モシモ希望ガアルノナラ
文字数 3,747文字
月と星の滝が、夏を滑り落ちた。実りなき収穫の秋。血に塗れた恵みの秋。太陽は和らぎ、淡く霞む光が人々の頬を撫でた。
いよいよセルセト軍の噂が、海の向こうの黒雲のように押し寄せてきて、新シュトラトに投げ込まれる哀れなペニェフの生首はにわかに数を減じた。
ラプサーラは占星符を繰る。
「グロズナの奴ら、セルセトと対等に交渉するつもりでいるらしいぜ。ペニェフ優位の政治をやめろってな」
彼女の前を人々の足と噂話が通り過ぎる。
「交渉だって? とんでもない。グロズナの奴らはセルセト国をも敵と見做して最後の一人まで戦うつもりだとよ。あいつらは血に飢えた狂犬なんだ」
ラプサーラは占星符を繰る。
「薄汚ねぇグロズナ連中なんざ、皆殺しにしてしまえ!」
ある時には声だけが通っていく。
何だと、と別の声が応じる。
殺してやる、と最初の声が答える。
すると二人目の声は叫ぶのだ、おお、やってみやがれ。こっちこそ殺してやる。
やがて、言い争いの通りに一つの死体が転がった。
死の噂を聞く度に、ラプサーラは彷徨い歩く。
「お兄ちゃん?」
失望の味は違う。百回目。百一回目。百二回目。全てが。
「お兄ちゃんじゃない」
彼女は死体の前で占星符を広げる。死者の幻影を探す。死者の声を探す。全ての死者の魂が行き着くいずれかの神の懐に続く道を、あらゆる生命が来た道を、逆に辿ろうと試みる。
もしも希望があるのなら、狂気の果てまで追いかけていこう。黒い海を、死の岸へと押し流されていく、全ての命のように。
※
ラプサーラは軍靴の音を聞く。だがそれは神の声ではない。ラプサーラは秋の光を集め滴る槍の穂先を見る。だがそれは神の啓示ではない。
三角の帆が白く、海原の向こうから来た。
「ベリル?」
その時、ラプサーラは占星符を繰るのをやめた。堤防に立ち、かつて己の顔にベリルが血文字を描いたあたりをなぞった。彼女は呟く。
「ベリル、見える?」
帰りたかったろう、セルセトに。生きていたかったろう。ベリル。アーヴ。ダンビュラ、兄ロロノイ。降り注ぐ矢や石に、悪辣な魔術の罠に、剣に、飛び散っていった人たち。ラプサーラは堤防に腰をかける。名も知らぬ、眼前で、眼下で、幻視の中で、死んでいった人々の顔を思い出す。一つ一つ。カルプセスに取り残され、とうに殺されてしまった隣人達の顔を思い出す。一つ一つ。そして数える。
三角の帆が迫り、一つの湾へとみながみな吸いこまれていく。全ての帆が移ろう空の茜に染まる頃にも、ラプサーラはまだ数えている。畳まれた帆から茜が失せ、紫に、そして藍に変じても、まだ数え終わらない。
町の声はいつになく賑やかで、途切れる事がない。血祭りにあげられるグロズナの少女の悲鳴が夜を裂く。
ラプサーラは仰向けの姿勢で堤防に横たわり、まだ数えていた。星のない夜空に揺らめく水紋を幻視しながら。その水紋が己の顔と体に投射されている様を想像しつつ、目を閉じる。
セルセトは遅すぎた。
グロズナの少女の悲鳴は止んでいた。ああ、もう、遅すぎた。彼女は語る。帰りたかったでしょう、生きていたかったでしょう? 瞼の闇、その底深くからこちらを見上げる顔、顔、顔。
不意にそれらの顔が、確かに在るものとして、ラプサーラには感じられた。
思いを馳せる全ての顔が、ただの思いではなくなっていた。ラプサーラは、目を閉じたまま目を見開く……内なる目を。
額がひどく疼く。
ラプサーラは見た。
闇の底深くを埋め尽くす人々を。
それが皆、見覚えがあったりなかったり、いずれにしろ、死んでいった者達であった。
そこは闇の世界だった。ラプサーラこそが光だった。彼女が観察者であるという理由で以て、彼女が生ある者であるという理由で以 て。
死者達は目を開け、口を開けた。距離というまやかしを越えて、ラプサーラの耳を悲鳴と、叫びと、ざわめきと、悔悟の呟きで聾した。
紙切れみたいにがさがさした手がラプサーラの足首を掴んだ。続けて同じ手触りの、しかし初めに感じたものより幾分力強い手が、反対の足首を掴んだ。ラプサーラは急激に闇の底に沈められていくのを感じた。光を求める者によって、光が、己の命が、消えていくのを実感した。
