死ノ行軍

文字数 5,091文字

 木々に張られた幕の中から、軍人たちが出てきた。軍議が終わったのだ。夜は頭上に忍びより、己の手も見えないほどの暗闇を、もうすぐ連れて来る。軍人たちは小声で囁きながら散っていく。

 魔術師ベリルが近付いてきた。

「これからどうなるの?」

 ラプサーラは木の根本に座りこんだまま聞いた。ベリルが眼前に片膝をつき答える。

「分断された後部集団の救出作戦が行われる。それに魔術師も二人投入される。俺じゃないけど」

 休めよ、とベリルは言った。それは心からの気遣いであると共に、ある種の逃げである事をラプサーラは感じた。

「待って」
「何だい」
「兄さんはどうやって死んだの?」

 ベリルは唇を噛んでうなだれる。無残な死だったの? 心の中で更に尋ねる。だって、魔術で殺されたという事は?

「明け方、カルプセスを出発する隊列に向けてグロズナ軍の攻撃が始まったんだ。俺は市内にいたけれど、敵に魔術師がいる事を感じて攻撃を開始した。魔術師を生かしておくと厄介だから」

 魔術師は希少であり、かつ強大な力を持つ。それゆえセルセト本国では、魔術の才を持つ者を幼い内からかき集め、特別な教育を施す。

 そのような育ちゆえ、魔術師は魔術師の脅威を誰より分かっている。

「敵の魔術師は三人いた」
「そんなに……」
「あいつら、本気でカルプセスを落とすつもりだったんだ。二人までは俺が殺した。ロロノイはずっと俺の隣にいた。戦闘が始まってからも、経緯を見守るために。俺が死んだら、俺の代わりに、見たものを報告しなきゃならないから」
「その三人目が兄さんを?」
「ああ」

 ラプサーラは、胸の底で冷たい憎悪が震えるのを感じた。

「街の壁を攻撃された。防ぎきれなかったんだ。あいつ……ロロノイは……壁の上から弾き飛ばされて……」

 ラプサーラは想像する。夜明けの薄紫色の空を。カルプセスを囲む高い壁を。

 そこから墜落する兄を。

 目を見開き、口も開き、信じられないという顔をして落ちていく兄を。

 妹を頼むとデルレイに懇願した時の表情を思い出そうとした。カルプセスを出ると告げに来た時の切羽詰まった表情を思い出そうとした。陽気だった兄の、笑った顔を、酔って騒ぐ顔を、思い出そうとした。

 できなかった。頭に浮かぶのは全て想像の中の、墜落していく兄の顔だけだった。

「手を伸ばしたんだ」

 ベリルは右手で土を掴んだ。

「でも届かなかった」

 彼が掴む土のその下に、兄の指がある事を思った。それを掴めば兄の命が助かる事を思った。まだ助けられると。過去は変えられると。

「兄さん」

 ラプサーラはベリルの右手を払いのけ、彼が抉った土を更に深く、両手で掘り始めた。

「兄さん!」

 ベリルが身を引き、続いて身を乗り出して手首を掴んだ。

「おい、どうした?」
「兄さんが」

 手を振りほどき、尚も両手で土を掘る。

「兄さんを助けないと!」
「やめろ!」

 左手の守護石を懐にしまい、ベリルは今度は両手でラプサーラの両手首を掴んだ。

「どうしたんだよ、やめろよ!」
「兄さんが落ちてしまうわ!」
「土掘ったってしょうがないだろ! あいつは死んだんだ!」
「邪魔しないで!」
「目を覚ませ!」

 両肩を掴まれ、揺さぶられた。ラプサーラは咄嗟に土まみれの右手を上げ、ベリルの顔を平手で叩いた。

「どうして兄さんは死んだの?」

 乾いた音で狂乱から覚め、怒りが宿る目に、暮れの空の光を集めながらラプサーラは尋ねた。

「どうして同じ場所にいたのに、あなたは生きてて兄さんは死んだの?」
「ロロノイは運が悪かった」
「運ですって?」

 低い声で繰り返す。

「よくもぬけぬけとそんな事が言えるわね!」
「ラプサーラ、駄目よ。ラプサーラ。静かに」

 立ち上がったラプサーラの肩に、誰かが後ろから手を乗せる。ダンビュラだった。ラプサーラは脱力して、その場に座りこんだ。胸に冴え冴えとした憎悪が夜の潮の様に満ち、引く予兆を見せなかった。ラプサーラは顔を覆う。ベリルはそっと去った。食料の配給が始まったが、ラプサーラは動かなかった。

