓にも人の姿はなかった。表に回ると、門を守るセルセト兵の背中が見えたので、そっと後ずさった。

 ミハルが突然走り出した。待ってと叫びたいのを堪え、ペシュミンも後を追う。ミハルは物見櫓の下で足を止めた。梯子を掴み、猛然と上り始める。

「どうしたの?」

 櫓の上に立つと、夏の夕日が顔を焼いた。ペシュミンは細めた目で、凍りついたように立ち尽くすミハルの姿を見る。

「どうしたの? ねえ……」

 ペシュミンはミハルと同じ方向に目をやって、同じ光景を見た。

 カルプセスを囲む壁の上に、人々が立っている。きらきらと光っているのは、鎧が夕日を跳ね返すからだ。セルセトの兵士達だ。それだけではない。ペシュミンは目を凝らす。

 壁の上で夕日を浴びる顔の中には、角ばった輪郭と鷲鼻を持つ、グロズナの顔が多数見受けられた。
 そして、壁の上には何十という数の木の棒が立てられていた。

 グロズナたちが抵抗しながら棒に縛られていく。

「おじさん」

 ミハルが声をあげた。ペシュミンは壁の上のグロズナたちの中からルドガンを探そうとしたが、突如、冷たい物で目を覆われた。

 ペシュミンは冷たい物を押しのけ、怯えながら振り返る。

 木兵が立っていた。くり抜かれて作られた右目から蜂が黄色い頭を出し、触角をそよがせながら、ペシュミンを見つめている。

 そして、木でできた人差し指を立てると、同じようにくり抜かれて作られた口に当てた。

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