一列縦隊

文字数 5,518文字


「前の人の足跡の上を歩いてください! 立ち止まらないで! 一人ずつ前の人に続いてください!」

 兵士たちが声を張り上げている。その声に背中を押されて、ラプサーラも平原に足を踏み入れた。偵察隊の兵士達の無残な遺体を見るのが怖くて、足許以外のどこにも目をやる気にはなれなかった。

 平原は静かだった。後ろに二万の人が控えているとは思えないほど、不気味な静けさだった。足許に敷かれたベリルの魔術の光の粒は、既に半ば土と草に紛れてしまっている。後続の人々の身に降りかかる惨劇は容易に予想できた。

 踏み跡を残しながら、木の一本も生えていない大地を、夏の太陽に焼かれながらうなだれて歩いた。汗は肌に浮くなり蒸発し、皮膚が赤くやけ始めた。陽射しが痛かった。きれいな水が欲しい。涼しい風が欲しい。

 最初の爆発音が聞こえたのは、道を覆う草の丈が膝まで達し、前を歩く兵士の踏み跡を見定めるのが困難になりつつあった時だった。轟音、悲鳴、そして悲鳴。泣き叫ぶ声が、遠く背後から聞こえた。太陽に炙られながらも、凍りつくほどの寒気を感じた。

「振り返っちゃ駄目!」

 後ろでダンビュラが叫んだ。

 私は振り返ろうとしていたのだろうか、と、脇の下に汗をかきながらラプサーラは考えた。わからない。あるいはダンビュラは、自分が振り返るのを防ぐために、叫んだのかも知れない。

 気が付けば、その間にも前を歩く兵士と自分との距離が開きつつある。

「待って」

 渇き痛む喉で声を振り絞る。

「行かないで!」

 兵士が振り返った。純朴そうな若い兵士だった。背後では泣き叫ぶ声や怒鳴る声がまだ続いている。ラプサーラは草をかき分け、兵士のもとへ急いだ。草で手が切れ、緑色の汁がつく。むせ返るほど薫る緑の海を泳ぎながら、ラプサーラは悪い考えしか浮かばない自分自身に絶望した。

 もしこの先が罠の袋小路になっていたら? 立ち往生する事があれば、どう引き返せばいい? もし先頭のベリルとミューモットが罠を踏んで死んだらどう進めばいい? 左右からあの鋭い矢の雨が降り注ぐ事があれば、どうやり過ごせばいい?

 何かに蹴躓いた。きゃっ、と声をあげると、前の兵士と後ろのダンビュラが、それぞれ右手と左手を取り支えてくれた。

「気を付けてください。ここ足場が悪いっす」

 兵士が言う。

「ありがとう」

 ラプサーラは前後の二人にやっとの思いでその言葉を返した。ダンビュラはラプサーラの右手を放さなかった。繋いだ手はお互いじっとり汗ばんで、力んでいた。

 転んでいたら、死んでいたかもしれない。恐ろしさで呼吸が震え、目尻に涙が浮かぶ。

 もう嫌。

「泣いたら駄目っすよ!」

 前の兵士が振り向き、叫んだ。

「泣くのは水分の無駄ですから!」

 その声に、また遠くの爆発音が重なる。後ろを振り向いていた兵士は、何を目撃したのか、目を瞠り硬直する。そして何かを振り切るように、また前を向き歩き始めた。

 今度は爆発音の他に、水の入った皮袋が弾けるような音を聞いた。人間が弾ける音に違いなかった。恐怖の悲鳴も、混乱の怒号が続く。

 息をする事さえ辛かった。なのに泣くのを止められない。

 前を歩く兵士が手を差し伸べてきた。ラプサーラは右手をダンビュラと繋いだまま、縋るように左手を伸ばした。

「自分、毎朝占いするんすよ」

 手を繋ぐと、兵士は呟くように話しかけてきた。

「占い?」
「そ。右足で靴を飛ばすんすよ。で、裏向きに落ちたら悪い事があって、表向きに落ちたら良い事があるっす」

 ラプサーラは、馬鹿げていると思いつつ、しゃくりあげながら会話を続けた。

「今日はどうだったの?」
「もちろん、表向きっすよ! だって、表向きになるまで何回だってやり直しますから! だから」

 兵士は悪路に息を切らしながら、曲がりくねった草の踏み跡の上を歩き叫ぶ。

「だから、自分と一緒にいればあなたは大丈夫っすよ!」

 直後、背後の爆音が耳を塞いだ。

 熱風が背中を叩き、髪を煽る。

 今度は間近だった。ラプサーラは前後の二人と手を繋いだまま、その場にしゃがみこんだ。

 水の弾ける音がそこかしこで連鎖する。

 四方八方に湿り気のある物が降り注ぐ音。目を開ける。降り注ぐ血と内臓……手や足や……さっきまで真後ろにいた人々の、もう生きていない、破片だった。

 それら人体の破片が、落下した先でまた魔術の罠を発動させる。

 ラプサーラは自分が悲鳴を上げている事に気付いた。その声で全ての物音を打ち消そうとしている事に気付いた。

「聞こえない! 聞こえない!」

 両手に力をこめ、目を固く閉ざし叫ぶ。

「聞こえない! 見えない! 何にも聞こえない!」

 どれほどそうしていたかわからない。前の兵士に肩を揺さぶられ、号泣しながら目を開けた。まだ生きている。それを確認した。前の兵士も生きている。後ろのダンビュラともまだ手を繋いだままだし――。

