記憶(1)/絞首台
文字数 2,044文字
頬に吹きつける粉雪を感じた。王宮前の広場が見下ろせる。
ニブレットは城壁の上に立っている。
広場には絞首台が建てられていた。
女が吊るされ、見世物にされている。
第二王妃イヴィタ。正王妃ベリヤが実妹。処刑台に至るイヴィタの暗い道は十年前から始まった。
娘盛りであったブネの生誕日、イヴィタは祝いにカナリヤを贈った。人に馴れたカナリヤであった。それはブネによく懐いたが、ニブレットが半ば強引に捕まえると、嫌がりニブレットの唇を噛んだ。唇から流れ出た血。ベリヤは逆上し、カナリヤの首を捩じって殺し、その場でイヴィタを面罵した。
同じ年、ニブレットの生誕日。イヴィタは祝いに深々 とした光を放つ、赤い貴石のブレスレットを贈った。当時のニブレットには些か大きかった。身に着けて一日を過ごす内に、手から滑り落ちたのだろう、ニブレットはブレスレットを紛失した。ベリヤは近辺の者を厳しく取り調べるよう警護に命じた。ブレスレットはイヴィタの従者の手荷物から出てきた。
イヴィタの最大の不幸は、これらの出来事とベリヤによる誹謗中傷があってなお、聖王ウオルカンの好色の目から逃れられなかった事だ。手籠めにされ、王宮に囲いこまれてから、彼女は処刑される日まで、この前門を出る事はなかった。かつてブネに贈ったカナリヤと同じ運命を彼女はたどったのだ。
「あな、嬉しや、楽しや」
城壁の上に聞こえるほどの大声で、老人が独り言を言いながら、絞首台まで来た。胸まで伸びた顎髭と不潔な髪。埃をかぶった服と破れた靴。貧相な痩躯。あれはどこの物乞いかと思ったほどだ。老人は脱げ落ちたイヴィタの靴に滴る、死後流れ出た汚物を素手で集め始めた。眉を寄せるニブレットの視線にも気付かず、寄せ集めたそれをずた袋に入れてゆく。
連隊長カチェンが城壁の上を歩いて来て、ニブレットの横に立った。
「相変わらず悪趣味な爺さんだな」
「あの不快な老人は何者だ」
「大きな声で言うな、聞こえるぞ」
カチェンは、それがかの高名な渉相術師レンダイルである事を、ニブレットの耳許で囁いた。
「無念の内に死んだ美しき女。その臓腑に、怨念と共に蓄えられていた不浄なもの。奴の忌々しい研究に必要な物だ」
「奴は今、何の研究をしている?」
「知らんな。知りたくもない。それよりもう、歩けるほど回復したのか」
ニブレットはカチェンの浅黒い顔を見て頷く。
「ああ」
「早いな。まあ、今日に限ってはあの老人の悪口ばかりも言ってられん。今回の仕事はレンダイルなしには成り立たなかったからな」
カチェンはマントを翻し、ついて来るようニブレットに言う。
「待ち人来たり、だ」
レンダイルの不気味な魔術書館と隣接する石塔に、カチェンはニブレットを連れて行く。
カチェンは塔の最上階の扉を開けた。四方の矩形の窓から風雪が吹きこむ、寒い部屋だった。
部屋の中央には寝台があり、何かが寝かされている。黒いローブ。横たわる者の顔を隠すヴェール。そのヴェールから覗く顎と唇。体型で、男だとわかった。
「呼び名を付けろ」
カチェンが言った。
※
硬い蹄の音が近付いてくる。ニブレットは記憶の海より帰還した。サルディーヤがラピスラズリの草地を越えて来る。
サルディーヤは人間ではない。緊張を堪えながら、サルディーヤの様子を窺った。機人には見えない。屍でもなさそうだ。では、この男は何者だ。
「分岐した力の流れは付近を一周した後、野営地に戻って来た。そしてここに至る」
「随分と無駄な動きをするな。迷ったのか?」
「わからんが、今瑠璃の界から力を垂れ流しにして荒野をさまよう存在は、やはりレンダイルではないと考えられる。これより先、力の量と密度は減じていくようだ」
サルディーヤはニブレットに顔を向ける。が、ヴェールの下に果たして二つの目があるか、ニブレットにはわからない。ニブレットは頷いた。
「魔術の力を継ぐ者には追跡をつけよう。我々は予定通り荒野の奥を目指す」
ニブレットは弓を取り、矢をつがえた。
背を反らし、弓を引く。人ならぬ呼び声で、緋の界の力を求めた。魔術の力が右手から矢尻に流れこむ。風が矢を放つべき瞬間を教えた時、手を離した。矢は、灰色の雲へと消えていった。
