過去(4)/対決
文字数 3,512文字
夜空の月が欠けていき、ヴェルーリヤの力が最も落ちる新月の晩、総督府からの使いが家に来た。
総督府内の施療院に来るよう、使者は言った。そこに、お前の力を必要としている者達がいる、と言う。その言を信じ従いながらも、見えざる糸が一層きつく自分を締め付けていくのを、総督府に向かう間中、ずっと感じていた。
施療院に一歩入ったヴェルーリヤは、内部の光景に言葉を失った。床に直接布が敷かれ、そこに横たわる人々が、五十、六十、いや七十……。
「来たか、ナエーズの神の使いよ」
高座には総督が、その下には施術師達が並んでいた。以前と同じ光景であった。違うのは、横たえられた熱病や怪我にうめき苦しむ人々の存在と、左右の側廊に立ち並ぶ見物人らの存在であった。
「近頃どうも、貴様に関するよからぬ噂を耳にするものでな」
「総督、お言葉ですが――」
総督は手を左右に振り、ヴェルーリヤの言葉を遮った。
「まあ貴様にも言い分という物があろう。何がまことか、何が嘘か、いちいち論を交わしたところで埒 が明かぬ。もっと手っ取り早く白黒つけようじゃないか」
総督が手で合図をすると、左右に控える手の者が、素早く背後の幕を取り払った。果たして享楽の神ギャヴァンの神像と、その祭壇が露わになった。
「貴様の存在と行いの是非を巡り、民は対立し、心を引き裂かれておる」
髭を撫でながら、総督は話し続けた。
「貴様はジェナヴァの不和の源だ。そこでだ、本国が信仰を推奨する神の一つである享楽の神ギャヴァンの御前で、どちらの神が民に必要か、証明しようではないか」
ここに至ってヴェルーリヤは、何故病人やけが人や、施術師やジェナヴァの一般人が集められたかを、そして、何故よりによりて新月の晩に使者が寄越されたかを悟った。
「我が力は競う為、争う為、見世物にする為に与えられたものではございませぬ!」
「黙らんか! この私に口を利くならば、勝敗を征してからにするがよい。この大砂時計の砂が落ち切るまでの時を与えよう。それまでに、我が手の者より一人でも多くの民を癒やしてみせよ」
祭壇の脇に据え置かれた巨大な砂時計が、二人の人間の操作によって返された。
代表のギャヴァンの施術師が前に出た。彼が大仰な手振りでギャヴァンの神印を結び、太い声で祝詞を唱え始めると、眩い光が施術師の手許に集まった。
施術を行うのに、そのようなわざとらしい仕草が必要な筈もないが、日頃魔術を目にする機会のない見物人たちは、畏れぞよめいた。神を見世物にする行為に、ヴェルーリヤは耐えがたいほど不快なものを感じた。しかし、足許に横たわる、傷ついた奴隷の縋りつくような目に気付くと、しゃがみこんでその手を包みこみ、痛みから解放してやらずにはいられなかった。神ルフマンの御業によって、そのように生まれついたのだ。願いをかなえて生きる為に。ヴェルーリヤが奴隷の痛みの除去に集中し始めると、総督は彼が勝負に乗ったものと見做した。
見物人達は既に、ギャヴァンの施術師のこれみよがしな施術に魅了されていた。瀕死の病人の熱が引き、欠損した体が再生し、見るも無残な傷跡が消えてなくなる様子は、傍目には正に奇蹟と呼ぶべきものであった。
「人間は、健康な体で満足に生きる道を追求するべきだ。そうは思わんかね」
高座の総督が満足そうに言い放った。
「相応しい代償を払いさえすればな」
ヴェルーリヤは額に汗をかきながら、月から得られぬ分の力を体の芯から振り絞った。それでも、砂時計の砂がみな落ちるまでもなく、勝敗は明らかであった。
「我が手の者の施術によって癒えし者は起立せよ!」
代表の最も腕が立つ施術師も、顔を真っ赤に染め汗をかき、肩で息をしていたが、総督の呼び声に応じて十数人が立ちあがると、満足してヴェルーリヤに蔑むような笑みを向けた。ヴェルーリヤによって苦痛を取り除かれた人間は十にも満たず、その上、怪我や病そのものを癒されたわけではないのだ。
「数えるまでもないな」
