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 その後、雨脚はますます強くなっていった。ウラルタは防水マントを体に巻き、フードを目深にかぶって町を歩いた。大雨は、全ての町が頼りない船に過ぎない事を思い出させた。あちこちで、町がぎしぎしと音を立て、板張りの街路には苔が生えている。顔に雨がかからぬよううなだれて歩いていたが、周りの様子を確かめるべく、上目遣いに視線を上げた。

 白く霞む視界の向こう、この道の先で交差する別の通りを、一列になって歩く人々の姿が見えた。五、六人ほどだろうか。ウラルタは目を細めた。建物の陰に入り、消えてゆく。旅人だろうか。だとしたら一晩雨を凌げる場所を知っているかもしれない。ウラルタは走り出した。

「待って!」

 通りが交差する場所に出た。
 人々が消えていった方を見る。雨に紛れて、列の最後の一人が、奇妙に揺れながら、ゆっくり歩いているのが見えた。

「待ってください!」

 ウラルタが走り、靴底を街路に叩きつける度、水しぶきが弾ける。顔に風が当たり、フードが脱げた。視界が広くなった。最後尾の人が振り返った。

 その人は雨具を着ていなかった。
 近付けば、衣服さえ身に着けていない。
 体がやけに大きい。そして、全身が真っ赤だった。顔はパンパンに膨れ、目玉が飛び出している。舌が、固い棒のように、開ききった口から突き出ていた。

 死者だ。
 水死者。

 靴底で、水を吸いきった木の道が滑った。バランスを崩す。転ぶまいとして真横にあった民家の塀に手をついた。その塀は予想に反して、ウラルタが加えた力に耐えきれず、奥方向に動いた。そこだけ戸になっていたのだ。
 戸の先は暗い階段だった。
 ウラルタは声もなく、通りに手を伸ばしながら、階段を転落する。

 ※

「死してなおこの世を彷徨う屍になりたいか!」

 火の精霊王を祀るイグニスの寺院に、高等神官の低い声が響く。高等神官は老いており、しゃがれた声はどこか邪悪な響きに聞こえた。

「いいえ!」

 聴衆が唱和する。

 みんな老いているわ。ウラルタは思った。神官も、聴衆も。寺院に集まる人間は、老いているか、病んでいるか、幼すぎるかだ。そうでない人間は僅かな日銭を得る為に働いている。ウラルタもだ。祖父から継いだイグニスの侍祭の法衣はウラルタには大きすぎた。

「腐乱し、悪臭を撒き散らしたいか。その姿を晒し、隣人によって石つぶてを投げつけられたいか。魔よけの護符で以って、家族によって家から閉め出されたいか!」
「いいえ! 神の代理人よ! いいえ!」
「死後の彷徨は忌むべき結末である」

 早く大人にならなければならない。ウラルタは説教の間も、その事ばかり考えた。大きくならなければ。この法衣は体に合わなすぎる。ウラルタなりに、体に合うよう縫い直したのだが、それでも余分の布が邪魔で仕方がない。侍祭の地位を世襲したものの、その地位の象徴である法衣を高等神官に返上し、自分の体に合う法衣を授かるには、ウラルタの予想を上回る金が必要だった。

 あと何年、何か月、何日我慢を続ければ、大人になれるだろうか。その間、何年、何か月、何日も、本当にこの説教と祭祀の時間を耐えなければならないのだろうか。そうだ。父も祖父もそうして来た。先祖たちはそうして来た。陸を失ってから。

「汝ら永遠(とわ)に呪われて、この水相をあてどなく彷徨い歩くを望むか。汝の父、母、汝の子らがその定めを歩むを望むか!」
「いいえ! 決して!」

 しばし、高等神官も聴衆も口をつぐむ。蝋燭の灯と香炉の煙が揺れ動き、高い天井に吸いこまれてゆく。
 天井には、失われて久しい青空が描かれていた。
 空が青いなどと、ウラルタには信じられない。

「我らは罰を受けた」

 高等神官の一転して静かな声もまた、偽りの空に吸い上げられてゆく。

「我らは虚飾の罰を受けた。我らは不義と不貞の罰を受けた。我らは過ぎたる享楽、過ぎたる屠殺、過ぎたる怠惰の罰を受けた。我らは嫉妬と強欲で自らを貶めた。我らは憤怒と傲慢で自らを失った」

 罰。ああ。ウラルタは天井を仰ぐ。

「神々は我らに罰を与えたもうた。その罰を全うすることで我らを赦したもうと約束された。汝らはそれを疑うか!」
「いいえ!」
「罰とは漂流であり、この水相を生きる事である!」

 ウラルタは、くらくらと眩暈を感じ、目を閉じて俯いた。

「神々は水相から陸地を奪いたもうた。しかし慈悲を下さった――世界各地でこのような町を形成し、漂流の準備にかかる猶予を下さったのだ。そして、罰を信じた民のみが、生き延び、罰を受ける事を許された。汝ら、神の大いなる御業を疑うなかれ――」

 ウラルタは口を開け、喘ぐように呼吸をした。

 生きる事が、生まれた事が、罰。罰を途中で放棄するならば――即ち自ら命を絶つならば――もう一度はじめから、罰を受け直さなければならない――この水相で、輪廻転生を繰り返すことで――。
 ああ、そのように信じていなければ、町が、水相の全ての町が、共同体を維持できなくなる。

 まっすぐ立っていられないほど具合が悪くなってきて、ウラルタは背後の側廊まで後ずさった。

「死後彷徨う者は、神を疑いし者である。罰された理由を理解せず、嘘をつき、不義不貞を働いた貪欲の輩である。神々の光に背を向け、傲慢、憤怒、怠惰、強欲と手を結びし者である。して、()の者らは死後、転生を待つ間、更に過酷な生を送らなければならぬ。呪われし者に災いあれ――我ら敬虔なる子羊に幸いあれ――」

 ウラルタはよたよたと側廊を通り抜け、奥の扉を音を立てずにくぐった。そして、裏口から寺院を出た。
 この人生は罰。生きている事が罰。死ぬまで逃れられない。

「嫌だ」

 ウラルタは涙を堪え、家へと走り出す。

「嫌だ!」

 私は、それを信じて大人になりたくない。
 下級神官の簡素な法衣が風を含み、ばたばたと音を立てた。不変の夕闇が、空を支配していた。
 家に帰りついた。

 戸に封筒が挟まれていた。
 ウラルタは一瞬冷静になり、封筒を戸から抜いた。

 差出人は自分の名前だった。
 出された町の名前はネメスとなっている。

 そして、消印は、未来の日付だった。


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