 暫くすると誰かが来た。草を踏む足音の重さから、ベリルではないと思った。何よりその、禍々しい気配から。

 顔を上げたら闇だった。足もとにカンテラが置かれ、その火の向こうにミューモットのいかめしい顔が現れた。中年の魔術師は紙に包まれた干し肉と、保存用のパンを寄越した。

「食っとけ」

 彼は無愛想に言う。

「これが最後の食料だ」

 ラプサーラは無感情になるよう努め、受け取る。

「じゃあ、新シュトラトはもうすぐなの?」

 その質問をミューモットは鼻で笑った。

「まだ三分の一も進んでねえ」

 黙りこみ、じっと食料を見る。

 どうして兄さんの事は助けてくれなかったの?

 そう質問したかったが、答えが怖かった。運が悪かったで片付けられるのが堪らなく恐ろしかった。もっと深遠な意味が欲しかった。深い理由付けが。

 それでいて、ベリルの言う事が正しいのだと、頭ではわかっていた。

 ※

 占星符を捲れば意味がわかるだろうか?

 星が意味を与えてくれるだろうか? 神が?

 意味があり、人が死ぬのか。あるいは死に意味などなく、全ては運でしかなくて、意味を求める方が馬鹿げているのか? ラプサーラは一晩うなされる。

 ※

 夜が明けても行軍は開始されず、救出部隊を待った。ベリルはそばにいたが、話しかけてはこなかった。謝らなければならないとわかっていた。しかし、話しかける事はおろか、彼の顔を直視する事さえできなかった。兄が死んだのに生きているベリルが憎くて仕方なかった。彼が親切な人物である事はわかっている。彼が死ねばよかったわけでもないと思っている。

 それでもどうにもならなかった。死にゆく兄に対して無力だった、ベリルの事が憎かった。

 移動開始を待つ間、ミューモットが食べられる草と食べられない草を教えてくれた。これは良い気晴らしになった。

「あのぎざぎざの葉っぱについてる黄色い実は何?」
「あれはやめておけ。食えん事はないが、一定の割合で毒のあるよく似た奴が混じっている。素人にはまず見分けがつかん」
「あんたは何の玄人なんだい?」

 そばで聞いていたベリルが口を挟むが、ミューモットは歪んだ笑みを浮かべるばかりだった。ベリルは肩を竦めるだけで追究はしなかった。

 ミューモットはマントの下に、鞘のないダガーをちらつかせていた。その刃も柄も黒く塗られており、一目で暗殺用だとわかる。彼が何者なのか、ラプサーラは知りたいとも思わなかった。願いは一刻も早く目的地に着く事だけだった。

 日が高くなるまで待つが、魔術師二人を投入した救出部隊はついぞ戻って来なかった。食料の欠乏もあり、この場に留まる事はできなかった。

 救出部隊を待たずして、デルレイは行軍を開始する。

 ※

 四日目、今度は先行する偵察部隊が先頭集団に戻って来ない事態が発生した。デルレイはやはり、偵察が戻るのを待たず前進を決断した。

 ひどい胸騒ぎがした。星図が何かを囁いているから、今すぐそれを広げて意味を読み取らなければならないという強迫観念に駆られた。ミューモットとベリルはラプサーラの近くにいて、何かを囁きあっている。

 やがてベリルが馬に跨り、列の先頭に走って行った。間もなく行軍は、森の中で止まった。

「どうしたって言うの」

 ミューモットは「さあな」ととぼけて答えない。ラプサーラは占星符が入った荷袋を胸に抱き、列の先頭に走った。軽んじられるのも、何も知らずに歩かされるのも、我慢ならなかった。

「ベリル」

 ようやく彼の名を呼べた。

「ベリル!」

 白髪の魔術師は兵士に囲まれて、デルレイと共にいた。兵士を押しのけて現れたラプサーラから、ベリルは緊張して顔を背けた。

「何だい」

 ラプサーラは彼のぎこちなさに傷つく自分の心を感じた。

「それはこっちの台詞よ。何だって言うの」
「いいところに来た」

 デルレイが馬から離れ、歩み寄る。

「娘、今この場で星占を行えるか」
「無意味ですよ、隊長。星占は個人の生死は占わない」
「そういう物なのか?」
「ええ。よほど人間界で影響を及ぼす人物でもない限り。そんな事をしてもこの先に待ち構える物は変わらないでしょう」

