記憶ヲ失ッタ君ヲ見ルノハトテモ悲シイ

文字数 3,624文字

 綾香はうすら寒い影の中を、腕をさすりながら歩いた。時折影が薄れ、自分や誰かの顔が見える時があった。

「鬱の他に、強迫性障害の症状も見られますね」

 優しい顔で精神科医が言う。

「これは先ほどあなたが仰った、水や鍵などが気になって眠れない、仕事に集中できない、馬鹿馬鹿しいと思いながら何度も確認してしまう。こういった症状が当てはまります。次回からカウンセリングを開始しましょう。次はいつ来れそうですか?」

 佐々木綾香が答えている。では、その佐々木綾香を観察している私は誰だ?

「暴行の件については、内藤さんと話し合って、社内で収める事になりました」
 小会議室で北村かなえが喋っている。
「あなたのこれからの事なんだけどさ。一応、会社のルールとしては、退職者は少なくとも四十日前に申し出る事になっているけど、今回は事情が事情だし、今すぐ辞めてもらってもいいんだよ?」

 答えている。はい。辞めます。ご迷惑をおかけしました。知らない人が喋っているようだ。答えているのは誰だ?

「あんな……ついこの間までは普通の子だと思ってたのに……」
 実家のリビングで母親が呟いている。
「人様に暴力をふるって首になって戻って来たなんて……こんな事ご近所さんに知られたら、何て説明すればいいんだか……」

「綾香は気が弱ってたんだ。今は休ませるのが一番だと医者も言ってたんだろう」
「休ませるっていつまで! あんな寝たきりの状態でご飯も食べない。ベッドから起きられない。このまま引きこもりにでもなられたらどうする気?」

 綾香は思わず耳を塞いだが、ドアノブが回され、寝室の戸が開く音が鮮明に聞こえた。綾香は目を開けた。耳を塞いではいなかった。夢だったのだ。

 倉富芳樹が実家の寝室の戸口に立っていた。

 スーツ姿で、フルーツの籠盛りを提げている。

 綾香はと言えば、何日風呂に入っていないか思い出せず、最後に何を口に入れたかも覚えていない。髪は脂ぎってぼさぼさで、枕は抜け毛だらけ。黄ばんだパジャマは汗臭く、湿った布団は黴臭い。倉富芳樹は戸を閉めて、ベッドの横に両膝をついた。

「あれから、具合はどう?」

 綾香は乾いた唇で囁くように答える。薬の副作用で動悸が激しく、呂律が回らない。

「別に……」
「別にって」
「今日は、土曜か日曜なの?」
「いいや」

 笑って答える。

「平日だよ」
「倉富くん、仕事行かなくって大丈夫?」
「用事があるって言って、有給とったから」
「用事って、私のお見舞い?」
「うん」

 倉富芳樹は布団の中に手を入れて、綾香の手を握りしめた。

「伝えたい事があって来たんだ」
「何?」
「あなたを幸せにしたい」

 綾香は相手の二つの目を見た。光を湛えるそれは、いずれも地獄の星であるように思えた。綺麗だった。綾香はそれが堪らなく欲しくなった。

「駄目かな?」

 綾香はぼんやりしながら答える。

「わかんない……」
「そうだよね。ごめん」
「本気なの?」

 寂しげな笑みを消し、倉富芳樹は綾香の両目をしかと見返して、本気だよ、と答えた。

「じゃあ私、倉富くん、指輪もお式も要らないから……」
「何?」
「その両目を頂戴」

 倉富芳樹は目を伏せて少し考え、やがて覚悟を決めて、いいよと微笑んだ。綾香は両手で倉富芳樹の頬を挟みこんだ。顔を引き寄せ、右目を唇で塞ぐと、勢いよく吸った。

 倉富芳樹の目玉がつるりと口の中に入ってきた。熱さに似た刺激が口中に広がった。その刺激は苦く、知りようもない記憶と郷愁をもたらした。

 同じように、左目を吸いこんだ。左の目玉は冷たさに似た乾いた刺激があった。その刺激は、認識できる全ての物が影にすぎない事を思い出させた。

 果て無い闇の中の影。人間とはそのようなものだ。影が必死に守っている、あるようなないような(おぼろ)げな輪郭。自我とはそういうものだ。

「結婚しよう」

 倉富芳樹は、闇が口を開けるだけとなった眼窩を綾香に向けながら優しく囁いた。

「そして、二人で歌劇を見に行こう」
「倉富くん、もう、見れないじゃない」
「ああ……そうか」

 綾香は倉富芳樹の頬から手を放した。倉富芳樹の手が宙をさまよう。

「君が見えない。君は誰だ?」
「私は佐々木綾香よ。何を言っているの?」
「佐々木綾香。それは君の名でしかない。結婚して名前が変わったら、君は君じゃなくなるのか?」

