文字数 1,564文字

 次第に暗くなる廊下をウラルタは走っていた。直角に折れ曲がる廊下の突き当たりには、床から天井まである細長い窓が三枚並んでいた。

 夜が星々を散らしたヴェールを山の端から広げていた。ウラルタは窓を、夜に向かって激しく叩いた。

「出して!」

 自分の叫び声に触発され、怒りが呼び起こされた。ウラルタは窓を殴り、蹴った。

「出せ! 私をここから出せ!」

 叫び声の余韻に、遠い鎖の音が混じる。ウラルタは硬直した。狂女は尚もウラルタを追い続けていた。今来た廊下を振り向くが、姿は見えなかった。ウラルタは身を翻して廊下の先へ急いだ。

 一番奥の扉を開け放つと、開放されたテラスに出た。手中の石のような夜が、ウラルタを迎えた。素足の追跡者の足音が、鎖を引きずる音と共に、後ろから迫ってくる。引き返すことも逃げ続けることも出来ず、ウラルタは外開きの扉の後ろに身を隠した。

 狂女がテラスに出てきた。ウラルタは息を殺し、全身を強ばらせて恐怖に耐えたが、狂女はウラルタを探そうとはせず、引き寄せられるようにテラスの縁に向かっていった。

 もう一人、誰かの足音が、廊下からテラスに出てきた。扉の後ろから様子を窺った。星占符の巫女だ。どのようないきさつで星占と狂女が共にいるのか、わかるべくもなかった。とにかく歌劇は進んでいるらしい。

 狂女は真っ白い手すりから身を乗り出して、夜に両手を広げた。

 星占が言った。

「希望よ、あなたはどこにお隠れになられたのですか?」

 狂女はうめき声を上げながらいっそう手すりから身を乗り出し、暮れゆく空の星々に向けて空しく腕を振り回す。

「あそこなのですか? あそこに月がいるのですか?」

 星占の優しい声も狂女には届かない。ウラルタはそっと扉の後ろから足を踏み出した。

「月よ。全ての闇からわけ出でて、我らに道を……」

 そして、気づかれずテラスを出て、廊下を逆戻りする事に成功した。だが事態は変わっていなかった。もう客席には戻れない。そのようなものはどこにも見当たらない。狂った舞台に閉じこめられたのだ。
 舞台から降りるには、自分の役をこなすしかあるまい。

 役。それは何か。ウラルタの脳裏に、いつか眼前に立ち現れた腐術の魔女の姿がよぎる。その鼻を刺す腐臭と共に。

 思わず両手を見た。まだ腐ってはいなかった。

 一階に降りた。

 回廊を渡った。そこはまだ通っていないからだ。まだ見ぬ場所に、自分の役目が隠されていると信じた。回廊の突き当たりの部屋を開けると、そこは僅かに暖かく、燭台に刺された三本の蝋燭が、灯の影を壁という壁に投げかけていた。床には一着の衣服が広げられていた。誰かが倒れ、肉体が消え、服だけ残ったように思われた。前庭で脚本を書いていた灰色の髪の巫女の装束だった。

 袖口にちぎり取られた紙切れが落ちていた。

 ウラルタはそれを拾い、呼んだ。それから、慌てて、歌劇場で手に入れた紙片と照らしあわせた。

 筆跡も、折り目も、書かれた内容も合致していた。

〈星占『いつか全ての光と闇が和合する場所で、月が落ちてくるのを見よう』
 腐術の魔女『〉

「何?」

 ウラルタは空しく問いかけた。

「私の台詞は何なの?」

 ウラルタはじっと待った。霊感が下るのを待った。天啓が下るのを待った。運命がささやくのを待った。何も起きなかった。

 叫びそうになった。

 すると後ろの衣装戸棚が開いた。

 振り向いたウラルタは、戸棚の中から白い腕が突き出されるのを見た。その手に真っ黒い衣裳がつままれていた。

 衣裳を床に放ち、腕は衣装戸棚に消えた。戸棚が閉まる。

 ウラルタは黒い衣裳に飛びついた。

 覚えのある、腐術の魔女の衣裳だった。


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