蚕食
文字数 2,632文字
今、神殿を覆う夜空には、大いなる炎が赤く渦巻いていた。傍らでひっそりと光を放つ月は、秒ごとに満ちていく様子さえ目に見えるようだった。
ヴェルーリヤはテラスに立ち、神殿の屍と亡霊を支配する腐術の強化に集中していた。隙あらば死者達をヴェルーリヤの手から掠め取ろうとする、木相から流れこむ馴染みなき力の存在を、炎の渦から絶えず感じる事ができた。
その力の背後にある神はレレナに違いない。あの巫女はレレナを奉じる巫女であるらしかった。ヴェルーリヤの父、根と伏流の神ルフマンよりも、遥かに高位の神だ。ヴェルーリヤは心に渦巻く畏れに打ち勝とうとした。神の力と、それを借りて行使する人間の力は、全く別のものだ。レレナの巫女を石相 から閉め出す事は、レレナに刃向う事と同義ではない。そう己に言い聞かせていなければ不安だった。
ヴェルーリヤには、己以外に頼れる者はなかった。あの不愉快な老人は、どうやらあれでも、聖域内の均衡の維持に必要な存在であったらしい。滅した事は浅慮であった。
首を横に振り、雑念を払う。
「……私は、この居場所を失うわけにゆかぬ」
銀の瞳から感情が消え、意識が炎の渦を潜った。
その先は、白く静まり返った世界だった。空間には清浄なレレナの神気が満ち、肌を優しく刺激した。
レレナの巫女は、ヴェルーリヤに背を向ける形で椅子に掛けていた。真昼の青空を映す無数の窓は、ヴェルーリヤの出現によってその半数が夜の星空に変わり、気配を察知した巫女は、音もなく立ち上がった。
振り向いた巫女の顔を、ヴェルーリヤは初めて見た。後ろ姿からは疲れて老けこんだ印象を受けたのだが、正面から見れば、思ったよりも若い女だった。ふっくらした頬と垂らした前髪のせいで、子供っぽくさえ見える。黒々と艶めく瞳を向けて、巫女はヴェルーリヤに、嬉しそうに笑いかけた。
「ブネ、と申されたか」
ヴェルーリヤは、穏やかに語りかけた。巫女は白い衣の裾をはためかせて駆け寄り、言葉もなくヴェルーリヤの体に腕を回し、抱きついた。肩に巫女の顔が押しつけられ、困惑しながらも、ヴェルーリヤは話し続けた。
「石相にある我が領域への干渉をやめて下さらぬか」
巫女はしばらくの間、ヴェルーリヤに抱きついたままでいたが、ようよう言葉を理解しだすと、顔を上げ、困り果てた様子で目をあわせた。
「そなたが侵犯する領域は、根と伏流の神ルフマンの加護を受けた聖域であり、私の棲家だ。そなたの力の流入によって聖域の平穏は破られようとしている。手を引いていただきたい」
巫女の瞳が潤み、口は何かを言いたげに小さく開いた。そして拒否を示し、首を横に振った。
「聞き入れて下され。私は荒事は好かぬ」
巫女は両手で顔を覆い、激しく首を横に振り続けた。彼女は声を立てず泣いた。両手の間から涙がこぼれ落ち、衣にしみを作った。ヴェルーリヤは居たたまれない気持ちに耐えた。
次に巫女が顔を上げた時、その目は血走り、目尻は吊り上り、歯は鋭く尖って血を欲する牙となっていた。辺りに獣の臭いが満ちた。
しかし、獣の目で身構えたヴェルーリヤの顔を凝視する内、牙は鋭さを失い、目はもとの形となり、悲しい光が宿った。
巫女は化生 の相貌と人間の相貌を、交互に形作った。それは、彼女の狂気と正気が激しく相争う様そのものであった。
周囲の様子に気を払えば、夜を映す窓に、懐かしいジェナヴァの町並みと、その灯りが見えた。
昼を映す窓には、雪に閉ざされた荒廃した街並みが見えた。家々の平屋根は厚い雪を乗せ、通りには瓦礫が散乱し、折れた矢が散見される。そうした戦の痕も今は、冬の寒さに沈黙するだけだ。窓からしんしんと押し寄せる冷気を感じた。この冬と荒廃が彼女の現実なのだ。何と寒々しい光景だろう。彼女は何を失い、如何 なる傷を受けたのだろう。
それでもヴェルーリヤは、またも縋りつくブネの両肩に手を添え、彼女を引き離した。