引きこまれる、死者の中へと。ラプサーラは両手でもがき、叫び声をあげようとした。水の中で叫ぶのと同じで、いずれも無意味だった。死者達の力強さに引きずられ、落ちてゆく、落ちてゆく……。
清らかな鈴の音が、死者の声を破り響いた。
両足が自由になる。
ラプサーラは宙に浮いたようになった。静けさで耳が痛くなる。
もう一度鈴の音を聞く時、近付いてくる光を見た。水色の光だ。どこともしれぬ空間で、胎児のように体を丸めて、ラプサーラは光を観察した。それは鈴の音が響く度に、輝きを増した。
やがて光が誰かの手の中にあることが分かってくる。光がその人物を照らした。セルセト国の魔術師の身分を示す緑のマント。白い髪。彼は右手に鈴を下げていた。左手には守護石アクアマリンの光を。
ラプサーラは口から全ての感情が抜け出ていくのを感じた。
彼は死者達を一瞥した。優しい目でも、かといって冷たい目でもなく、ただ見た。彼はラプサーラを見なかった。ただ鈴を響かせた。ただ光と共に歩いていった。長い髪を結った背中をラプサーラに見せて。
死者達の狂騒は去った。死者達は一人、また一人と、光を追って歩いていく。もはや一言も話さず、もはや狂乱に陥ることなく。
ラプサーラはその人の名を叫ぼうとした。丸めていた体をまっすぐにし、手を伸ばし、叫ぼうとした途端、大きな流れをその身に受けた。抗い難い潮流のように、それは声をなくしたラプサーラの自我を、此岸へと押し返した。
そうして彼女は目覚めた。堤防の上、空に描かれる水紋などはない。
顔が熱かった。ラプサーラは口を噤んだまま、堤防から海に身を投げた。黒い水に少し沈み、再び浮き上がった時、顔の熱は少しだけましになっていた。
彼女はようやく、望む名を声に出した。
「ベリル!」
その声は、町にあっては戦支度の兵士達の声に消され、海にあっては黒い夜の海鳴りに消された。だが確かにラプサーラは叫んだ。かつて顔に描かれていた血文字の熱さと共に叫んだ。
ラプサーラは激しく顔を洗い、それでも消えない熱を確かめた。消えない守護と約束の熱だった。身を覆う汗と垢より深く刻まれた熱であった。
海にあり、海より塩辛い涙が頬を伝い落ちる。
ラプサーラは何度でも、ベリルの名を叫んだ。
※
白い服。白い靴。占星符をしまっておく、白い手提げ鞄。ラプサーラはぼんやりした遠い目で、鏡の中の自分を見る。
少し前まで、自分の顔は斑 だった。汗が流れ、垢となり、醜い斑になっていた。今も斑のままだ。ただ、垢を洗い落とす前とは濃淡が逆転している。垢の薄かったところは陽に焼かれ、垢の濃かったところはあまり焼かれなかったからだ。
控室の戸が開き、セルセトの軍人が入ってきた。
「まだ臭いな」
と、中年の下士官は言った。
「だが、多少マシになったな。こ綺麗になったものだ」
ラプサーラはゆっくり鏡から離れた。無言のままのラプサーラに、下士官は言葉を重ねる。
「一応、もう一度だけ聞いておく……セルセトに帰らなくていいのだな?」
「ナエーズに残ります」
「よりによって、星占としてか。これまでデルレイの助けとなってきたように」
下士官は彼女の意志を探るように、斑の顔を凝視する。
「軍に留まるとなるとだな、誰に殺されても文句は言えんのだぞ」
「今までもそうでした。これからもそうだというだけでしょう?」
「理解できんな。あんた、まだまだ楽しい事がたくさんある歳だろうよ。残って何になる?」
「帰って何になるというのです」
人生の楽しみ。とりわけ若い娘としての楽しみ。そのようなものを得るには、ラプサーラは疲れすぎていた。そして老いていた。他の十代の娘達に比べて、誰より。
「意味などございません。どちらを選んでも」
「意味がないなら尚更だ。何でまたナエーズに残る?」
「あなたはどうなんです、軍人さん。この戦争に意味があるとでも?」
「意味もなく戦えるような奴は狂人だ」
下士官は少し迷った。
「俺達はナエーズの安定のため――」
「そういう事ではございません。そんな事を聞いているんじゃない。もっと根源の――もっと本質的な――」
ラプサーラは、自分の言おうとしている事が、あまりにも要領を得ていない事に気付き、口を閉ざした。下士官は肩を竦めた。
二人は共に廊下に出た。