総督が、高座から立ち上がった。ゆっくりと段差を下りると、ヴェルーリヤに一歩ずつ歩み寄りながら、おもむろに腰に手をやって、瑪瑙 で彫られたギャヴァンの神印を見せつけた。
ヴェルーリヤはおぞましいものを感じ、後ずさった。
「怖いのか」
総督は神印をかざし、声を張り上げた。
「神の御印を恐れるとは、これぞ魔性の者の証! 敬虔なジェナヴァの民よ、皆はそうは思わぬか」
見物人達がぞよめき、示し合わせたように、ギャヴァンの神官が総督にすり寄った。
「いかにも総督閣下の仰せの通りでございます。彼の者が崇めし神ルフマンはナエーズの蛮族どもの神であり、そのナエーズは邪神崇拝の穢れた地。彼の者は民の弱みにつけこみ誑 かす、まさに邪神の手先の魔物にございましょう!」
「違う!」
ヴェルーリヤは声をあげた。総督が、なお瑪瑙の神像を振りかざし迫った。ヴェルーリヤは吐き気を感じ、また一歩後ずさる。ヴェルーリヤの目には、神像から立ち上る黒い瘴気がはっきりと見えた。
ギャヴァンそのものは決して邪な神ではない。彼らの、ギャヴァンへの信仰の仕方が邪なのだ。彼らの欲と傲慢が、瘴気の正体だ。
「神は、国も人も選ばぬ」
総督と忌まわしき神像に一歩ずつ迫られ、じりじりと側廊に追い詰められながら、ヴェルーリヤは弱弱しく言った。
「ならばギャヴァンの御印に手を触れ、跪くがよい」
相手が動けずにいると見るや、総督はなお高らかに、自信を漲らせて民に言い聞かせた。
「皆の者! 本国よりもたらされた我らが神ギャヴァンの威光がよくわかっただろう。ギャヴァンは享楽の神であるが、その享楽は勤勉、勤労を前提としたものであるぞ。日頃、施術によって報酬を得る我らを強欲であると言う者がおる事も存じておる。だが、施術もまた労働である。施術という労働の価値は、皆の報酬によって支えられておるのだ。報酬なくして勤勉に働こうという者がこの中におるか?」
民はざわつく。
「無報酬の労働は、労働の価値を卑しめ、人を怠惰に、物を無価値にする。その様な行為をさも有難げに敷衍 せしこの者こそ、ナエーズの邪神の手先、怠惰と腐敗の手先であるぞ!」
ざわつく声は秒ごとに高まり、魔物だ、と誰かが言うと、瞬く間に同じ言葉が人々の間に広まった。
「騙してたんだ」
真後ろで声が上がった。
「そうだ! お前達はこの者に騙されておったのだ!」
危険を感じ、逃げようとしたヴェルーリヤは、後ろを向いた途端、頬に渾身の殴打を受けた。
床に倒れたヴェルーリヤは、全身から自分の知らない力が迸るのを感じた。
不吉な音を立てて、施療院の全ての窓に、大きな亀裂が走った。
顔を上げたヴェルーリヤは、沈黙した人々が青ざめ、恐怖している様子をその目で見た。
「この――」
ヴェルーリヤが恐怖した瞬間、またも音を立てて、今度は大砂時計が砕け散った。白い砂がさらさらと床にこぼれ落ち、その音の中、人々が凍りつく。
やがて、誰かが鬨の声をあげた。それを合図に人々が雪崩を打って詰めかけ、ヴェルーリヤを取り囲んだ。
立ち上がろうとしていたヴェルーリヤは、側頭部を蹴りつけられてまた倒れた。全く予想もしていなかった痛みと衝撃であった。彼が自ら引き受け、吸い取った人々の苦痛は、これほどまでの苦痛を彼自身に及ぼしはしなかった。彼は誓って、人間に危害を加えたり、自分がそうすることを願った事はない。しかし人間は自分を殺そうとしている。髪を鷲掴みにされた時、ヴェルーリヤははっきりとそう感じた。振りほどこうと上げた両腕は、たちまち何本もの腕によって取り押さえられ、立ち上がらされた。執拗に殴打されながら、ヴェルーリヤは悲鳴を上げた。その声は誰の心も打たなかった。
ほどなくしてヴェルーリヤは意識を失い、倒れた。それに伴い、人々の恐慌は一時、収まった。
痛みに喘ぎながらぼんやりと意識を取り戻した時、声高に演説する総督と、追従 するギャヴァンの神官の声を聞いた。