ブネの唇が大きく裂けた。目が吊り上り、牙を剥く。獣臭が鼻腔に満ちた。
危険を感じ、ヴェルーリヤは即座に彼女の領域から撤退した。首筋に食らいつこうとした牙が噛み合わさるカチリという音が、間近で聞こえた。
テラスに戻ったヴェルーリヤは、力を振り絞って強引に境界を閉ざそうとした。
遅かった。空に渦巻く炎は月ほどに小さくなったが、レレナの巫女の意思が領域の死者に入りこみ、それがまた別の死者たちへと瞬く間に伝播していく様子が肌で感じられた。
眼下で、番兵たちの槍の穂先が不気味にきらめいた。背後で、施錠されたテラスの木戸が激しく叩かれた。ヴェルーリヤは唇を固く結び、光を宿す指先で、ルフマンの神印を結んだ。
木戸に戦斧が打ちこまれ、木っ端微塵に砕けた。現れた番兵に向けて、ルフマンの神印より無数の水の刃が放たれ番兵を粉砕した。その亡骸を踏み越え、ヴェルーリヤは屋内へと退避した。直後、彼が立っていたテラスに、矢の雨が降り注いだ。
「ルフマンよ、我に加護を」
襲い来る槍と剣をかわし、書庫で得た魔術の知識で番兵を薙ぎ倒しながら、階下へと進んだ。その全てが、初めて身を守る為に用いる術であった。いっとき、神殿から離れようとヴェルーリヤは決した。水と大気の精霊が、危機の少ない道筋をヴェルーリヤの感覚に教えた。
ヴェルーリヤはようよう洞窟への隠し通路にたどり着いた。背後に点々と残る屍を辿って、背後から番兵たちがとめどなく押し寄せて来る。隠し扉の内側に閂をかけたが、突破されるのは時間の問題に思われた。
内なる目を頼りに通路の闇を抜ければ、かつてルフマンが用意した小舟が残されている筈だった。
やがて、裏の洞窟の、月明かりを反射してのたうつ黒い海面が見えた。洞窟に飛び出したヴェルーリヤの眼前に、何者かが素早く立ちはだかった。回避する間もなく、それはヴェルーリヤの肩に、槍の穂先を叩きこんだ。
よろめき、海に転落しながら、その番兵が纏う衣にギャヴァンの神印が描かれているのをヴェルーリヤは見た。ヴェルーリヤは手を上げ、岸を掴もうとした。その体を、黒い海の底から伸びる二本の腕が掴み、海中に引きこんだ。
大小の泡が苦しげに、海面に浮かんで弾けた。
その内に、泡も消え、海に静けさが戻った。
ヴェルーリヤはテラスに立ち、神殿の屍と亡霊を支配する腐術の強化に集中していた。隙あらば死者達をヴェルーリヤの手から掠め取ろうとする、木相から流れこむ馴染みなき力の存在を、炎の渦から絶えず感じる事ができた。
その力の背後にある神はレレナに違いない。あの巫女はレレナを奉じる巫女であるらしかった。ヴェルーリヤの父、根と伏流の神ルフマンよりも、遥かに高位の神だ。ヴェルーリヤは心に渦巻く畏れに打ち勝とうとした。神の力と、それを借りて行使する人間の力は、全く別のものだ。レレナの巫女を
ヴェルーリヤには、己以外に頼れる者はなかった。あの不愉快な老人は、どうやらあれでも、聖域内の均衡の維持に必要な存在であったらしい。滅した事は浅慮であった。
首を横に振り、雑念を払う。
「……私は、この居場所を失うわけにゆかぬ」
銀の瞳から感情が消え、意識が炎の渦を潜った。
その先は、白く静まり返った世界だった。空間には清浄なレレナの神気が満ち、肌を優しく刺激した。
レレナの巫女は、ヴェルーリヤに背を向ける形で椅子に掛けていた。真昼の青空を映す無数の窓は、ヴェルーリヤの出現によってその半数が夜の星空に変わり、気配を察知した巫女は、音もなく立ち上がった。
振り向いた巫女の顔を、ヴェルーリヤは初めて見た。後ろ姿からは疲れて老けこんだ印象を受けたのだが、正面から見れば、思ったよりも若い女だった。ふっくらした頬と垂らした前髪のせいで、子供っぽくさえ見える。黒々と艶めく瞳を向けて、巫女はヴェルーリヤに、嬉しそうに笑いかけた。
「ブネ、と申されたか」
ヴェルーリヤは、穏やかに語りかけた。巫女は白い衣の裾をはためかせて駆け寄り、言葉もなくヴェルーリヤの体に腕を回し、抱きついた。肩に巫女の顔が押しつけられ、困惑しながらも、ヴェルーリヤは話し続けた。
