砲門

文字数 1,869文字

 すべての町の大砲が、霧に煙る夕闇の空に向けられている。たまに砲門からすすり泣きが聞こえるのは、陸地があった時代の古い亡霊たちが、漂流によってしか戦争を終わらせられなかった事を悔いているからだという。

 町を囲む鉄壁には、絶えず波が押し寄せて、小さな門に小さな船を送りこんでいた。
「声がするわ」
 鋭く鳴る風に耳を傾けて、甲板で少女が尋ねた。
「何と言っているの?」

 少女の隣では、老人が背もたれのない椅子に腰をかけ、白い髭に覆われた顔で霧の向こうの夕闇を見ていた。少女が待っていると、老人は仕方がなさそうに、ひび割れた唇を開いて、一語ずつゆっくりと答えた。
「聞こえては、いけない。声など聞こえてはならんのだ」

 波と潮風が少しずつ、町を死で洗う。両脇に並び立つ家々の壁も、行き交う船もこの甲板も、いつも不気味に濡れていた。少女は今しがた通り抜けてきた、後方に聳える黒い鉄の壁を向き、目を細めた。

「あんた、誰だったかね」
「ウラルタ」
「耳を澄ませとるんじゃないだろうね」
 少女ウラルタは濁った目を老人に戻す。
「声には気をつけなさい、ウラルタ。何と言ってるかわかっちまったら、あんたは死ぬまで眠れない」

 ウラルタはその顔に失望を湛え、老人から目をそらした。大砲に撃ち落とされなかった死者が、一体、翼を広げて頭上を飛んでゆく。

 ※

 沈む太陽を追って、すべての家は果てしなき夕闇を漂流している。
 町と呼ばれるものは、この星のどことも知れぬ場所に浮かぶ朽ちかけた流木に過ぎない。
 かつて世界には陸地があったと祖父は言った。
 陸の上で人は、床下を打つ波の音とも、恐ろしい時化(しけ)とも、時折海から這い上がり、バルコニーを彷徨う死者たちとも無縁に生きていたという。

 ※

 真水蒸留施設の大きな影の中を、船は駅と呼ばれる係留所まで、波任せに進んだ。水路沿いに木造道路が延びている。町の人々が火の供給を待つ列を成している。この先に広場があるのだろう。カンテラを手に、皆一様(いちよう)にうなだれている。誰もが脂ぎって傷んだ髪や、頭からかぶったショールで、顔を隠していた。

 真水と火は、町ごとの役所が厳重に管理している。真水は欠乏によって、火は拡大によって、町を滅ぼす脅威を抱えている。自分もかつてあのように、火と真水を求めて並んだ事を少女は思い出した。そう遠い過去ではない。

「それであんたは、どこに行こうとしてるんだね?」
 ウラルタは聞こえないふりをした。老人は、船が蒸留施設の影を脱するまでしつこく待っていたが、負けて、
「言いたくないなら構わんよ」
 と呟く。

 西日が射し、顔を灼いた。水路を抜け湾に出たのだ。町と町を行き交う貨物船や漁船が、濃霧の中から現れて、また濃霧へと消えてゆく。
 あの霧の彼方には、多くの哀れな家々を飲みこんだ夜が控えている。

「陸地があった時代には、夜が人を食することはなかったって」老人を振り返ることなく問う。「私のおじいちゃんが言ってたわ。本当なの?」
 答えを待つ間、ウラルタは祖父の教えを一つずつ思い返した。
 人間が現実として認識できる領域は〈(そう)〉と呼ばれ、世界は幾つもの相が集合することで成り立っている。ごく少数の高位の魔術師のみ相を跨ぐ事ができるが、一般人がそうした術の恩恵を得る事はない。

 水相と呼ばれるこの現実は、かつて他の相を支配するほど強力であった。全ての陸地を失い、没落するまでは。
 相を移動する為のエネルギーを得るには、何かを犠牲にしなければならなかった。
 何かを。
 その最もわかりやすい形が、この相においては、陸だったそうだ。

 大人たちは、この漂流は罰だという。
 他の相を支配した罰。
 罰を受けてなお、滅びを受け入れず、漂流を選んだ罰。
 即ち、水相に生を受け、生きる事も、死ぬ事も、罰に他ならないと。
 本当にそうなのだろうか。
 大人たちはみな、本気でその教えを受け入れて、生きているというのか。

「ねえ」

 胸に焦燥の火花が散り、衝動的に振り返った。
 暗い。
 船はとうに駅に係留されていた。
 老人は椅子に座ったままだ。垂れ下がった手と頭と、輪を描いて群がる蠅を見て、ウラルタは、老人がとうに死んでいた事を悟った。

 声を失っている間に、港の係員が甲板に上がってきた。彼らは無言で老人を白い袋に詰め始めた。二人が死体袋を運び、一人が椅子を運んで去る一部始終を、ウラルタはただ見た。


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