流転
文字数 3,597文字
薄明、荒野を彷徨い歩く死者を、木巧魚が見つけた。木巧魚は死者を正しい方角へと導いた。
死者は、自分自身を取り敢えずニブレットと呼ぶ事にした。自分がニブレットであると、またはサルディーヤであると、確信を持つ事は難しかった。肉体はニブレットの物だが、ところで名とは肉体に対してある物か、自我に対してある物かと歩きながら考えた。意味のない思考であった。
ニブレットは途方に暮れて立ち尽くす馬を見つけた。サルディーヤが手綱を引いていた馬だ。荷を負っている為、他の二頭に後れを取ったのだろう。その手綱を取った。
死者の旅は続いた。
馬に跨り進む事二日目の暮れ、地中から突き出る太い棒に出くわした。棒はニブレットの背より少しばかり高く、一定の間隔で並んでいた。その棒もまた、夜空を閉じこめたラピスラズリへと変化している。
眠りに落ちる際、ニブレットは棒の正体に思い当たった。古き世、セルセトの都は、現在では王の荒野と呼ばれる場所に存在した。先セルセトの最後の王は、慢心から地霊の王を食らおうとし、大いなる怒りを買った。地が割れ、都は幾万の無辜の民と共に地に沈んだ。ここがかの伝説の地であれば、棒は地中の腐敗した空気を抜く為の筒であろう。少しでも土を清らかに保つ努力を見せ、地霊の怒りを鎮めるいじましい行為。同時に、全ての筒は墓碑でもある。顔を寄せると、筒の表面には、古王国文字で無数の名が刻まれていた。
死者は古き都の上を歩き、過ぎた。馬は寒さと恐怖のせいか、水も餌も口にしなくなり、痩せこけていった。ニブレットは馬を捨てた。
※
やがて緩やかな坂の上に、立ち並ぶ古き王たちの墳墓が見えてきた。折り重なる雲は黒さをいや増し、病める太陽の血が、呪いのごとく雲の合間に滲んでいた。冷たいラピスラズリの大地は、朝も昼もなく荒野を夜の静けさに閉ざした。点在する巨石群は、遠目には永劫に身を捩って悶絶する人々の彫像に見えた。その奥に意識を飛ばせば、荒野の更に彼方から、未知の淀んだ空気を感じた。石相との境界だろう。まだ遠い。
巨石が並ぶ丘を越えると、荒野は起伏を見せる。小さな丘の斜面には、石化した扉が規則正しく埋めこまれている。先セルセトの王族たちの墓室だ。
日没、ニブレットは瑠璃色の木にもたれかかって目を閉じた。目を開いても、閉じていても、見えるのは闇、それだけだった。
「私は誰だ?」
意識が融けていく中、幾度目ともわからぬ問いを口にした。そのような事もわからぬ人間はこの世で自分一人であろうと思われた。無様で、惨めな気持ちだった。
眠りの淵を滑り落ちていきながら、もはや熱も冷気もわからぬ死者の肉体は、不思議なぬくもりを感じた。併せて、孤独も、無様さも、惨めさも、身の内から吸い取られていくのがわかった。それは、王の荒野に踏み入って初めて理解した、瑠璃の界、その象徴たるラピスラズリの魔力だった。
清らかな水の底にゆっくりと沈んでいくような、静かな快感。五臓六腑に瑠璃色の闇が沁み渡る。この素晴らしい闇とつつましやかな光は、もしこの肉体がまたも苦痛を感じる事があったとしても、それさえ取り除くだろう。生きてきた中で一度も経験した事のない優しさを持つ、献身的で、控えめな力。もしブネの言う男が、この石の力を象 にしたような男であったら、その者が清らかな月の光のみを食べて静かに眠っているのであれば、その者をみすみすブネに渡しはすまい。ニブレットの心で死者は思った。
「私は誰だ?」
この石なら、答えを持っているかもしれぬ。そう思えた。
「私は誰だ」
「答えが欲しいか!」