 ベリルはちらりとラプサーラを見たが、またすぐ目を逸らした。

「罠が仕掛けられている。血銅界の魔術の罠だ。偵察部隊はそれにやられた」
「どうしてそんな事がわかる?」
「俺が魔術師だからですよ。仕掛けた奴の顔だってわかります」

 ベリルは肩を竦め、

「そういう物ですよ」

 魔術師の言を疑うつもりは、ラプサーラには毛頭ない。デルレイは渋い顔をするばかりだ。

「俺が先行します。許可をください」
「魔術師は貴重だ」
「わかってます。その能力の発揮しどころですってば」
「リヴァンスとドミネを救出部隊に同行させた以上、君は我が隊で動かせる最後の魔術師だ。我々は君を失うわけにはいかん。わかっているだろうな」
「重々承知の上です。行けるところまで行きましょう、隊長」

 デルレイはベリルが列の先頭に立つ事を許可した。ラプサーラはデルレイを警護する兵の真後ろを歩く。いつの間にかミューモットが背後についていた。気が付いた時、得体の知れない物をこの男から感じ、背筋が冷たくなった。

 森の坂道の途中で行軍が止まった。兵士たちの頭越しに、坂の下で立ち止まるベリルの後ろ姿が見えた。彼は森が終わる場所で立ち止まり、片腕を上げて進むなと合図をしている。後ろのミューモットが意味ありげに呻いた。

 兵士たちとデルレイがベリルのもとに集まる。ラプサーラもそっと近づいた。ベリルの目の前には平原が広がっていた。ラプサーラは道の脇にそれ、木々の合間から前方を窺った。

 見るに堪えない物がそこにあり、慌てて目を閉ざした。その為、赤く血塗られた草と点々と飛ぶ蠅以外、何も見ずに済んだ。一度意識してしまうと、蠅の羽音が耳を打ち、腐臭が鼻を襲う。カラスもしきりに鳴いていた。ラプサーラは道に戻った。デルレイが口を開く。

「何が見える?」
「こりゃひでぇや」

 ベリルは馬から下りて答えた。

「この平野一面に、点々と術が敷かれています。踏んだら発動するように。彼らは――」

 と、言い淀む。

「踏んだらああなるのか」

 デルレイは偵察部隊の兵士達の死体を見ながら顎を撫でた。

「ベリル、俺はどうも魔術に詳しくない。血銅界の魔術師を擁するグロズナの軍事組織は何だったか?」
「〈リデルの(やじり)〉の一党ですよ。よりによって一番狂信的な奴らです」
「もう一つついでに聞こう。その罠は踏まなければ発動しないんだな?」

 ベリルが目を瞠る。その顔から血の気が引いた。

「答えろ。踏まなければ問題ない。そうだな」
「はい、ですが――」
「ですが、何だ」
「踏まないように歩くとなると、相当注意深く歩かなければ……しかも一人ずつ歩かなければ不可能です。隊長、二万の人間がですよ? まさか一列になって? 冗談じゃないっすよ」
「無論、冗談ではない」

 魔術師が左手を固く握りしめるのを、ラプサーラは見た。
「リデルの鏃の一党はナエーズ中心部を拠点にしている。これを突破しさえすれば、以降はグロズナの影響力の薄いナエーズ北部に入る。どのみち引き返す事はできん」

 デルレイはミューモットを呼んだ。

「貴様もここまで来て、協力せんとは言わんな、魔術師」
「いいだろう」
「ベリル、引き続き先頭に立て。ミューモット、馬に跨れ。人と馬にとって安全な道を後続に示せ」

 ベリルが身震いする。ミューモットが前に出て、彼の馬に跨った。ラプサーラは眩暈を感じながら、その場に踏ん張った。

 隠れる場所もない平原を。二万の人々が。一列で進む。

 峠から見下ろした矢の嵐が、否応なく思い出される。足が震え、止まらなかった。

 ベリルが、握りしめた左手を額にかざす。

 彼は歩き出した。右手から、魔術の光の粒がこぼれ、後続に道を示す。ミューモットが馬に乗り、その後ろに続いた。

 白昼、死の一列縦隊はこうして始まった。



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