大切ナ……

文字数 2,975文字

 交戦開始からどれほど経ったかわからない。兵士たちの会話に注意して耳を傾ければ多少の状況はわかるだろうが、ラプサーラはその程度の事すらする気になれなかった。

 後方に第一線突破の報が入った時にはもう日が高くなっていた。森の中は蒸し暑く、汗が出る。カルプセスの市民達は行動開始に備え立ち上がらされたが、それからも長い待機が続いた。

 痺れをきらした市民が囁く。

「新シュトラトのセルセト軍は何をやっているんだ」

 グロズナ軍はセルセト軍が駐留する新シュトラトを背に布陣していた。彼らにとって新シュトラトは脅威ではないという事だ。

 セルセト軍は日和見を決めこんでいるのか?

 それならまだ救いはある。でもそうじゃなくて、新シュトラトは既に陥落しているんじゃないか?

 そんな残酷な話があるか。ここまで来て。だとしたら前線のセルセト兵は何の為に戦っている? 布陣を突破しても意味はなく、待ち受けるのは市内での殺戮だけ。そんな事があってたまるか。

 ついに市民たちの移動が開始された。森の中をのろのろ進んだ先に、痩せたセルセト兵達が待っていた。両手に持つ木の大楯は、過去にグロズナ軍から奪ったものだ。

 一列に並ばされ、森を出た。大楯を構えた兵士たちが壁となり、列の左右を守る。絶叫が平原を埋め尽くしていた。セルセト兵達は痩せ、やつれ、数を減らし、衰弱した体に重い鎧を纏わせ、その中で汗をかき、失禁し、涙を流し、それでも体力を振り絞り、市民たちを守り戦っていた。

 足許の草だけを見て、ラプサーラは歩いた。

 矢が上から降ってきた。

 大楯を持つ兵士がよろめく。矢は止む事なく降った。兵士らは左右の間隔を縮め、自然と護衛される市民達も密着しあう形となり、前進速度は否応なく落ちた。矢は楯に刺さる度、殴りつけるような音を立てた。やがてより破滅的な暴力が、風を切り飛んできた。その風切り音は余りにも間抜けに聞こえ、しかしラプサーラの目の前に現れた瞬間、ぐちゃ、と惨い音に変わった。

 兵士の兜を陥没させ、石がその頭にのめりこんだ。投石器だ。頭を潰された兵士は楯を持ったまま倒れた。感情も人間らしさも失った筈なのに、死んだ兵士の横を通る時、ラプサーラは引き裂かれるような痛みを感じた。何故彼が死ななければならなかったのか、わからなかった。答えがあるとしたら、生きているから、という答えに違いなかった。

 石はひっきりなしに降ってきて、列の近く、あるいはただ中に着弾しては、人と土くれと石つぶてを飛ばした。隣を歩く兵士の腕は震え、楯を持ち続けるのも限界が近いように見えた。楯の内側には貫通した鏃が幾つも見え、新たな矢が当たる度、兵士の肩は酷く揺れる。

 負けやしないわ。ラプサーラは思いこみの力に頼った。負けない、こちらには魔術師が三人もいる。ドミネに、リヴァンスに、ミューモット。後方からベリルが追って来ているかもしれない。もしかしたらもう合流しているかも。いいや、本当は勝とうが負けようがどうだっていい。自分だけでも生き残れればいい――自分さえ良ければいい――。

 不意に前方が活気付いた。やはり状況はわからない。それでも明るい狂乱が確かに波及してきた。

 気付けば敵の弓射部隊が沈黙していた。

「『エシカの党』だ!」

 兵士たちの伝言が前方から伝わってきた。

「ペニェフの義勇軍だ! 『エシカの党』が動いたぞ! 助かったんだ!」

 隊列が乱れた。助かった。その一言で自制の振り切れた市民達が、統率を失いてんでに走り出したのだ。何の事はない、皆考える事は同じだった。自分だけでも助かりたいと。

 後ろから押され、転ばされそうになりながら、ラプサーラも小高い丘を駆け上がり、逃げ惑った。すぐ近くに投石器の石が着弾し、土の柱を打ち立てる。その土を頭から浴びようが、口の中が土まみれになろうが、関係なかった。

