オジイチャン
文字数 4,492文字
その日は霧が濃かった。目覚めた時既に、窓の向こうには霧以外の何も見えなかった。板張りの道も、向かいのあばらやも、その隣のあばらやも、ウラルタの家もまたあばらやであることを証す、形ばかりの低い垣根も。みな、冷たい白い炎の中で、燃え揺らいでいるかのようだった。むしろ家の中に霧が存在せず、この室内が明瞭に見える事のほうが不思議に思われた。
とりわけ明瞭に見えたものが祖父の死だった。
白布で仕切られた祖父の部屋へ行き、ただ一人の家族が冷たい骸となりて横たわる様子を見た時、ああ、死んだ、と、ウラルタは何となく思った。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
ウラルタは突っ立ったまま祖父を凝視した。
悲しくはなかった。
私は薄情だ。きっと本当は人間ではないと、そう思った。
ふと思いついて、祖父が横たわるベッドにそっと腰掛け、また凝視した。
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。口を閉ざしてやらねばならぬ。いつまでもみっともない表情では、祖父がかわいそうだ。
葬儀をせねばならぬ。
人を集めなければ。
人が集まってくる前に、祖父の口を閉じさせようとウラルタは考える。しかし実際には、指一本動かない。口くらい自分で閉じればいいんだ。
「おじいちゃん」
起こせば自分で口を閉じるだろうとウラルタは考える。
「ねえ」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
わかっている。わかっている。そんな様子を何度も観察して何になる? 何かを、何かをしなければならぬ。
何かを。
そうだ。
葬儀を。
人を呼びに行くなら、その前に家をきれいにしなければならない。
ウラルタは昨日食事をしてそのままの食器を、潮水を溜めた桶に運んだ。それから箒をとり、床を掃き始めた。部屋の片隅を僅かに掃いただけで、その動作を止めた。
こんな事をしている場合じゃない。何か。何か。もっと重要な事をしなければならぬはずだ。
箒を片付け、困惑して祖父の部屋に戻った。
「おじいちゃん」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
いやいやいや。いや、違う。それは何度も確かめた。問題なのはそこじゃない。だけどそれは何か、何か何か、自分が思うより重大な事であるはずだ。祖父が死んだという事は。
祖父は死んだ。死んだ。死んだ。
頭の中で何度か繰り返してみた。死んだ。死んだ。
それはどういう事で……祖父にもう会えない……一人きりになった。
それはどういう事なのだ?
突如として怒りが腹の底から湧き、炎となって頭頂まで立ちのぼった。ウラルタは透明な炎が己の身を焦がし、天井にぶつかり、天井をなめて広がり、四方の壁を伝い、床に降りてなお止まらず、足許に達する様子を見た。癇癪を起こして金切り声で叫んだ。
叫びながら、垂れ下がる白布をひっぺがし、くしゃくしゃに丸め、床に叩きつけた。椅子を蹴り倒した。桶から食器を一つずつ取り上げ、壁に投げつけて割った。
「何よ」更に叫んだ。「何よ」
この世で自分一人だけに理不尽な出来事が集中しているような気がしてならず、腹立たしかった。自分の部屋に駆けこみ、毛布にくるまった。そのままベッドを何度も殴り、それに飽きたらず、跳ね起きると、毛布を床に引きずり落として踏みつけ、枕を部屋の戸に投げつけた。
誰かが来ると思った。あの尊大で、それでいて卑屈で、押しつけがましく物を言う事に関しては天賦の才を持つ大人達の内の誰かが、声を聞きつけて来ると思った。そうあれと願った。大人達が正しいなら。大人達がその尊大な態度に見合う秘められた知恵を持っていて、祖父と自分をどうにかしてくれるなら。そうあれ。
誰も来なかった。
ウラルタはまた、自分の狂乱を冷静に観察している内なる自分を意識していた。冷静な自分は、狂乱が高まるほど冷静に、冷酷になっていった。そしてある瞬間、ウラルタは凍りついた。
祖父は死んだ。
葬儀をしなければならない。