 ダンビュラは、手しかなかった。

 繋いだ手。その手首より先が、すっかり消え去っていた。

 何かの悔いや思い残しの様に、彼女の白い手が、自分の右手の中にある。

 ラプサーラはまた悲鳴をあげ、手を振り払った。ダンビュラの手首は草の上に落ちた。

「歩いてください! 立って!」

 腕を掴まれ、強引に立ち上がらされた。

「お願いです。自分には人を背負って歩く余力はないっす!」

 力の入らぬ足で、それでもようやく立ち上がると、その名も知らぬ兵士にしがみつくように歩いた。やがて、後続の人たちが追いついて来た。ラプサーラは、その、知らない後続の人とも手を繋いだ。そうしなければ自分の輪郭さえ保てない気がした。

 何かの影が頭上をよぎった。

 悪寒を感じ、空をふり仰ぐ。

 血の色を持つ魔術の鳥が、長い尾を振り、雲一つない青空の下を旋回している。

 獲物を狙う猛禽の気配を、その姿から感じた。

 狙いを定める様に、鳥はぴたりとラプサーラを見下ろし止まった。

 殺される。

 魔術の鳥は息を吸いこむ様に、長い首を仰け反らせる。

 どのように殺されるのだろう。

 焼かれるのだろうか。

 切り刻まれるのだろうか。

 体を破裂させられるのだろうか。

 次の瞬間、輝く矢が鳥の体を貫いた。鳥も矢も、青空を背景に光の粒となって消える。

 魔術師だ。ベリルではない、味方の。

「ドミネさんだ」

 兵士の顔に晴れ晴れとした笑みが浮かんだ。

「今の、救出部隊に同行してたドミネさんの魔術ですよ! 間違いないっす! 無事だったんだ!」

 兵士たちが縦隊の中で歓喜の声を上げはじめた。水が足りず、声は枯れ、それでも歓喜に叫んだ。

 歩かなければならない。震えながらラプサーラは歩く。希望があると信じなければならない。生きている間は。

 もう涙は出なかった。歓喜は束の間の事で、丘陵に差しかかる頃、また背後から爆発音や、人体が壊れる音が聞こえてきた。

 後続の人々は、その光景に慣れつつあるのかもしれない。悲鳴や泣き叫ぶ声は小さくなっていった。

 息を切らして丘を登る内、背後から迫る混乱の気配に気が付いた。ラプサーラは思わず振り向いてしまった。

 後続の人々に向け、茂みから矢が射かけられている。

 縦隊は、矢の射程範囲外にあった。それでも、人々を混乱に陥れるには十分な効果があった。

 ただの脅しよ! ラプサーラは叫びたかった。矢はあなた達に届かない、だから落ち着いて歩いて!

 人々は我先に逃げ出し、列を乱す。

 錯乱し、自らの喉を掻き切る人がいた。その死体を踏んで走る人々がいた。

 ラプサーラは目を背けた。混乱と爆発音が立て続けに響いた。前だけを見よう。二度と振り返らない。味方の魔術師が追いついたのなら、その人が敵の魔術師を殺し、罠を解除してくれると。

 信じよう。他に何もできない。

 丘の上に、旗を振る兵士たちと、馬に跨るデルレイの姿が見えた。

「出口が見えたぞ!」

 先行する兵士が叫んだ。デルレイの隣では、魔術師ベリルが緊張から解き放たれて脱力し、座りこんでいる。一瞬、目が合った気がした。ラプサーラは気を奮い立たせる。出口はそこだ!