太い声が頭中で響いた。死者は覚醒する。瑠璃の魔力はたちまち遠のいた。威厳ある、ニブレットにとってこの上なく甘美な声であった。乾いた夜の底で、死者は体を起こした。そして、腕に抱く漆黒の剣を、手探りで鞘から抜いた。声の出所は疑いようもなかった。漆黒の剣から緋の色彩が滲み出る。死者は剣を地に置き、傅いた。
「我が神よ」
「汝に問う。汝は有能なる我が崇拝者ニブレットか」
死者は返答に困った。ヘブを前にした今、それを崇める自分は確かにニブレットであると思われた。
問いを肯定しようとした。すると、胸にヘブを拒否する声なき声と、ぞよめく紫紺の魔力を感じた。
「緋の界にまします我が神よ、敬虔なるニブレットは王の荒野にて損なわれました」
「わかっておる」
ヘブは腹に響く声で笑った。死者はその笑いを悲しく感じた。和らげられた惨めさや無様さが、またも胸を満たして堪らない気持ちにさせた。
「私は何者でございましょうか。私はニブレットであり、サルディーヤであり、二人の人間の記憶を持ち、女であり、男であり、腐術と分魂術によって今ここに生かされております。この私を定義する名がこの世にございましょうか」
「魂の名は一つだ」
緋の色彩の揺らぎにヘブの姿が見えぬかと死者は目を凝らすが、意味ある象 は現れなかった。
「お前の魂は古い。世界が無数の相に分かたれる前の階層から来ておる。お前の魂の来歴には様々な名が記されておる。ニブレットであれ、サルディーヤであれ、今更そのような違いに何の差がある」
「されど、我が神よ、自我には名が必要です」
人間とは悲しいものだ。自我とは。死者は思う。
「私は己が何者かを知る事を望みます。答えをお与えください。あるいはその機会を」
「たとえ前階層まで遡り、今生のお前の現在まで辿り直すとしても、望む答えを得られるとは限らん」
「構いません。答えがなくとも、何らかの示唆があるならば」
「よかろう」
ヘブは渋い声で応じた。
「ただし、この後 起きる事によって、お前の混迷が更に深まる事にならん保証もまた無いぞ」
漆黒の剣から立ち上る色彩が炎の象をとり、その揺らめきに意識が引きこまれるのを感じた。魂が自我に引きずられて肉体から外れた。炎を中心に世界が歪み、渦巻く歪曲の奥底へと、魂は一つ一つの名と記憶と洗われながら、落ちていった。
不意に鋭い光を認識した。
同時に、形容しがたい甲高い騒音が、耳から脳を刺した。
耐えがたいほどの人の声と雑念と蒸し暑さが肉体を包みこむ。
「危ない!」
後ろから肩を引かれた。巨大な物体が、眼前を通り過ぎていった。
目と耳と肌を刺激する全ての物が理解できず、肉体は恐慌に陥る。目を瞠 った。口を開く。悲鳴を上げた。されど声が出ない。大きく開けた口で、肉体は何度も汚れた空気を吐き、吸いこみ、吐いた。それが悲鳴の代わりだった。
恐慌は唐突に去った。肉体は口を閉じる。そして、目に映るもの、耳に聞こえるもの、自分の身に起きた事の、全てを理解した。
交差点で大型トラックに轢かれかけたのだ。
いつだって雑居ビルの影と高速道路の影に染められている暗い交差点。今は夜に染められている。
先ほどの騒音は、トラックのクラクションに違いない。
悪臭は排気ガスだ。
光の洪水は、電光看板にオフィスビルの窓の明かりに信号機に自動販売機。
何故、全て当たり前のこのような事がわからなかったのだろう?
「佐々木さんじゃないですか」
胸の鼓動が早くなる。脇の下に汗が浮いた。誰かの手が肩から離れ、振り向こうとした肉体は貧血を起こし、その場に蹲る。車道を絶え間なく、自動車が通り過ぎてゆく。
こんなに騒々しい世界があるなど信じられない。
では、何なら信じられるのか?
何を信じていたのか?