「あんたがナエーズに残る理由は師団長も聞くだろう」
下士官はある大きな扉の前で立ち止まり、囁いた。
「はっきりした答えを言うように。師団長は恐ろしい人だ」
扉が開かれた。ラプサーラの顔に、白い光が差した。
いよいよセルセト軍の噂が、海の向こうの黒雲のように押し寄せてきて、新シュトラトに投げ込まれる哀れなペニェフの生首はにわかに数を減じた。
ラプサーラは占星符を繰る。
「グロズナの奴ら、セルセトと対等に交渉するつもりでいるらしいぜ。ペニェフ優位の政治をやめろってな」
彼女の前を人々の足と噂話が通り過ぎる。
「交渉だって? とんでもない。グロズナの奴らはセルセト国をも敵と見做して最後の一人まで戦うつもりだとよ。あいつらは血に飢えた狂犬なんだ」
ラプサーラは占星符を繰る。
「薄汚ねぇグロズナ連中なんざ、皆殺しにしてしまえ!」
ある時には声だけが通っていく。
何だと、と別の声が応じる。
殺してやる、と最初の声が答える。
すると二人目の声は叫ぶのだ、おお、やってみやがれ。こっちこそ殺してやる。
やがて、言い争いの通りに一つの死体が転がった。
死の噂を聞く度に、ラプサーラは彷徨い歩く。
「お兄ちゃん?」
失望の味は違う。百回目。百一回目。百二回目。全てが。
「お兄ちゃんじゃない」
彼女は死体の前で占星符を広げる。死者の幻影を探す。死者の声を探す。全ての死者の魂が行き着くいずれかの神の懐に続く道を、あらゆる生命が来た道を、逆に辿ろうと試みる。
もしも希望があるのなら、狂気の果てまで追いかけていこう。黒い海を、死の岸へと押し流されていく、全ての命のように。
※
ラプサーラは軍靴の音を聞く。だがそれは神の声ではない。ラプサーラは秋の光を集め滴る槍の穂先を見る。だがそれは神の啓示ではない。
三角の帆が白く、海原の向こうから来た。
「ベリル?」
その時、ラプサーラは占星符を繰るのをやめた。堤防に立ち、かつて己の顔にベリルが血文字を描いたあたりをなぞった。彼女は呟く。
「ベリル、見える?」
帰りたかったろう、セルセトに。生きていたかったろう。ベリル。アーヴ。ダンビュラ、兄ロロノイ。降り注ぐ矢や石に、悪辣な魔術の罠に、剣に、飛び散っていった人たち。ラプサーラは堤防に腰をかける。名も知らぬ、眼前で、眼下で、幻視の中で、死んでいった人々の顔を思い出す。一つ一つ。カルプセスに取り残され、とうに殺されてしまった隣人達の顔を思い出す。一つ一つ。そして数える。
三角の帆が迫り、一つの湾へとみながみな吸いこまれていく。全ての帆が移ろう空の茜に染まる頃にも、ラプサーラはまだ数えている。畳まれた帆から茜が失せ、紫に、そして藍に変じても、まだ数え終わらない。
町の声はいつになく賑やかで、途切れる事がない。血祭りにあげられるグロズナの少女の悲鳴が夜を裂く。
ラプサーラは仰向けの姿勢で堤防に横たわり、まだ数えていた。星のない夜空に揺らめく水紋を幻視しながら。その水紋が己の顔と体に投射されている様を想像しつつ、目を閉じる。
セルセトは遅すぎた。
グロズナの少女の悲鳴は止んでいた。ああ、もう、遅すぎた。彼女は語る。帰りたかったでしょう、生きていたかったでしょう? 瞼の闇、その底深くからこちらを見上げる顔、顔、顔。
不意にそれらの顔が、確かに在るものとして、ラプサーラには感じられた。
思いを馳せる全ての顔が、ただの思いではなくなっていた。ラプサーラは、目を閉じたまま目を見開く……内なる目を。
額がひどく疼く。
ラプサーラは見た。
闇の底深くを埋め尽くす人々を。
それが皆、見覚えがあったりなかったり、いずれにしろ、死んでいった者達であった。
そこは闇の世界だった。ラプサーラこそが光だった。彼女が観察者であるという理由で以て、彼女が生ある者であるという理由で
死者達は目を開け、口を開けた。距離というまやかしを越えて、ラプサーラの耳を悲鳴と、叫びと、ざわめきと、悔悟の呟きで聾した。
紙切れみたいにがさがさした手がラプサーラの足首を掴んだ。続けて同じ手触りの、しかし初めに感じたものより幾分力強い手が、反対の足首を掴んだ。ラプサーラは急激に闇の底に沈められていくのを感じた。光を求める者によって、光が、己の命が、消えていくのを実感した。