地に映る矢の影が膨張し、戦火の神ヘブが使いの、巨大な三面馬が湧き出 でた。忌まわしき地獄の軍馬は、召喚者が望む相手を地の果てまでも追い回す。三面馬は毒性の涎を大地に垂れ流し、前脚を振り上げていなないた。いななきは世界を震わす波となり、地霊たちを恐慌に陥らせながら広がった。その灼熱の蹄が青い貴石に下ろされて、焦げ跡が刻まれる。三面馬は荒野の彼方に消えていった。
ニブレットは木巧魚に後を追わせた。
「ヘブの使いが何者かを捕らえたらば、直ちに都で待つオリアナに伝えにゆけ」
ニブレットは城壁の上に立っている。
広場には絞首台が建てられていた。
女が吊るされ、見世物にされている。
第二王妃イヴィタ。正王妃ベリヤが実妹。処刑台に至るイヴィタの暗い道は十年前から始まった。
娘盛りであったブネの生誕日、イヴィタは祝いにカナリヤを贈った。人に馴れたカナリヤであった。それはブネによく懐いたが、ニブレットが半ば強引に捕まえると、嫌がりニブレットの唇を噛んだ。唇から流れ出た血。ベリヤは逆上し、カナリヤの首を捩じって殺し、その場でイヴィタを面罵した。
同じ年、ニブレットの生誕日。イヴィタは祝いに
イヴィタの最大の不幸は、これらの出来事とベリヤによる誹謗中傷があってなお、聖王ウオルカンの好色の目から逃れられなかった事だ。手籠めにされ、王宮に囲いこまれてから、彼女は処刑される日まで、この前門を出る事はなかった。かつてブネに贈ったカナリヤと同じ運命を彼女はたどったのだ。
「あな、嬉しや、楽しや」
城壁の上に聞こえるほどの大声で、老人が独り言を言いながら、絞首台まで来た。胸まで伸びた顎髭と不潔な髪。埃をかぶった服と破れた靴。貧相な痩躯。あれはどこの物乞いかと思ったほどだ。老人は脱げ落ちたイヴィタの靴に滴る、死後流れ出た汚物を素手で集め始めた。眉を寄せるニブレットの視線にも気付かず、寄せ集めたそれをずた袋に入れてゆく。
連隊長カチェンが城壁の上を歩いて来て、ニブレットの横に立った。
「相変わらず悪趣味な爺さんだな」
「あの不快な老人は何者だ」
「大きな声で言うな、聞こえるぞ」
カチェンは、それがかの高名な渉相術師レンダイルである事を、ニブレットの耳許で囁いた。
「無念の内に死んだ美しき女。その臓腑に、怨念と共に蓄えられていた不浄なもの。奴の忌々しい研究に必要な物だ」
「奴は今、何の研究をしている?」
「知らんな。知りたくもない。それよりもう、歩けるほど回復したのか」
ニブレットはカチェンの浅黒い顔を見て頷く。
「ああ」
「早いな。まあ、今日に限ってはあの老人の悪口ばかりも言ってられん。今回の仕事はレンダイルなしには成り立たなかったからな」
カチェンはマントを翻し、ついて来るようニブレットに言う。
「待ち人来たり、だ」
レンダイルの不気味な魔術書館と隣接する石塔に、カチェンはニブレットを連れて行く。
カチェンは塔の最上階の扉を開けた。四方の矩形の窓から風雪が吹きこむ、寒い部屋だった。
部屋の中央には寝台があり、何かが寝かされている。黒いローブ。横たわる者の顔を隠すヴェール。そのヴェールから覗く顎と唇。体型で、男だとわかった。
「呼び名を付けろ」
カチェンが言った。
※
硬い蹄の音が近付いてくる。ニブレットは記憶の海より帰還した。サルディーヤがラピスラズリの草地を越えて来る。
サルディーヤは人間ではない。緊張を堪えながら、サルディーヤの様子を窺った。機人には見えない。屍でもなさそうだ。では、この男は何者だ。
「分岐した力の流れは付近を一周した後、野営地に戻って来た。そしてここに至る」
「随分と無駄な動きをするな。迷ったのか?」
「わからんが、今瑠璃の界から力を垂れ流しにして荒野をさまよう存在は、やはりレンダイルではないと考えられる。これより先、力の量と密度は減じていくようだ」
サルディーヤはニブレットに顔を向ける。が、ヴェールの下に果たして二つの目があるか、ニブレットにはわからない。ニブレットは頷いた。
「魔術の力を継ぐ者には追跡をつけよう。我々は予定通り荒野の奥を目指す」
ニブレットは弓を取り、矢をつがえた。
背を反らし、弓を引く。人ならぬ呼び声で、緋の界の力を求めた。魔術の力が右手から矢尻に流れこむ。風が矢を放つべき瞬間を教えた時、手を離した。矢は、灰色の雲へと消えていった。
地に映る矢の影が膨張し、戦火の神ヘブが使いの、巨大な三面馬が湧き
ニブレットは木巧魚に後を追わせた。
「ヘブの使いが何者かを捕らえたらば、直ちに都で待つオリアナに伝えにゆけ」