 綾香はベッドの上で座り直した。

「名前が変わったって、戸籍が残るじゃない」
「戸籍? 戸籍はただのデータだ。君じゃない。例えば戦争とか、大きな混乱が起きて、戸籍なんてなくなったり意味を失ったりしたら、君は存在しなくなるのか?」

「私はここにいるわ」

 宙を泳ぐ倉富芳樹の手を摑まえて、自分の顔に触れさせる。

「ほら、今、触っているでしょう? これが私よ」
「これはただの、君の肉体だ。人間の細胞は絶え間なく入れ替わり続け、今触れている物体が君ならば、君は秒ごとに君じゃなくなっている。三か月もすれば全身すっかり新しくて、別人という事になってしまう」

 倉富芳樹は綾香の手を振りほどき、腕を下した。

「さあ、君は誰だ?」
「私は……私は私よ」
「それはただのトートロジーだ。無益な思考停止に過ぎない」

「私は、私はここにいる! 私はあなたが好きだと思っている。肉体が変わってもそれは変わらない」
「それはただの君の心だ」

 と言いながら、掌を開く。いつの間にか倉富芳樹は、黄色い錠剤を掌に納めていた。

「君に処方されている、精神科の薬だ。こんな小さな錠剤で、君の心も気分も簡単に変わってしまう」
「それでも――それでも――」

 綾香は両手で髪をかき乱した。

「変わってしまっても、今そう思ってる事は確かよ。それにあなたが私を覚えていてくれる。今この瞬間の私を記憶してくれる。そうでしょ?」
「それは君にまつわる他者の記憶であって、君ではない。現に僕はもう目が見えないんだ。君の顔をいつまでも記憶し続けてはいられない。他人だっていつまでも生きていて、君の由来を証明してくれるわけじゃない」

 眼前の男は更に問う。

 君は誰だ?

 綾香は無意識の内に長い髪を掴み、毟り始めていた。

「私は誰?」
 不安の大波にのまれ、涙ぐみながら綾香は尋ねた。
「では、そういうあなたは誰だというの?」

 綾香は倉富芳樹の唇を見つめ、待った。その口角が吊り上り、彼は声なく笑った後、ゆっくりと喋った。

「記憶を失った君を見るのは、とても悲しい」

 悲しみからは程遠い、嘲るような口ぶりである。

 目の前の男が誰だかわからなくなり、混乱に突き動かされて、綾香は相手の顔に触れた。すると、耳の後ろで皮膚が一部捲れあがっている事に気付いた。その皮膚をつまんで引っ張った。男の顔の皮はめりめり捲れ、一枚目を剥がしきると、床に捨ててしまった。顔の皮は一枚ではないように見えた。綾香は何枚も何枚も、何枚も何枚も、何枚も何枚も何枚も何枚も相手の顔の皮を剥ぎ、床に捨てていった。ベッドの周りに無数の薄い仮面が積み重なってゆく。

 一枚剥ぐ度に相手の顔は輪郭を失くしていった。肌の色さえなくなって、中空に白い影と、二つの眼窩と、口角を大きく吊り上げて笑うおぞましい口だけが残されて、綾香はそれでも顔を剥ぐのをやめられない。不意に、相手の口が大きく裂けたと思うと、綾香に飛びかかり、首筋に噛みついた。反動でベッドの反対側に落ち、暗闇の中を、果てしなく転落していきながら、女は唐突に相手の正体を理解し、叫ぶ。

「サルディーヤ、貴様ァ!」

 ※

 ベッドから落ちた。腰と肩を強打し、女は呻く。ひどく寒い、そして冷たい場所だった。呻きながら目を開けると、床は青い石になっていた。凍てつく風が吹きすさぶ。頭上に雲が厚く折り重なっているのを見て、初めて野外だと気が付いた。

 ここはどこ。女は恐慌に駆られる。自宅じゃない。東京でもないみたいだ。ここは。私は。

 ここは王の荒野だと、ニブレットの自我で女は思った。

「答えが見つかるまで」

 ヘブの声が響き、赤毛の王女は寒さも冷たさも感じぬ体を竦めた。

「この世界の前階層から続く貴様の魂の遍歴を一つ一つ見せてやってもよかったのだが、もう充分なようだな」

 手許には漆黒の剣と鞘、黒曜石の鏡が落ちていた。ニブレットはそれを拾い集める。

「我が神よ――」
「汝に問う。して、貴様は何者だ?」

 女は少ない手荷物である鏡と剣をかき抱き、呆然と座りこんだ。ヘブの気配が、嘲るような笑い声と共に、王の荒野の彼方へと、遠ざかっていった。

 やがて女は口を開いた。

「私は誰だ?」

 答える者はなかった。


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