過去(3)/罠

文字数 2,536文字

 ヴェルーリヤは、次の晩、浮足立った貧民区の人々からこんな噂を聞いた。新総督が就任の祝いに、何らかの行事の用意を行っているらしい。

 十日ほどすると、人々が顔を強張らせて紙切れを握りしめていた。尋ねると、(くじ)だと言う。あの新総督が町の各区画から籤で代表を一人選び、その者に無償で施療の術を行うという。それが就任の祝いらしい。初めて対面した時の総督の態度を思い出し、ヴェルーリヤは意図がわからず困惑した。

 また次の晩、あの両足を失った男が籤に当たり、施療院に連れて行かれたと聞いた。

 そのまた翌晩、件の男が失われた筈の両足で歩いて帰ってきた。数十年ぶりの歩行を支える為、杖をつきながら、なけなしの金で酒を買い、上機嫌で酔っている様子を、ヴェルーリヤは酒場の窓からそっと窺った。あのように、傷ついた者がその傷を癒やされ、生きる希望を得たのならそれでよいと思う一方、拭えぬ嫌な予感が胸に広がるのもまた否めなかった。ヴェルーリヤは下町を巡った後、労働者たちの宿舎を訪れた。

「あんたが来て下さって、わしの痛みは取れやした。夜も眠れるようになりやした」

 荷車引きの老人が言った。彼は両手を切り落とされており、その為荷車引き以外の仕事ができないのだ。

「ですが、わしの両手自体はもう、戻ってこんのでしょうか」

 荷車引きの労働は、痩せた老人には酷過ぎる。彼の体は腰といわず膝といわず痛みを発していた。ヴェルーリヤは老人の問いに悲しくなり、首を横に振った。ただ体中に蓄積した痛みを取り除き、肉体の苦痛がもたらす様々な負の感情を和らげた。それでも老人は、ヴェルーリヤが施す術に不満げな様子であった。

 軍港の建設が始まった。驚いたことに労働者たちは、あの荷車引きの老人も含め、皆志願してより過酷な労働に自らを駆り立てるようになった。

「新しい総督が来て、現場の監督も変わりました。よく働けばその分引き立てられると約束して下さいました」

 体中に張り付く関節と筋肉の痛みに耐えながら、ある労働者は言った。

「あの籤は、これからは年に一度、就任記念日に実施されるっちゅう話です。目をかけてもらえたら、籤の時、有利に図ってもらえるかもしれねぇ」

「籤に当たらなくても、働いた分だけ金がもらえる。それに、よく働いて引き立てを頂いて、出世して、金を稼げば体の悪い所を治してもらえる」
「されど、体を治す為の労働で体を壊しては本末転倒ではないか」
「それだって、治してもらえばいい」

 しかし彼らは、その過酷な労働でどれほど賃金が上がるのか、どれほど働けば身分を引き立てられるのか、ギャヴァンの施術師から施術を受けるにはどれほどの金が必要か、わかっていなかった。ただ希望という名の熱病に浮かされて、自らの手で自らの体を傷つけていった。人々の間の連帯感には縦横に亀裂が走り、引き立てられるために、楽をするために、誰かが自分の足を引っ張っているのではないか、そんな疑心暗鬼が満ちた。

 ある晩、さる商家からの使いがヴェルーリヤの家に来た。跡取りの長男が酷い足の痛みに苦しんでいるから来てほしいと言う。ヴェルーリヤは救いを求める者があらばと、その富裕な商人の屋敷に向かった。

 商人の長男は肉の塊としか言えぬ奇態であり、その姿にヴェルーリヤは目を(みは)った。部屋の戸を通り抜けられぬほど肥え太り、もはや着られる服がないのか、裸でベッドに寝そべり、そのベッドは、壊れぬよう鉄で補強されていた。人の手を借りなければ排泄もままならぬと見え、下働きの者が汚物入れと共に部屋の隅に控えていた。それでも、長男はベッドの横のテーブルに並べられた大量の肉やパンや菓子を、来客を気に留めるでもなく、絶えず貪っていた。

 掛け布をめくって足を見れば、痛むのも当然、その足は腐り始めていた。ヴェルーリヤは痛みを取り除いた後、自分ではなく医者を呼ぶよう家の主に進言した。長男には食を慎むよう言った。長男は失明しかけた目に不気味な笑みを浮かべながら、わかったようなわからぬような生返事をするだけであった。

 用が済むと、主は金貨が入った小袋をヴェルーリヤに渡した。ヴェルーリヤは固辞したが、主は強引に、懐に押し付ける様にして受け取らせ、そのまま屋敷から閉め出した。ヴェルーリヤは困ってしまい、あれこれ思案した末に、下町を彷徨い、生活苦に涙を流す人々の家の戸口に一枚ずつ金貨を差し入れた。

「この両手は戻らんのですか。本当に戻らんのですか」

 次の晩、荷車引きの老人が涙ながらに縋りついて来た。人々は懇願の裏に責めるような鋭さを隠した目でヴェルーリヤを取り囲んだ。なんでも、昨晩の商人がヴェルーリヤの施術を針小棒大に吹聴して回っているそうで、その話には彼が報酬を受け取った事まで含まれていた。話の中では、長男の腐りかけた足は癒え、目も明瞭な光を取り戻し、立ち上がって歩けるまでに回復した事になっていた。

 ヴェルーリヤは一つずつ誤解を解こうと試みたが、報酬を受け取ったのかという問いには口ごもるよりほかなかった。受け取っていないと言えば嘘になり、本当の事を言えば、その金をどうしたかと問われるのは目に見えている。そして、こっそりと金貨を撒いた家の者が迷惑を被る結果は火を見るより明らかだ。

「結局、金なんだな」

 荷車引きの老人はそう吐き捨てた。ヴェルーリヤは失望と怒りの視線に取り巻かれながら、自分が逃れがたい、見えざる糸に絡め取られていくのを感じていた。

 労働者達はヴェルーリヤを偽善者と呼び、その晩以来、彼が宿舎に寄れば、砂をかけて追い払うようになった。彼らの体が放つ痛みに胸を引き裂かれながらも、近寄る事は許されず、ヴェルーリヤは彼らのもとから立ち去らざるを得なくなった。

 貧民区の人々の間にも、様々な噂話がある事ない事広まった。家々の戸口には、破られ、冒涜的な言葉が書き記されたルフマンの神印が撒かれた。それは、その家の者がヴェルーリヤを拒絶している(しるし)であった。それでも彼は、自分を信じる者の為、自分を求める者の為、ジェナヴァの町を歩いた。


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