自分の認識が間違っていないことを確かめるべく、もう一度祖父の部屋に行った。
どう見ても死んでいた。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。ウラルタは祖父に失望した。死んだからだ。
しかし、誰かにそれを伝えに行く気にはなれなかった。それをしたら取り返しがつかなくなると思った。人を呼ぶより、葬儀を行うより、何か良い手があるのではないか。何か。
何も思いつかず、ウラルタは部屋に戻り、毛布も枕も直さずに、ベッドに横たわった。霧よりほか、見える物はなかった。
急にひどく眠くなった。ウラルタはそのままうとうとし始めた。半ば眠りながら、どうしたら祖父の死を悼む事ができるだろうと考えた。自分は間違っているのではないか。何か重大な勘違いをしているのではないか。祖父の死が悲しくないのは、それが祖父の死ではないからではないか。祖父の部屋に行って確かめてみようか。いいや。今更確かめなくてもわかる。痩せていて、目を閉じ、口を開けているのだ。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えているのだ。
寝ている場合ではない。何かをしなければ。
けれど眠くて動けない。
ウラルタは眠気と自己嫌悪を払う物を求めて、ラジオに手を伸ばした。ダイヤルを回すと、潮の音が流れてきて部屋に満ちた。やがて声が聞こえてきた。
『――とりわけ私は一族の中でも早くに死んだため、腐乱の度合いときたらそれはもう……惨めな有様でございます。こうして家族で漂っていれば、そりゃあどこかの船団が、私たちを痛ましく思って拾って下さるかもしれません。しかし、私の夫や子供が船に引き上げられることがあっても、私はもうこの通り、触れるもの全てを死と腐敗で蝕む有様ですから、誰からも忌避されて、やがては潮流のゴミ溜まりに行きつくしかないのは自明の事でございます――』
嫌な気分になってダイヤルを回す。ノイズの後、また声が聞こえるようになった。
『――僕はたくさんのお魚達に食べられながら、ずっとおうちに帰りたいと願い続けました。僕は真っ暗で、いろんな物が漂っていて、寒くてゴォゴォうるさい音がする水の中で、家はどの辺りかなぁ、どれくらい流されたのかなぁって考えていました。すると、僕を食べたお魚達が、引き網漁の大きな網にさらわれていきました。もしかしたら、僕は僕の食べられたところだけ、お店を通じておうちに帰れたかもしれません――』
また暴れだしたくなった。生きている者の声を求めて、ノイズと潮の音だけが響くダイヤルを無為に回す。かちり。かちり。
『――すると間もなく舅 が海面から顔を出しますから、私は櫂を振り下ろして、舅の頭に精一杯の力で叩きつけたのです。櫂が深く沈み、割れた果実の汁のように、血やよくわからない液体が潮の泡を染めました。私は舅を恐れておりましたから、とにかく夢中で櫂を振りました。我に返った時には、海面に舅の髪と背中が浮いており、舅は赤く染まる泡と共に流されていくところでした――』
ウラルタは腹を立て、ラジオを切り、ベッドから払い落とした。
祖父が翼を得て空を安らかに飛ぶ事はないとウラルタは知っていた。そんな正式な葬儀をしてやれる金はない。祖父は海を漂うことになる。
ああ。嫌だ。嫌だ。
ウラルタは顔を両手で覆い、胎児のように背中を丸めてすすり泣いた。ウラルタは十三歳だった。浅はかな少女だった。これからどう生きていけば良いのかまるで見当がつかなかった。何故生きていかなければならないのか。
ウラルタは、もはや顔も覚えていない、イグニスの侍祭でありながらある日首に縄をかけて寺院の裏にぶら下がっていたという父のことを思った。呆然と暮らし、ある日夫を迎えに行くと言って家を出そのまま帰ってこなかった母を思った。
両親は、生きている必要がない事を知ったから死んだに違いない。ならば私も死のう。
ああ、それにしてもそれにしても、この世界が生きる必要のない世界なら、あるいは私に生きる価値がないのなら、一体どうして、何の間違いで生まれてきたのだろう。
間違いで、生まれてきた。
世界に希望がないのなら、そう認めなければならない。
嫌だ!