引きこまれる、死者の中へと。ラプサーラは両手でもがき、叫び声をあげようとした。水の中で叫ぶのと同じで、いずれも無意味だった。死者達の力強さに引きずられ、落ちてゆく、落ちてゆく……。
清らかな鈴の音が、死者の声を破り響いた。
両足が自由になる。
ラプサーラは宙に浮いたようになった。静けさで耳が痛くなる。
もう一度鈴の音を聞く時、近付いてくる光を見た。水色の光だ。どこともしれぬ空間で、胎児のように体を丸めて、ラプサーラは光を観察した。それは鈴の音が響く度に、輝きを増した。
やがて光が誰かの手の中にあることが分かってくる。光がその人物を照らした。セルセト国の魔術師の身分を示す緑のマント。白い髪。彼は右手に鈴を下げていた。左手には守護石アクアマリンの光を。
ラプサーラは口から全ての感情が抜け出ていくのを感じた。
彼は死者達を一瞥した。優しい目でも、かといって冷たい目でもなく、ただ見た。彼はラプサーラを見なかった。ただ鈴を響かせた。ただ光と共に歩いていった。長い髪を結った背中をラプサーラに見せて。
死者達の狂騒は去った。死者達は一人、また一人と、光を追って歩いていく。もはや一言も話さず、もはや狂乱に陥ることなく。
ラプサーラはその人の名を叫ぼうとした。丸めていた体をまっすぐにし、手を伸ばし、叫ぼうとした途端、大きな流れをその身に受けた。抗い難い潮流のように、それは声をなくしたラプサーラの自我を、此岸へと押し返した。
そうして彼女は目覚めた。堤防の上、空に描かれる水紋などはない。
顔が熱かった。ラプサーラは口を噤んだまま、堤防から海に身を投げた。黒い水に少し沈み、再び浮き上がった時、顔の熱は少しだけましになっていた。
彼女はようやく、望む名を声に出した。
「ベリル!」
その声は、町にあっては戦支度の兵士達の声に消され、海にあっては黒い夜の海鳴りに消された。だが確かにラプサーラは叫んだ。かつて顔に描かれていた血文字の熱さと共に叫んだ。
ラプサーラは激しく顔を洗い、それでも消えない熱を確かめた。消えない守護と約束の熱だった。身を覆う汗と垢より深く刻まれた熱であった。
海にあり、海より塩辛い涙が頬を伝い落ちる。
ラプサーラは何度でも、ベリルの名を叫んだ。
※
白い服。白い靴。占星符をしまっておく、白い手提げ鞄。ラプサーラはぼんやりした遠い目で、鏡の中の自分を見る。
少し前まで、自分の顔は
控室の戸が開き、セルセトの軍人が入ってきた。
「まだ臭いな」
と、中年の下士官は言った。
「だが、多少マシになったな。こ綺麗になったものだ」
ラプサーラはゆっくり鏡から離れた。無言のままのラプサーラに、下士官は言葉を重ねる。
「一応、もう一度だけ聞いておく……セルセトに帰らなくていいのだな?」
「ナエーズに残ります」
「よりによって、星占としてか。これまでデルレイの助けとなってきたように」
下士官は彼女の意志を探るように、斑の顔を凝視する。
「軍に留まるとなるとだな、誰に殺されても文句は言えんのだぞ」
「今までもそうでした。これからもそうだというだけでしょう?」
「理解できんな。あんた、まだまだ楽しい事がたくさんある歳だろうよ。残って何になる?」
「帰って何になるというのです」
人生の楽しみ。とりわけ若い娘としての楽しみ。そのようなものを得るには、ラプサーラは疲れすぎていた。そして老いていた。他の十代の娘達に比べて、誰より。
「意味などございません。どちらを選んでも」
「意味がないなら尚更だ。何でまたナエーズに残る?」
「あなたはどうなんです、軍人さん。この戦争に意味があるとでも?」
「意味もなく戦えるような奴は狂人だ」
下士官は少し迷った。
「俺達はナエーズの安定のため――」
「そういう事ではございません。そんな事を聞いているんじゃない。もっと根源の――もっと本質的な――」
ラプサーラは、自分の言おうとしている事が、あまりにも要領を得ていない事に気付き、口を閉ざした。下士官は肩を竦めた。
二人は共に廊下に出た。
「あんたがナエーズに残る理由は師団長も聞くだろう」
下士官はある大きな扉の前で立ち止まり、囁いた。
「はっきりした答えを言うように。師団長は恐ろしい人だ」
扉が開かれた。ラプサーラの顔に、白い光が差した。