わからない。
もう何も思い出せない。
「誰?」
肉体はか細い女の声を発した。
「誰って。ああ、酔ってる」
男が溜め息をついた。信号が変わって、人々が動き出した。肉体は目をこする。視界が定まらない。男が誰だかわからない。それでも肉体は動き、その男の名を口にした。
「倉富くん」
それが男の名である事は明らかに思われた。
「送りますよ、佐々木さん。立てますか? 大丈夫?」
肉体は呻いた。熱帯夜はかつてない息苦しさで体を苛んだ。男がタクシーを止める。車内に連れこまれ、運転手に住所を教えるよう男が言った。
肉体は記憶に依らず、掠れた声で住所をマンション名まで述べた。
タクシーが動き出した。目を閉ざす。瞼の闇に緋の色彩が滲み出る。ひどい吐き気がした。カーナビが喋っている。その音声が不意に、低く甘美な声で未知の名前を呼んだ気がした。
「儚き人の自我よ。確たる自己、確たる現実、そのようなものがあると思うなら、見つけ出してみるがよい」
肉体は意味を理解する間もなく、意識を失った。
死者は、自分自身を取り敢えずニブレットと呼ぶ事にした。自分がニブレットであると、またはサルディーヤであると、確信を持つ事は難しかった。肉体はニブレットの物だが、ところで名とは肉体に対してある物か、自我に対してある物かと歩きながら考えた。意味のない思考であった。
ニブレットは途方に暮れて立ち尽くす馬を見つけた。サルディーヤが手綱を引いていた馬だ。荷を負っている為、他の二頭に後れを取ったのだろう。その手綱を取った。
死者の旅は続いた。
馬に跨り進む事二日目の暮れ、地中から突き出る太い棒に出くわした。棒はニブレットの背より少しばかり高く、一定の間隔で並んでいた。その棒もまた、夜空を閉じこめたラピスラズリへと変化している。
眠りに落ちる際、ニブレットは棒の正体に思い当たった。古き世、セルセトの都は、現在では王の荒野と呼ばれる場所に存在した。先セルセトの最後の王は、慢心から地霊の王を食らおうとし、大いなる怒りを買った。地が割れ、都は幾万の無辜の民と共に地に沈んだ。ここがかの伝説の地であれば、棒は地中の腐敗した空気を抜く為の筒であろう。少しでも土を清らかに保つ努力を見せ、地霊の怒りを鎮めるいじましい行為。同時に、全ての筒は墓碑でもある。顔を寄せると、筒の表面には、古王国文字で無数の名が刻まれていた。
死者は古き都の上を歩き、過ぎた。馬は寒さと恐怖のせいか、水も餌も口にしなくなり、痩せこけていった。ニブレットは馬を捨てた。
※
やがて緩やかな坂の上に、立ち並ぶ古き王たちの墳墓が見えてきた。折り重なる雲は黒さをいや増し、病める太陽の血が、呪いのごとく雲の合間に滲んでいた。冷たいラピスラズリの大地は、朝も昼もなく荒野を夜の静けさに閉ざした。点在する巨石群は、遠目には永劫に身を捩って悶絶する人々の彫像に見えた。その奥に意識を飛ばせば、荒野の更に彼方から、未知の淀んだ空気を感じた。石相との境界だろう。まだ遠い。
巨石が並ぶ丘を越えると、荒野は起伏を見せる。小さな丘の斜面には、石化した扉が規則正しく埋めこまれている。先セルセトの王族たちの墓室だ。
日没、ニブレットは瑠璃色の木にもたれかかって目を閉じた。目を開いても、閉じていても、見えるのは闇、それだけだった。
「私は誰だ?」
意識が融けていく中、幾度目ともわからぬ問いを口にした。そのような事もわからぬ人間はこの世で自分一人であろうと思われた。無様で、惨めな気持ちだった。
眠りの淵を滑り落ちていきながら、もはや熱も冷気もわからぬ死者の肉体は、不思議なぬくもりを感じた。併せて、孤独も、無様さも、惨めさも、身の内から吸い取られていくのがわかった。それは、王の荒野に踏み入って初めて理解した、瑠璃の界、その象徴たるラピスラズリの魔力だった。
清らかな水の底にゆっくりと沈んでいくような、静かな快感。五臓六腑に瑠璃色の闇が沁み渡る。この素晴らしい闇とつつましやかな光は、もしこの肉体がまたも苦痛を感じる事があったとしても、それさえ取り除くだろう。生きてきた中で一度も経験した事のない優しさを持つ、献身的で、控えめな力。もしブネの言う男が、この石の力を
「私は誰だ?」
この石なら、答えを持っているかもしれぬ。そう思えた。
「私は誰だ」
「答えが欲しいか!」