ウラルタは胎児の姿勢のまま、前髪を掴んで思い切り引っ張った。波が床下を打ち、その音は部屋から逃げ出そうとして、窓にぶつかり、霧に阻まれて、部屋に閉じこめられ木霊する。
波が怖かった。
ウラルタは逃げようと思った。
起きて、外套をまとった。風が強かった。木の道を、深い霧の中、風に外套をはためかせて歩いていると、何とも言えぬ壮絶な気分になった。
葬儀局にたどり着いた。
「来てください」
黒い門に取りつけられた呼び鈴を鳴らし、返事も待たず言った。
「祖父が死にました」
眠った。それから眠り続けた。眠りながら葬儀に出た。眠りながら弔辞を述べた。眠りながら各種手続きをした。眠りながら、祖父を乗せた戸板が潮流に乗って夜に向かって流されていくのを、葬儀船から見た。眠りながら家に帰った。眠りながら、更なる眠りにつくべく横たわった。
永遠に目覚めぬ事を望んだが、目を開ける時が来た。霧が晴れていた。そういえば葬儀の時にはもう霧が晴れていたような気がするが覚えていない。
終わらない夕闇の中で、青白い光が、何もないのにやたら折れ曲がりながら空に留まっている。
誰かが、道を歩いてくる。
まだ姿も見えないし、足音も聞こえない。でも気配がわかる。何故わかるのかわからない。けれど確かにわかった。
果たして誰かが、ドン、ドンと、家の戸をゆっくり叩いた。ウラルタは目を開けたまま、茜に染まる天井を見ていた。
ドン、ドンとまた音がした。ウラルタは瞬きした。人が訪ねてくるような心当たりはなかった。誰かが自分の思い違いを正しに来たのかもしれなかった。あの飛んでいるのは、お前の祖父だよ、悪 しき死者になって飛んでいるのだよと教えに来たのかもしれない。
ウラルタはのろのろと起きあがって、ガウンを羽織った。何が来たとしても、それを受け入れよう。そうするしかないのだから。
「はい」
台所を横切りながら、掠れた声で答えた。返事はなかった。ウラルタは鍵を外し、ドアノブに手をかけた。
ぬるい風とともに、吐き気を催す潮の香と腐臭が入ってきた。
夕闇に背を向けて、全身から海草を垂らし、青緑色に腐敗した死者が戸口に立っていた。
ウラルタの口が、勝手に動き、「おじいちゃん」、その死者を呼んだ。
とりわけ明瞭に見えたものが祖父の死だった。
白布で仕切られた祖父の部屋へ行き、ただ一人の家族が冷たい骸となりて横たわる様子を見た時、ああ、死んだ、と、ウラルタは何となく思った。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
ウラルタは突っ立ったまま祖父を凝視した。
悲しくはなかった。
私は薄情だ。きっと本当は人間ではないと、そう思った。
ふと思いついて、祖父が横たわるベッドにそっと腰掛け、また凝視した。
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。口を閉ざしてやらねばならぬ。いつまでもみっともない表情では、祖父がかわいそうだ。
葬儀をせねばならぬ。
人を集めなければ。
人が集まってくる前に、祖父の口を閉じさせようとウラルタは考える。しかし実際には、指一本動かない。口くらい自分で閉じればいいんだ。
「おじいちゃん」
起こせば自分で口を閉じるだろうとウラルタは考える。
「ねえ」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
わかっている。わかっている。そんな様子を何度も観察して何になる? 何かを、何かをしなければならぬ。
何かを。
そうだ。
葬儀を。
人を呼びに行くなら、その前に家をきれいにしなければならない。
ウラルタは昨日食事をしてそのままの食器を、潮水を溜めた桶に運んだ。それから箒をとり、床を掃き始めた。部屋の片隅を僅かに掃いただけで、その動作を止めた。
こんな事をしている場合じゃない。何か。何か。もっと重要な事をしなければならぬはずだ。
箒を片付け、困惑して祖父の部屋に戻った。
「おじいちゃん」
祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。
いやいやいや。いや、違う。それは何度も確かめた。問題なのはそこじゃない。だけどそれは何か、何か何か、自分が思うより重大な事であるはずだ。祖父が死んだという事は。
祖父は死んだ。死んだ。死んだ。
頭の中で何度か繰り返してみた。死んだ。死んだ。
それはどういう事で……祖父にもう会えない……一人きりになった。
それはどういう事なのだ?