 道を守れ! 兵士達が叫ぶ。小高い丘。地平線。

 その先に壁が見えてきた。

 夢に見た新シュトラトの市壁だった。

 生存へ続く確かな一本道が見えた。投石と、抉れた大地と、踏みにじられた草と、転がる骸の道が。

 顔に異和感を受けた。魔力の疼きだ。汗で洗い落とされたベリルの血。それによって描かれた模様が激しく熱を放つ。

 丘の上で振り返った。

 ベリルが見えた。白い長い髪。若草色のマント。彼はただ一人の護衛もつけず丘陵に立っていた。

 緑の界の圧力とベリルの殺意が額を圧迫する。彼の周りにはセルセト兵達が倒れている。

 護衛たちは皆、魔術師を守り死んだのだ。

 ベリルは遠くの敵に集中するあまり、自分のおかれた状況に気付いていないように見えた。

「ベリル」

 彼の後ろの草の道を、グロズナ兵が上ってくる。

 ラプサーラは声を上げる。ベリル! 渇いた喉は裂けて血が出そうだった。ベリル! 逃げて、と叫んだ。声は、大地の底の夏の澱を僅かにかき混ぜただけであった。ベリル!

 グロズナ兵が五、六人、魔術師の背後に迫る。

 ラプサーラは白く光る剣がベリルの背に突き立てられ、彼がよろめくのを見た。魔力も殺意も消えて、額が軽くなる。
 二人、三人と、ベリルに斬りかかった。ベリルは草の上に両膝をつき、ゆっくりと倒れ伏した。白髪が赤く染まっていく。

 ラプサーラは待った。奇跡を信じた。緑の界の力が、慈悲の神マールの力が、ベリル自身の魔術の才覚が、彼を救う事を信じた。

 グロズナ兵達は何度もベリルの背に剣を突き立てた。何度も。ベリルは無抵抗だ。グロズナ達は魔術への恐怖ゆえ執拗に攻撃を加え続けた。ベリルはまだ動かない。逃げも戦いもしない。

 もうそんな事をする必要はないと、グロズナ兵に知らしめているのだ。自らの死を。

 後ろから襟首を掴まれた。

「走れ!」

 ミューモットだった。ラプサーラは己を取り巻く状況のただ中へと意識を連れ戻された。真後ろに立つミューモット。その肩越しに新シュトラトの市壁が見える。セルセト兵に守られた、一本の道と小さな門。そこにカルプセスの市民が殺到し、横に広がり、セルセト兵達の統率が乱れ、ここぞとばかりにグロズナ兵が襲いかかり、恐慌状態の市民はグロズナ兵に殴りかかっては群の中に引きずり込む。何人かのグロズナ兵が人々の足許に消え、見えなくなった。

「ベリルが、ベリルが……」

 あんな所には行けない。ラプサーラは口をぱくつかせた。この場所から離れては行けない。ベリルを置いて行くなど――助けもせず行くなど――。

「ミューモット! ベリルを助けて!」

 ラプサーラはミューモットの上衣を掴んだ。

「助けて! 助けてよ! 何ぼうっと突っ立ってんのよ! 早く行ってあげて!」
「奴は死んだ!」

 ミューモットはラプサーラを引きはがし、市壁がある方へ突き飛ばす。ラプサーラは転んだが、たちまち立ち上がり、掴みかかった。その俊敏さにミューモットはたじろいだ。

「ベリルを助けて!」

 顔を真っ赤にし、歪めながら、ラプサーラは泣き叫ぶ。助けてよ!

 叫びは長い悲鳴となった。それはラプサーラがくず折れ、髪を掻き毟り、地に伏すと途絶えた。


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