彼らはヴェルーリヤの父たる神ルフマンが、いかに穢れた存在か、いかに許しがたい穢れかを、説いている最中 であった。
「違う」
ヴェルーリヤは朦朧としながら、焦点の定まらぬ目を開け、掠れた声で異を唱えた。
「違う……」
その腹に、誰かの爪先が食い込んだ。
総督府内の施療院に来るよう、使者は言った。そこに、お前の力を必要としている者達がいる、と言う。その言を信じ従いながらも、見えざる糸が一層きつく自分を締め付けていくのを、総督府に向かう間中、ずっと感じていた。
施療院に一歩入ったヴェルーリヤは、内部の光景に言葉を失った。床に直接布が敷かれ、そこに横たわる人々が、五十、六十、いや七十……。
「来たか、ナエーズの神の使いよ」
高座には総督が、その下には施術師達が並んでいた。以前と同じ光景であった。違うのは、横たえられた熱病や怪我にうめき苦しむ人々の存在と、左右の側廊に立ち並ぶ見物人らの存在であった。
「近頃どうも、貴様に関するよからぬ噂を耳にするものでな」
「総督、お言葉ですが――」
総督は手を左右に振り、ヴェルーリヤの言葉を遮った。
「まあ貴様にも言い分という物があろう。何がまことか、何が嘘か、いちいち論を交わしたところで
総督が手で合図をすると、左右に控える手の者が、素早く背後の幕を取り払った。果たして享楽の神ギャヴァンの神像と、その祭壇が露わになった。
「貴様の存在と行いの是非を巡り、民は対立し、心を引き裂かれておる」
髭を撫でながら、総督は話し続けた。
「貴様はジェナヴァの不和の源だ。そこでだ、本国が信仰を推奨する神の一つである享楽の神ギャヴァンの御前で、どちらの神が民に必要か、証明しようではないか」
ここに至ってヴェルーリヤは、何故病人やけが人や、施術師やジェナヴァの一般人が集められたかを、そして、何故よりによりて新月の晩に使者が寄越されたかを悟った。
「我が力は競う為、争う為、見世物にする為に与えられたものではございませぬ!」
「黙らんか! この私に口を利くならば、勝敗を征してからにするがよい。この大砂時計の砂が落ち切るまでの時を与えよう。それまでに、我が手の者より一人でも多くの民を癒やしてみせよ」
祭壇の脇に据え置かれた巨大な砂時計が、二人の人間の操作によって返された。
代表のギャヴァンの施術師が前に出た。彼が大仰な手振りでギャヴァンの神印を結び、太い声で祝詞を唱え始めると、眩い光が施術師の手許に集まった。
施術を行うのに、そのようなわざとらしい仕草が必要な筈もないが、日頃魔術を目にする機会のない見物人たちは、畏れぞよめいた。神を見世物にする行為に、ヴェルーリヤは耐えがたいほど不快なものを感じた。しかし、足許に横たわる、傷ついた奴隷の縋りつくような目に気付くと、しゃがみこんでその手を包みこみ、痛みから解放してやらずにはいられなかった。神ルフマンの御業によって、そのように生まれついたのだ。願いをかなえて生きる為に。ヴェルーリヤが奴隷の痛みの除去に集中し始めると、総督は彼が勝負に乗ったものと見做した。
見物人達は既に、ギャヴァンの施術師のこれみよがしな施術に魅了されていた。瀕死の病人の熱が引き、欠損した体が再生し、見るも無残な傷跡が消えてなくなる様子は、傍目には正に奇蹟と呼ぶべきものであった。
「人間は、健康な体で満足に生きる道を追求するべきだ。そうは思わんかね」
高座の総督が満足そうに言い放った。
「相応しい代償を払いさえすればな」
ヴェルーリヤは額に汗をかきながら、月から得られぬ分の力を体の芯から振り絞った。それでも、砂時計の砂がみな落ちるまでもなく、勝敗は明らかであった。
「我が手の者の施術によって癒えし者は起立せよ!」
代表の最も腕が立つ施術師も、顔を真っ赤に染め汗をかき、肩で息をしていたが、総督の呼び声に応じて十数人が立ちあがると、満足してヴェルーリヤに蔑むような笑みを向けた。ヴェルーリヤによって苦痛を取り除かれた人間は十にも満たず、その上、怪我や病そのものを癒されたわけではないのだ。
