刻限

文字数 1,805文字

 太陽が傾いて、西の山脈に触れた。空は茜から薄紫に色を変え、東から夜が藍色に押し寄せてきた。

 大聖堂図書館の前階段に座りこんだミューモットが干した果物に齧りつき始めた。彼は、隣に座るリディウに果物を差し出した。リディウは首を横に振った。

「私には、神官達が残していった食料があります」
「食わんのか」

 リディウは答えなかった。

 夜が恐怖を連れて来るのをリディウはひしひしと感じていた。命の刻限が迫りつつある。今夜中に死ぬ。そのさだめを逃れても、神官達によって星図の間から崖に突き落とされて死ぬ。もはやその実感を直視せずにいる事はできなかった。

「ミューモットさん、あなたは何故、ここにたどり着いたのですか?」
「さあな」
「あなたは知っているのではないですか?」

 リディウは階段に手をつき、身を乗り出した。

「何故、あなたと私は、このような場所で出会わなければならなかったのですか?」
「何故今、そんなことを考える」
「偶然このような出会いがあるなど、おかしいではありませんか」

 一語放つ間にも、夜は二人の顔を染める。

「あなたは、私がここにいるから、いらしたのではありませんか? あなたがあなたの導きによって旅をなさっているのなら、私と出会うべくして発相にいらしたのではありませんか?」
「自意識過剰だな」

 ミューモットは口から干し葡萄の臭いをさせながら言った。

「俺とお前の出会いに意味があるとしたら、その意味は何だ? お前はどう思う。わかったところで、どうしたい」
「私をあなたの旅に同行させてください」
「逃げる気だな」

 ミューモットが星を宿した目でリディウを凝視する。

「家族に累が及ぶとは思わんのか」
「神官たちは明日の昼、大聖堂図書館に来ます。彼らに、私が逃げたのではなく、何らかの事故に遭ったと思わせる事ができるなら」
「そしてまた、ネメスの都で生贄が選ばれるわけか」

 胸の奥深くで憎しみが冷たく(こご)り、リディウは泣き出しそうになった。

 赤い炎が視野を染めた。リディウは目を細めた。ミューモットは、掌の上の炎を凝視した後、ゆっくりとリディウに視線を移した。

「とにかく、明日の朝まで待て。お前が生贄の役に足ると決まったわけではあるまい」
 彼は立ち上がり、マントの砂を払う。
「お前が役者ではなく、お前に使えるところがあるなら、考えてやってもいい」

 リディウは涙を拭った。今はミューモットの言葉を信じ、心の支えにするしかなかった。そして一人馬車に向かい、ドレスと靴を替えた。空腹は感じず、ひどい吐き気がした。

「ついて来てください」
 馬車を出て、リディウはミューモットの腕に縋った。
「ついて来て。お願いです」
「泣くな」

 手套が汚れるのにも構わず、リディウは手の甲で涙を拭きながら、声をあげて泣き始めた。膝はがくがくと震え、今にも砂の上に座りこみ、立ち上がれなくなりそうだった。

 これまでの生贄達は何と勇敢だったのだろうとリディウは考えた。こんなに情けない私が、神のお気に召す筈がない――そして私は生き延びて、朝を迎え――逃げる。この人に逃がしてもらえる。そんな明日が必ず来ると信じよう。

 リディウは左手に二本の蝋燭を握りしめ、右手でミューモットの肘を掴んで、嗚咽を殺しながら一歩ずつ前に進んだ。闇に満たされた建物内部を、ミューモットの魔術の炎が照らした。南棟テラスから石階段を下り、森の小径を進む。その道行きは昼間とは全く違う(かお)を見せていた。風は涼しいどころか切るように冷たく、夜行性の鳥の鳴き声が禍々しく響いている。

 階段状の客席の天辺で、ミューモットが足を止めた。

「ここからは一人で行け」
「ミューモットさん」
「この舞台と客席は陣を成している。部外者の俺が足を踏み入れるわけにはいかん。お前が行くんだ、生贄」
「では、ここにいてください」
「構わん」

 ミューモットは溜め息とともに頷いた。

「くれぐれも、途中で帰ってしまったりなど、なさらないでくださいね」
「わかっているから、行け」

 リディウは何度も振り向きながら、客席の間の通路を下りていった。舞台の両脇の蝋燭台に蝋燭を刺し、火打ち石を打った。今、頭上に死の星ネメスが輝いているかなど、恐ろしくて確かめる事はできなかった。


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