星占ノ少女

文字数 3,727文字

 吹きすさぶ雪が石の階段を氷の階段に変える。ウラルタは歌劇場の外壁に取りつけられた、幾度となく折れ曲がりながら続く階段を上っていた。足が滑り、危険だが、迷路のような内部を歩くより確実に思われた。

 上る建物を間違えたかもしれないと、ウラルタは幾度となく不安に襲われた。日が沈みも昇りもしない世界で、時間など何の目安にもならないが、どれほど長い間階段を上り続けているかわからないのは心許なかった。下から見る限り、歌劇場はこれほど高くなかった。しかし、時折弱まる雪の向こうに見える分水棟と監獄棟、そしてウラルタが手すりで首を吊った大聖堂図書館、その方角を考えると、ここが歌劇場である事は間違いなかった。

 強い風に押され、ウラルタは凍る胸壁をつかんだ。冷たさよりも痛みを感じた。そして、熱かった。掌が胸壁を覆う氷に貼りついた。風が弱まるのを待ち、ゆっくり掌を氷から剥がす。掌は真っ赤になっていた。氷で肌が焼けるという知識があるから、実際に肌が焼けたのだろう、とウラルタは考えたが、何かを考えるには、ここは風が強すぎた。

 更に階段を上へ。

 途中、歌劇場内部に入る扉を見つけた。束の間風から逃れるべく、戸を引いた。内部の闇が逃げて、廊下に、雪雲の光に縁取られた、ウラルタの影が落ちた。

 体を滑りこませ、戸を閉ざした。風が断たれ、闇が戻ってきた。

 ウラルタは何度も氷で焼けた掌に息を吹きかけた。私が命なき者なら、体は損なわれず、痛みも感じないはず。

 やがてその通りに、掌は復元された。

 廊下の先の曲がり角からこぼれ差す光に、ウラルタは手をかざした。かざしながら、この世界に時間がなく、命がない事を、ぼんやりと思った。あるいは世界の命がないのか。あるのは主観だけ。主観と主観が補いあい、かろうじて形を保っている世界――あまりにも脆い世界。

 主観で言うのなら、私は何も変わってない、と更に考える。失意、怒り、焦燥と虚無感。命があった頃、常に抱いていた感情はそれだった。今ある感情は虚無感だけ。それを感情と呼べるのなら。

 命ある虚無と、命なき虚無。何がそんなに違う?

 手をおろして廊下の先へ向かった。果たして窓があり、遠くに、大聖堂図書館が見えた。どれだけ高く上ったか確かめようと思ったが、地上は遠く、窓が曇っているせいもあり、よく見えなかった。目線を上にやれば、雲が一部、丸く明るい。太陽があそこにあるのだ。

星占(ほしうら)よ」

 不意に朗々たる男の声が聞こえ、ウラルタは硬直した。

「この度盟を結ぶエキドナ家は、車輪の神アネーを奉る一族であるぞ」

 そっと耳を澄ます。

「婚礼の儀を重んじるならば、当家が奉る狩猟の神リデルとアネーの星の行路が重なるこの日この場所以外に、相応しき日時はない」
「おお、領主様、憂うべきは」

 次は高い女の声。窓が並ぶ廊下の先、片開きの扉の向こうから聞こえてくる。

「婚礼の日、狩猟神リデルの星がアネーの星の裏側へとお隠れになる事でございます」

 ウラルタは歩いて行き、扉に耳をつけた。

「リデルの守護なき日に婚礼を行えば、災厄は必定でございます」
「必ずか」
「必ずや」

 ノブを回し、細く戸を開いた。

「……エキドナ公のご意向を(ないがしろ)にするわけにはいかん」

 部屋は一面に衣服が吊されており、暗かった。

 男と女の会話は続いた。暗がりの中、様々な衣服やドレスをかき分けて、声の源へと急ぐ。声の主たちがウラルタの気配に気付く様子はなかった。

「……エシカは我が一人娘」

 吊された衣服の海は、終わることを知らない。声も聞き取りづらくなる。

「……とあらば、当家の行く末はどうなる、星占よ」
「ああ、領主様。私には答える事ができません! 星占は、地上において多くの生死を揺るがすほどの地勢と権力の趨勢を占うものにございますゆえ」
「ならば、当家の趨勢を占えぬとの言、当家の権力と我輩への侮辱であると受け止めてよいのだな」

 太鼓が激しく打ち鳴らされた。

「星占をとらえよ!」

 厚いドレスの壁にぐいっと腕を差しこむと、その手が不意に空を掴んだ。

 かき分けたドレスのその先に、矢の雨が見えた。草原で、豪奢な馬車に降る矢の雨。ウラルタは目を瞠る。たちまち草原も、馬車も矢も消えた。

 半野外の劇場の、屋根に覆われた観客席に、ウラルタは立っていた。石の舞台には雪と氷が張っており、冴え冴えと冷たい。

 沈黙が、客席の木のベンチから立ち上り、石の通路からも立ち上り、通路に取り付けられた真っ黒い燭台からも立ち上った。立ち上って舞台に押し寄せ、舞台はその圧迫を受けながら、ひたすら沈黙を吸いこんでいた。