「数えるまでもないな」
総督が、高座から立ち上がった。ゆっくりと段差を下りると、ヴェルーリヤに一歩ずつ歩み寄りながら、おもむろに腰に手をやって、
ヴェルーリヤはおぞましいものを感じ、後ずさった。
「怖いのか」
総督は神印をかざし、声を張り上げた。
「神の御印を恐れるとは、これぞ魔性の者の証! 敬虔なジェナヴァの民よ、皆はそうは思わぬか」
見物人達がぞよめき、示し合わせたように、ギャヴァンの神官が総督にすり寄った。
「いかにも総督閣下の仰せの通りでございます。彼の者が崇めし神ルフマンはナエーズの蛮族どもの神であり、そのナエーズは邪神崇拝の穢れた地。彼の者は民の弱みにつけこみ
「違う!」
ヴェルーリヤは声をあげた。総督が、なお瑪瑙の神像を振りかざし迫った。ヴェルーリヤは吐き気を感じ、また一歩後ずさる。ヴェルーリヤの目には、神像から立ち上る黒い瘴気がはっきりと見えた。
ギャヴァンそのものは決して邪な神ではない。彼らの、ギャヴァンへの信仰の仕方が邪なのだ。彼らの欲と傲慢が、瘴気の正体だ。
「神は、国も人も選ばぬ」
総督と忌まわしき神像に一歩ずつ迫られ、じりじりと側廊に追い詰められながら、ヴェルーリヤは弱弱しく言った。
「ならばギャヴァンの御印に手を触れ、跪くがよい」
相手が動けずにいると見るや、総督はなお高らかに、自信を漲らせて民に言い聞かせた。
「皆の者! 本国よりもたらされた我らが神ギャヴァンの威光がよくわかっただろう。ギャヴァンは享楽の神であるが、その享楽は勤勉、勤労を前提としたものであるぞ。日頃、施術によって報酬を得る我らを強欲であると言う者がおる事も存じておる。だが、施術もまた労働である。施術という労働の価値は、皆の報酬によって支えられておるのだ。報酬なくして勤勉に働こうという者がこの中におるか?」
民はざわつく。
「無報酬の労働は、労働の価値を卑しめ、人を怠惰に、物を無価値にする。その様な行為をさも有難げに
ざわつく声は秒ごとに高まり、魔物だ、と誰かが言うと、瞬く間に同じ言葉が人々の間に広まった。
「騙してたんだ」
真後ろで声が上がった。
「そうだ! お前達はこの者に騙されておったのだ!」
危険を感じ、逃げようとしたヴェルーリヤは、後ろを向いた途端、頬に渾身の殴打を受けた。
床に倒れたヴェルーリヤは、全身から自分の知らない力が迸るのを感じた。
不吉な音を立てて、施療院の全ての窓に、大きな亀裂が走った。
顔を上げたヴェルーリヤは、沈黙した人々が青ざめ、恐怖している様子をその目で見た。
「この――」
ヴェルーリヤが恐怖した瞬間、またも音を立てて、今度は大砂時計が砕け散った。白い砂がさらさらと床にこぼれ落ち、その音の中、人々が凍りつく。
やがて、誰かが鬨の声をあげた。それを合図に人々が雪崩を打って詰めかけ、ヴェルーリヤを取り囲んだ。
立ち上がろうとしていたヴェルーリヤは、側頭部を蹴りつけられてまた倒れた。全く予想もしていなかった痛みと衝撃であった。彼が自ら引き受け、吸い取った人々の苦痛は、これほどまでの苦痛を彼自身に及ぼしはしなかった。彼は誓って、人間に危害を加えたり、自分がそうすることを願った事はない。しかし人間は自分を殺そうとしている。髪を鷲掴みにされた時、ヴェルーリヤははっきりとそう感じた。振りほどこうと上げた両腕は、たちまち何本もの腕によって取り押さえられ、立ち上がらされた。執拗に殴打されながら、ヴェルーリヤは悲鳴を上げた。その声は誰の心も打たなかった。
ほどなくしてヴェルーリヤは意識を失い、倒れた。それに伴い、人々の恐慌は一時、収まった。
痛みに喘ぎながらぼんやりと意識を取り戻した時、声高に演説する総督と、
彼らはヴェルーリヤの父たる神ルフマンが、いかに穢れた存在か、いかに許しがたい穢れかを、説いている
「違う」
ヴェルーリヤは朦朧としながら、焦点の定まらぬ目を開け、掠れた声で異を唱えた。
「違う……」
その腹に、誰かの爪先が食い込んだ。