「石相にある我が領域への干渉をやめて下さらぬか」
巫女はしばらくの間、ヴェルーリヤに抱きついたままでいたが、ようよう言葉を理解しだすと、顔を上げ、困り果てた様子で目をあわせた。
「そなたが侵犯する領域は、根と伏流の神ルフマンの加護を受けた聖域であり、私の棲家だ。そなたの力の流入によって聖域の平穏は破られようとしている。手を引いていただきたい」
巫女の瞳が潤み、口は何かを言いたげに小さく開いた。そして拒否を示し、首を横に振った。
「聞き入れて下され。私は荒事は好かぬ」
巫女は両手で顔を覆い、激しく首を横に振り続けた。彼女は声を立てず泣いた。両手の間から涙がこぼれ落ち、衣にしみを作った。ヴェルーリヤは居たたまれない気持ちに耐えた。
次に巫女が顔を上げた時、その目は血走り、目尻は吊り上り、歯は鋭く尖って血を欲する牙となっていた。辺りに獣の臭いが満ちた。
しかし、獣の目で身構えたヴェルーリヤの顔を凝視する内、牙は鋭さを失い、目はもとの形となり、悲しい光が宿った。
巫女は
周囲の様子に気を払えば、夜を映す窓に、懐かしいジェナヴァの町並みと、その灯りが見えた。
昼を映す窓には、雪に閉ざされた荒廃した街並みが見えた。家々の平屋根は厚い雪を乗せ、通りには瓦礫が散乱し、折れた矢が散見される。そうした戦の痕も今は、冬の寒さに沈黙するだけだ。窓からしんしんと押し寄せる冷気を感じた。この冬と荒廃が彼女の現実なのだ。何と寒々しい光景だろう。彼女は何を失い、
それでもヴェルーリヤは、またも縋りつくブネの両肩に手を添え、彼女を引き離した。
ブネの唇が大きく裂けた。目が吊り上り、牙を剥く。獣臭が鼻腔に満ちた。
危険を感じ、ヴェルーリヤは即座に彼女の領域から撤退した。首筋に食らいつこうとした牙が噛み合わさるカチリという音が、間近で聞こえた。
テラスに戻ったヴェルーリヤは、力を振り絞って強引に境界を閉ざそうとした。
遅かった。空に渦巻く炎は月ほどに小さくなったが、レレナの巫女の意思が領域の死者に入りこみ、それがまた別の死者たちへと瞬く間に伝播していく様子が肌で感じられた。
眼下で、番兵たちの槍の穂先が不気味にきらめいた。背後で、施錠されたテラスの木戸が激しく叩かれた。ヴェルーリヤは唇を固く結び、光を宿す指先で、ルフマンの神印を結んだ。
木戸に戦斧が打ちこまれ、木っ端微塵に砕けた。現れた番兵に向けて、ルフマンの神印より無数の水の刃が放たれ番兵を粉砕した。その亡骸を踏み越え、ヴェルーリヤは屋内へと退避した。直後、彼が立っていたテラスに、矢の雨が降り注いだ。
「ルフマンよ、我に加護を」
襲い来る槍と剣をかわし、書庫で得た魔術の知識で番兵を薙ぎ倒しながら、階下へと進んだ。その全てが、初めて身を守る為に用いる術であった。いっとき、神殿から離れようとヴェルーリヤは決した。水と大気の精霊が、危機の少ない道筋をヴェルーリヤの感覚に教えた。
ヴェルーリヤはようよう洞窟への隠し通路にたどり着いた。背後に点々と残る屍を辿って、背後から番兵たちがとめどなく押し寄せて来る。隠し扉の内側に閂をかけたが、突破されるのは時間の問題に思われた。
内なる目を頼りに通路の闇を抜ければ、かつてルフマンが用意した小舟が残されている筈だった。
やがて、裏の洞窟の、月明かりを反射してのたうつ黒い海面が見えた。洞窟に飛び出したヴェルーリヤの眼前に、何者かが素早く立ちはだかった。回避する間もなく、それはヴェルーリヤの肩に、槍の穂先を叩きこんだ。
よろめき、海に転落しながら、その番兵が纏う衣にギャヴァンの神印が描かれているのをヴェルーリヤは見た。ヴェルーリヤは手を上げ、岸を掴もうとした。その体を、黒い海の底から伸びる二本の腕が掴み、海中に引きこんだ。
大小の泡が苦しげに、海面に浮かんで弾けた。
その内に、泡も消え、海に静けさが戻った。