 人を見つけたのは、たじろぎ、引き返そうとした時だった。

 雪の中から女が立ち上がった。

「星占は、いつでも利用され、利用され」

 舞台を降りる。

「気に入らなければ殺される……」

 女は舞台の背面にそり立つ、氷柱に覆われた壁の裏側へ消えて行った。

「待って」

 声をあげた。返事はなかった。ウラルタは足を滑らさぬよう用心しながら、階段状の通路を降りた。女の後を追うが、雪の上に女の足跡はなかった。舞台の背後を覗きこむ。

 そこに本物の世界があった。少なくとも本物らしく見える世界が。

 剣が飾られた暖炉で、赤々と火が燃え盛っている。部屋には毛足の長い絨毯が敷かれ、重厚なテーブルと椅子がある。

 領主は不機嫌に座っている。紅茶が温かく香るのに、夜を映す大きな窓は美しく磨かれているのに、不機嫌に座っている。隣では奥方が、顔を手で覆っている。部屋はこんなに明るいのに、指でそんなに宝石が輝くのに。

 領主は紅茶のカップに手を伸ばした。その指が震えているので、彼は不機嫌なのではなく、怯えているのだとわかった。

 震える指からカップが滑り落ちた。

 明かりが全て消えたのはその時だった。

 部屋はたちまち夜と同化して、夜と同じく冷えた。

 領主は固まって動かない。奥方は肩の震えを止める。遠く門の開く音が聞こえた時、奥方は顔から両手を離した。

 蹄の音が庭から迫ってくる。その音は止まらず、屋敷の壁を突き抜け、ついに部屋の前にまで迫った。

 部屋の壁に、三つの青白い馬の首が生えた。

 馬は胸を、そして前脚を、領主の前に現した。長い胴と後ろ脚と、整えられた尾を現した。

 ついで、同じく青白い御者が冷たい炎として現れた。御者の後には馬車が続いた。それは領主の前を通過した。領主は馬車の中で俯く若い娘を見た。花嫁のヴェールで顔を隠した、間違いようのない、その娘の正体と運命を悟った。

 馬車は部屋の反対の壁に吸いこまれ、姿を完全に消した。

 領主は一人立った。歩いて部屋を出る。廊下の闇に消える。彼はたった一人で深い闇を歩いた。

 瞬きをすると、場面が変わった。

 牢に女が幽閉されている。

「星占よ」

 鉄格子の前に立ち、領主が言った。

「我が娘の……」
「星は告げておりました。本日、この地にリデルの守護の及ばぬ事を」

 星占は髪を()く手を止め、立ち上がった。

「敵対する翼神トゥロスの星が南座にて耀(かがよ)う事を、その日に婚礼の儀として狩猟を行えば、いかな厄災が降りかかろうかを、私は告げ申した……」

 領主は震える手で顔を押さえた。

「エシカ様に、もはやリデルの保護の手は及びますまい。今宵最も力を増すトゥロスの膝下にて咎を受ける事でしょう」
「いずれの」

 領主は顔を隠したまま言った。

「星占よ、いずれの神が我が娘を咎めから救い給うか」
「エシカ様は既に翼神の元へと旅立たれた」

 鉄格子に歩み寄り、領主に囁く。

「あるいは死者の国の旅路にて、翼神の懐へ続く道へと入る前に、狩猟神リデルへと続く道へと案内(あない)を致す事が叶えば、話は変わるでしょう」
「よかろう……」

 領主は手をおろす。

「承知した」

 その手を懐に差しこみ、隠していた短剣を抜いた。

「星占よ、お前は死者の国へと旅立ち、我が娘エシカをリデルのもとへと導くのだ」
「褒賞は」
「処刑を取りやめ、苦痛の乏しい速やかな死を許す」

 領主は鉄格子越しに、星占に短剣を差し出した。細い白い指が、それを受け取った。

 星占はまだ少女だった。少女の両手が短剣を握り、頭上に振りかざした。大きく腰を曲げ、己の胸に突き立てる。そのなりゆきに、ウラルタは息をのんだ。

 牢を照らす灯りが一つ、また一つ消えていく。

 そして舞台は、雪雲に覆われた太陽がおぼろに照らすのみとなった。

 いつしかウラルタは、舞台を見下ろす客席に座っていた。

 胸に恐慌が吹き荒れた。

 雪と沈黙と、舞台の裏を覗いてから客席に座るに至るまでの記憶の欠如に耐えかねて、ウラルタは立つ。階段状の通路に出て駆け上がる。そのまま歌劇場内部へ続く、円柱の並ぶ廊下へと逃げこんだ。

 ここはまだ舞台ではない。


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