突如として怒りが腹の底から湧き、炎となって頭頂まで立ちのぼった。ウラルタは透明な炎が己の身を焦がし、天井にぶつかり、天井をなめて広がり、四方の壁を伝い、床に降りてなお止まらず、足許に達する様子を見た。癇癪を起こして金切り声で叫んだ。
叫びながら、垂れ下がる白布をひっぺがし、くしゃくしゃに丸め、床に叩きつけた。椅子を蹴り倒した。桶から食器を一つずつ取り上げ、壁に投げつけて割った。
「何よ」更に叫んだ。「何よ」
この世で自分一人だけに理不尽な出来事が集中しているような気がしてならず、腹立たしかった。自分の部屋に駆けこみ、毛布にくるまった。そのままベッドを何度も殴り、それに飽きたらず、跳ね起きると、毛布を床に引きずり落として踏みつけ、枕を部屋の戸に投げつけた。
誰かが来ると思った。あの尊大で、それでいて卑屈で、押しつけがましく物を言う事に関しては天賦の才を持つ大人達の内の誰かが、声を聞きつけて来ると思った。そうあれと願った。大人達が正しいなら。大人達がその尊大な態度に見合う秘められた知恵を持っていて、祖父と自分をどうにかしてくれるなら。そうあれ。
誰も来なかった。
ウラルタはまた、自分の狂乱を冷静に観察している内なる自分を意識していた。冷静な自分は、狂乱が高まるほど冷静に、冷酷になっていった。そしてある瞬間、ウラルタは凍りついた。
祖父は死んだ。
葬儀をしなければならない。
自分の認識が間違っていないことを確かめるべく、もう一度祖父の部屋に行った。
どう見ても死んでいた。祖父は痩せており、目を閉じ、口を開けていた。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えていた。ウラルタは祖父に失望した。死んだからだ。
しかし、誰かにそれを伝えに行く気にはなれなかった。それをしたら取り返しがつかなくなると思った。人を呼ぶより、葬儀を行うより、何か良い手があるのではないか。何か。
何も思いつかず、ウラルタは部屋に戻り、毛布も枕も直さずに、ベッドに横たわった。霧よりほか、見える物はなかった。
急にひどく眠くなった。ウラルタはそのままうとうとし始めた。半ば眠りながら、どうしたら祖父の死を悼む事ができるだろうと考えた。自分は間違っているのではないか。何か重大な勘違いをしているのではないか。祖父の死が悲しくないのは、それが祖父の死ではないからではないか。祖父の部屋に行って確かめてみようか。いいや。今更確かめなくてもわかる。痩せていて、目を閉じ、口を開けているのだ。顔は奇妙に青白く、灰色の髭が短く生えているのだ。
寝ている場合ではない。何かをしなければ。
けれど眠くて動けない。
ウラルタは眠気と自己嫌悪を払う物を求めて、ラジオに手を伸ばした。ダイヤルを回すと、潮の音が流れてきて部屋に満ちた。やがて声が聞こえてきた。
『――とりわけ私は一族の中でも早くに死んだため、腐乱の度合いときたらそれはもう……惨めな有様でございます。こうして家族で漂っていれば、そりゃあどこかの船団が、私たちを痛ましく思って拾って下さるかもしれません。しかし、私の夫や子供が船に引き上げられることがあっても、私はもうこの通り、触れるもの全てを死と腐敗で蝕む有様ですから、誰からも忌避されて、やがては潮流のゴミ溜まりに行きつくしかないのは自明の事でございます――』
嫌な気分になってダイヤルを回す。ノイズの後、また声が聞こえるようになった。