太い声が頭中で響いた。死者は覚醒する。瑠璃の魔力はたちまち遠のいた。威厳ある、ニブレットにとってこの上なく甘美な声であった。乾いた夜の底で、死者は体を起こした。そして、腕に抱く漆黒の剣を、手探りで鞘から抜いた。声の出所は疑いようもなかった。漆黒の剣から緋の色彩が滲み出る。死者は剣を地に置き、傅いた。
「我が神よ」
「汝に問う。汝は有能なる我が崇拝者ニブレットか」
死者は返答に困った。ヘブを前にした今、それを崇める自分は確かにニブレットであると思われた。
問いを肯定しようとした。すると、胸にヘブを拒否する声なき声と、ぞよめく紫紺の魔力を感じた。
「緋の界にまします我が神よ、敬虔なるニブレットは王の荒野にて損なわれました」
「わかっておる」
ヘブは腹に響く声で笑った。死者はその笑いを悲しく感じた。和らげられた惨めさや無様さが、またも胸を満たして堪らない気持ちにさせた。
「私は何者でございましょうか。私はニブレットであり、サルディーヤであり、二人の人間の記憶を持ち、女であり、男であり、腐術と分魂術によって今ここに生かされております。この私を定義する名がこの世にございましょうか」
「魂の名は一つだ」
緋の色彩の揺らぎにヘブの姿が見えぬかと死者は目を凝らすが、意味ある
「お前の魂は古い。世界が無数の相に分かたれる前の階層から来ておる。お前の魂の来歴には様々な名が記されておる。ニブレットであれ、サルディーヤであれ、今更そのような違いに何の差がある」
「されど、我が神よ、自我には名が必要です」
人間とは悲しいものだ。自我とは。死者は思う。
「私は己が何者かを知る事を望みます。答えをお与えください。あるいはその機会を」
「たとえ前階層まで遡り、今生のお前の現在まで辿り直すとしても、望む答えを得られるとは限らん」
「構いません。答えがなくとも、何らかの示唆があるならば」
「よかろう」
ヘブは渋い声で応じた。
「ただし、この
漆黒の剣から立ち上る色彩が炎の象をとり、その揺らめきに意識が引きこまれるのを感じた。魂が自我に引きずられて肉体から外れた。炎を中心に世界が歪み、渦巻く歪曲の奥底へと、魂は一つ一つの名と記憶と洗われながら、落ちていった。
不意に鋭い光を認識した。
同時に、形容しがたい甲高い騒音が、耳から脳を刺した。
耐えがたいほどの人の声と雑念と蒸し暑さが肉体を包みこむ。
「危ない!」
後ろから肩を引かれた。巨大な物体が、眼前を通り過ぎていった。
目と耳と肌を刺激する全ての物が理解できず、肉体は恐慌に陥る。目を
恐慌は唐突に去った。肉体は口を閉じる。そして、目に映るもの、耳に聞こえるもの、自分の身に起きた事の、全てを理解した。
交差点で大型トラックに轢かれかけたのだ。
いつだって雑居ビルの影と高速道路の影に染められている暗い交差点。今は夜に染められている。
先ほどの騒音は、トラックのクラクションに違いない。
悪臭は排気ガスだ。
光の洪水は、電光看板にオフィスビルの窓の明かりに信号機に自動販売機。
何故、全て当たり前のこのような事がわからなかったのだろう?
「佐々木さんじゃないですか」
胸の鼓動が早くなる。脇の下に汗が浮いた。誰かの手が肩から離れ、振り向こうとした肉体は貧血を起こし、その場に蹲る。車道を絶え間なく、自動車が通り過ぎてゆく。
こんなに騒々しい世界があるなど信じられない。
では、何なら信じられるのか?
何を信じていたのか?
わからない。
もう何も思い出せない。
「誰?」
肉体はか細い女の声を発した。
「誰って。ああ、酔ってる」
男が溜め息をついた。信号が変わって、人々が動き出した。肉体は目をこする。視界が定まらない。男が誰だかわからない。それでも肉体は動き、その男の名を口にした。
「倉富くん」
それが男の名である事は明らかに思われた。
「送りますよ、佐々木さん。立てますか? 大丈夫?」
肉体は呻いた。熱帯夜はかつてない息苦しさで体を苛んだ。男がタクシーを止める。車内に連れこまれ、運転手に住所を教えるよう男が言った。
肉体は記憶に依らず、掠れた声で住所をマンション名まで述べた。
タクシーが動き出した。目を閉ざす。瞼の闇に緋の色彩が滲み出る。ひどい吐き気がした。カーナビが喋っている。その音声が不意に、低く甘美な声で未知の名前を呼んだ気がした。
「儚き人の自我よ。確たる自己、確たる現実、そのようなものがあると思うなら、見つけ出してみるがよい」
肉体は意味を理解する間もなく、意識を失った。