 丘の上のベリルは、罠の平原の出口近くにラプサーラの姿がある事を見て取った。あともう少しだ。頑張ってくれ。ミューモットが今、幾つかの罠の解除に専念してくれている、だからどうか……。親友の妹に、彼はそう願った。

 デルレイの馬に寄り掛かるようにして、ベリルは立ち上がった。ひどい眩暈と頭痛がする。

「隊長、〈リデルの鏃〉の指揮官の名を教えてください」

 掠れた声を喉から絞り出すと、デルレイが鋭い目で馬上から見下ろした。

「名前を聞いてどうするんだ?」
「呪詛を送ります。呪い殺してやる!」

 自分の宣言で自分を奮い立たせ、頭を左右に振って意識をはっきりさせた。

「そいつは今血銅界の魔術師のそばにいます。だから顔は見える。後は名前が必要です」
「カルムだ。指揮官の名はカルムだ! 殺すな。生け捕りにしろ」

 ベリルは短剣を抜き、自分の長い髪を一房切った。髪は魔術師の息吹を受け、風もないのに平原の彼方に飛んで行く。

 ベリルは額で、魔術の対流を感じた。仲間の魔術師ドミネが血銅界の魔術師を抑えにかかっているし、もう一人の魔術師リヴァンスは罠を一つでも多く解除しようとしている。

 敵の魔術師は老練だ。これだけの数の罠を維持し、ドミネと対抗し、なお指揮官を守ろうと、ベリルの呪詛を返そうとしてきた。

 頭の後ろの高い所で、緑の界の魔力の道を、自分に耐えられる最大の大きさまで開く。呪詛返しの力を更に押し返し、自分の放った呪詛が敵指揮官に届くのを、長い白い髪が敵指揮官の顔に、胸に、喉に刺さるのを、ベリルは幻視した。

 同時にドミネの(くろ)の界の力が、血銅界の魔術を呑みこみ、押し潰す。一人の力ある魔術師の断末魔が自分の魔力に呼応し、頭の中に響いた。

「罠が消えた!」

 術の反動でよろめきながら、ベリルは叫んだ。

「もう罠はありません、隊長! 平原は安全です!」
「伝令! 行け!」

 ラプサーラはとうに罠の道を抜けたようだった。血に濡れた平原を見下ろしながら、その光景への怒りを支えに、ベリルは立ち続けた。伝令は駆け、民間人らはてんでばらばらに走り、兵士達はそれをまとめるのに必死だ。

 グロズナの弓射隊が草を踏み分け、向かって来る。ベリルは再び緑の界への通路を開いた。体に流れこむ魔力を、左手に握りしめたアクアマリンが増幅する。

 重い水の気を、弓射隊に向けて放つ。平原の真ん中で、グロズナの兵士達は見えざる力に押しつぶされ、圧殺されていく。

 肉体が一度に受け容れられる魔力の量は、限度を越えつつあった。取りこぼした敵兵をセルセト兵が討ち取る様子を見下ろしながら、ベリルはそれを感じていた。

 ふと、背の高い(くさむら)が不自然に揺れ動くのが見えた。

 鼓動が高まる。

 伏兵がいる。

 叢の波は徐々に徐々に、セルセト兵が固まっている地点に近付きつつあった。

「畜生、これが最後だぞ」

 緑の界の通路を再び開く。魔力の風に吹かれ、ベリルは左手の守護石を高く掲げた。間に合え! 届け!

 伏兵たちの前に水の気の壁を作った。鬨の声を上げて、飛び出した伏兵たちがセルセト兵に迫る。

 セルセト兵は逃げ出し、グロズナの伏兵は罠にかかった。濃密な水の気に捕らえられ、息ができずに跪く。それでも一部の伏兵が水の気の壁の破れ目から、セルセト兵やペニェフの民間人達に襲い掛かった。

 もっと広く! 奴らを包みこめるように!

 ベリルは水の壁の拡張に意識を集中した。

 魔力が流れこみ、体が悲鳴を上げる。筋肉が千切れ、皮膚が伸び、関節が外れ、骨がばらばらに砕け散るような、酷い痛みだった。

 そして陥る、無音無明。

 どれほど長くその無我の状態にいたのかわからない。耳もとで激しく呼びかけられ、肩を揺さぶられるのを感じた。体に熱い物が流れて来る。葡萄酒だ。自我が戻ってくる。ベリルは喉の動きと口に押しつけられた革袋の感触を頼りに五感の回復に努めた。

「やべぇ……」

 目を開けるが視界は薄暗く、誰に肩を支えられているのかわからない。

「人格が飛ぶところだったぜ」

 何度も瞬き、指で土をなぞり、ようやく聴力も回復してきた所に、耳許でデルレイに怒鳴られる。

「馬鹿者!」

 その声で、ベリルは完全に目を覚ました。

 ラプサーラは夏の丘陵に、のどかな、草薫る、緑の丘陵に、長く座りこんだままでいた。

「あの」

 列の前にいた兵士が、寄ってきて声をかける。

「集合しなきゃならないっす。それとあと、水が配られますから――」

 ラプサーラは動かなかった。占星符が入った小さな荷袋を抱え、まんじりともしなかった。

「あの――」
「連れて来てあげればよかった」

 兵士が近付くと、ラプサーラは小さな声で囁いた。

「ダンビュラさん――左手だけでも――連れて来てあげればよかった――」

 ラプサーラは泣かない。泣かない事で自覚する。私は今日、取り返しがつかない何かを、人として大切な何かを、永遠に失ったのだ、と。


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