『――僕はたくさんのお魚達に食べられながら、ずっとおうちに帰りたいと願い続けました。僕は真っ暗で、いろんな物が漂っていて、寒くてゴォゴォうるさい音がする水の中で、家はどの辺りかなぁ、どれくらい流されたのかなぁって考えていました。すると、僕を食べたお魚達が、引き網漁の大きな網にさらわれていきました。もしかしたら、僕は僕の食べられたところだけ、お店を通じておうちに帰れたかもしれません――』
また暴れだしたくなった。生きている者の声を求めて、ノイズと潮の音だけが響くダイヤルを無為に回す。かちり。かちり。
『――すると間もなく
ウラルタは腹を立て、ラジオを切り、ベッドから払い落とした。
祖父が翼を得て空を安らかに飛ぶ事はないとウラルタは知っていた。そんな正式な葬儀をしてやれる金はない。祖父は海を漂うことになる。
ああ。嫌だ。嫌だ。
ウラルタは顔を両手で覆い、胎児のように背中を丸めてすすり泣いた。ウラルタは十三歳だった。浅はかな少女だった。これからどう生きていけば良いのかまるで見当がつかなかった。何故生きていかなければならないのか。
ウラルタは、もはや顔も覚えていない、イグニスの侍祭でありながらある日首に縄をかけて寺院の裏にぶら下がっていたという父のことを思った。呆然と暮らし、ある日夫を迎えに行くと言って家を出そのまま帰ってこなかった母を思った。
両親は、生きている必要がない事を知ったから死んだに違いない。ならば私も死のう。
ああ、それにしてもそれにしても、この世界が生きる必要のない世界なら、あるいは私に生きる価値がないのなら、一体どうして、何の間違いで生まれてきたのだろう。
間違いで、生まれてきた。
世界に希望がないのなら、そう認めなければならない。
嫌だ!
ウラルタは胎児の姿勢のまま、前髪を掴んで思い切り引っ張った。波が床下を打ち、その音は部屋から逃げ出そうとして、窓にぶつかり、霧に阻まれて、部屋に閉じこめられ木霊する。
波が怖かった。
ウラルタは逃げようと思った。
起きて、外套をまとった。風が強かった。木の道を、深い霧の中、風に外套をはためかせて歩いていると、何とも言えぬ壮絶な気分になった。
葬儀局にたどり着いた。
「来てください」
黒い門に取りつけられた呼び鈴を鳴らし、返事も待たず言った。
「祖父が死にました」
眠った。それから眠り続けた。眠りながら葬儀に出た。眠りながら弔辞を述べた。眠りながら各種手続きをした。眠りながら、祖父を乗せた戸板が潮流に乗って夜に向かって流されていくのを、葬儀船から見た。眠りながら家に帰った。眠りながら、更なる眠りにつくべく横たわった。
永遠に目覚めぬ事を望んだが、目を開ける時が来た。霧が晴れていた。そういえば葬儀の時にはもう霧が晴れていたような気がするが覚えていない。
終わらない夕闇の中で、青白い光が、何もないのにやたら折れ曲がりながら空に留まっている。
誰かが、道を歩いてくる。
まだ姿も見えないし、足音も聞こえない。でも気配がわかる。何故わかるのかわからない。けれど確かにわかった。
果たして誰かが、ドン、ドンと、家の戸をゆっくり叩いた。ウラルタは目を開けたまま、茜に染まる天井を見ていた。
ドン、ドンとまた音がした。ウラルタは瞬きした。人が訪ねてくるような心当たりはなかった。誰かが自分の思い違いを正しに来たのかもしれなかった。あの飛んでいるのは、お前の祖父だよ、
ウラルタはのろのろと起きあがって、ガウンを羽織った。何が来たとしても、それを受け入れよう。そうするしかないのだから。
「はい」
台所を横切りながら、掠れた声で答えた。返事はなかった。ウラルタは鍵を外し、ドアノブに手をかけた。
ぬるい風とともに、吐き気を催す潮の香と腐臭が入ってきた。
夕闇に背を向けて、全身から海草を垂らし、青緑色に腐敗した死者が戸口に立っていた。
ウラルタの口が、勝手に動き、「おじいちゃん」、その死者を呼んだ。