応報

文字数 2,652文字

 陸を剣で追われ、浜から矢を射かけられ、ヴェルーリヤは傷ついた姿で神殿に逃れつくと、床に倒れ伏した。斬りつけられた傷からは止むことなく血が流れ、床に血だまりを作った。

 いつ死んでしまってもおかしくない状態であった。水や大気の精霊を感じる事もできないほど感覚が鈍り、力も落ちていた。

 このまま死んでもいいと思った。

 人間は、自分には理解の及ばぬ存在であった。人間は、誰かを陥れ、傷つけて喜ぶような存在だった。傷つけ、蹂躙し、征服せずにはおれぬ存在だった。その誰かが、自分を助けた者であっても。

 救いたいと思った。愚かだった。間違っていた。

 昏睡と覚醒を繰り返しながら、それでもヴェルーリヤは何日もかけて神殿の最上階に上りつめた。群晶の間にたどり着いた時には、生命の危機は脱していた。切り刻まれ、血がこびりついた衣のまま、群晶に縋りついた。そして、一番大きな水晶に額を寄せながら、父なる神ルフマンの名を呼んだ。

「父よ、人間は私が思うていたようなものではなかった」

 目尻からあふれた涙が、水晶を伝い落ちた。ヴェルーリヤは慈悲を乞い、自分をもとの姿に返してくれと願った。水晶の中には煙が渦巻くばかりで、何者も、彼の声には答えなかった。

 ヴェルーリヤは傷が癒えるのを待ちながら、夜な夜なジェナヴァの町に意識を飛ばした。

 総督の政策によって、ジェナヴァの町はにわかに金のまわりがよくなった。人々は目先の富に惑わされ、実際のところ以前よりもはるかに安い値で()き使われているのだが、彼らがそれに気付く様子はなかった。

 思い返すもおぞましい施療院でのあの夜、ギャヴァンの施術師によって失われた右腕を取り戻した男は半月後の晩に、またその右腕を失った。突如消え失せたのだ。あの施術師の奇蹟など、限定的なまやかしに過ぎなかったのだ。男は施療院に出向き、施術師に縋りついた。術の継続を望むなら、報酬を支払えと施術師は言った。そして、報酬額を教えると、呆然とする男をそのまま追い返した。同じような人間達が、他に大勢いた。いっときの奇蹟は彼らをより惨めに、より孤独にした。

 傷が癒えても、ヴェルーリヤは神殿から出て行かなかった。ここにいれば、苦痛に呻く人々の声も、自分に対する中傷や罵声も、聞かずに過ごす事ができた。

 そうしてジェナヴァの町に切なげな視線を向けて過ごす内、ジェナヴァの地霊の黒い怒りが地の底で膨らむ気配に気がついた。ジェナヴァの地霊たちは暗闇と静寂を好む性質を持っていた。ギャヴァン信仰がもたらされ、夜がいつまでも明るくなると、地霊たちの不満は怒りに変わった。その怒りは日毎夜毎(ひごとよごと)に高まった。このまま人々の暮らしが変わらなければ、間もなくジェナヴァの町に目を覆いたくなるような災いがもたらされる事は明らかであった。

「行かなくてよいのか?」

 唐突に何者かの声を聞いて、ヴェルーリヤは群晶の間で背筋を伸ばした。長らく煙が渦巻くだけであった水晶の内部に、銀の髪と、銀の髭を伸ばした老人の顔が映りこんでいた。ヴェルーリヤの誰何(すいか)には応じず、老人は白銀の目で、ヴェルーリヤを見つめ返した。

「よいのか? このままで。あの夜毎の乱痴気騒ぎをやめさせなければ、地霊の怒りは収まらぬ」

 ヴェルーリヤは顔を背けた。

「私にその手立てはない」
「本当にそうか? お前は考える気がないだけじゃろう」

 老人は残酷に言い募る。

「本当に、よいのか? このまま見過ごすのか?」

 考えなければならないと、ヴェルーリヤはわかっていた。この得体の知れぬ老人の言う通り、人間たちが大いなる災禍に呑まれるのを見過ごしたいと、そのような事は思っていない自分自身に、嫌でも気付かざるを得なかった。

 それでも、町に行くことを思うと怖かった。人間たちは、今度こそ自分を仕留めるであろうと予測できた。人間の事を思うだけで、顔は青ざめ、体は震えた。ヴェルーリヤは人間が怖かった。今や世界中の何もかもが怖かった。

 老人は執拗に囁く。

「多くの人間が死ぬぞ?」
「黙れ!」
 耐えきれずヴェルーリヤは叫んだ。耳を両手で塞ぎ、激しく首を左右に振った。
「黙れ……やめてくれ……」

 それからひと月と経たぬ晩であった。

 ついぞ、膨張した地霊の怒りが陸を裂き、ジェナヴァの中心街を底知れぬ奈落へと呑みこんだ。その大地の亀裂は黒い瘴気を噴き上げて、町を覆い尽くそうとした。

 人々は無駄な抵抗を試みて、瘴気に呑まれ死んだ。生き残った人々は武器を手に、船に乗り、ルフマンの神殿が聳える小島へと船を漕いで押し寄せた。

 人が来る。武器を持って。

 ヴェルーリヤにはこの後起こる出来事がはっきりと予測できた。

 初めの内、人々は、この傷の痛みを取り除いてくれと縋りつくのだ。

 そうして目先の苦痛から逃れた後、この災厄が何によってもたらされたか、考えようとする。

 そして、ヴェルーリヤが何を説こうとも、彼らの暮らしがもたらした災厄であるとは、認めやしないのだ。

 彼らはヴェルーリヤを疑い、誹謗し、殺すのだ。

 侮辱し、陥れ、殴り、蹴り、鞭で打ち、引き回して見世物にするのだ。しかるのち剣で斬りつけ、矢を射かけて殺すのだ。

 上陸した人々が、恐慌に駆られ悲鳴を上げながら、神殿の門に殺到した。

 ヴェルーリヤは何も考えなかった。ただ己の恐怖に任せて、固い結界で神殿を覆った。

 殺到した人々は慈悲を乞いながら門を叩いた。

 開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない。

 やがて、地霊の怒りは海を越え、門前に殺到する人々の姿を呑みこんだ。

 人々が死んでいく間、ヴェルーリヤは頭を抱え、群晶の前に蹲ったまま、動かずにいた。

 地霊たちはジェナヴァの人間が死に絶えると、満足して深い奈落に帰って行った。

 ジェナヴァにおいて信仰されていた享楽の神ギャヴァンはというと、決して冷酷なわけではないが、冷淡な性格の神であり、一つの小さな町が滅びたところでさして興味を示さなかった。ジェナヴァ以外にもギャヴァンを奉じる人々は幾らでもいるからだ。

 ジェナヴァの土地からは、あらゆる神が消えた。空には切り落とされたような半月が冴え冴えと光を放ち、以後、夜が明ける事はなかった。

 そして、小島の神殿には、門前に折り重なる死体が残された。



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