相克

文字数 1,506文字

「見ないのか」

 サルディーヤが問う。ニブレットは黒曜石の手鏡を握りしめ、ラピスラズリの荒野に敷かれた敷布に座したまま硬直していた。

 レレナ、そして分魂術という言葉が頭の中に渦巻いていた。レレナ。陰陽と調和の神。陰陽。分魂。男と女。ニブレットはサルディーヤを凝視して、口を開いた。

「私の魂を返せ」

 サルディーヤはまた、癇に障る笑いを静かに唇に浮かべた。

「嫌だと言ったら?」
「腕ずくで返してもらう」
「無理だ。君は私の名を知らない」
「そんな事が関係あるものか。もとはと言えば、貴様は私じゃないか。レンダイルの分魂術によって、貴様は私の魂を分け与えられた。その影響により私はしばらくの間立ち歩けぬほど力を落とした」
「私がもともと君であったとしても、術師レンダイルの名づけによって私と君は完全に分かたれた」
「貴様は私だ」

 ニブレットは言い募る。

「その真の名前ごと、私に還るがよい。さあ、私の命の手綱を私に返せ」
「そこまで言うのなら」

 サルディーヤの声に、楽しげな響きが混じる。

「そこまで言うのなら、ニブレット、君は誰なのだ?」

 ニブレットは敷布を踏んで立ちあがった。

「私はセルセト国第二王女ニブレット、貴様の作り主だ」

 背後で魔力が渦を巻き、緋の界からの力が迸り出るのを感じた。

「レレナの名のもとに陰陽は調和する。記憶を返してもらうぞ!」

 サルディーヤが素早く立ち上がる。彼の背後で紫紺界の魔力の道が開いた。雷鳴が轟き、迸る閃光がニブレットを襲った。ニブレットを守る緋の界の炎がサルディーヤに襲い掛かるのと同時だった。地が割れ、雲が乾き果てるほどの激しさで魔力がぶつかりあう。混沌たる紫紺と緋の魔術の世界を、二人の魂は落ちていった。

「返せ」

 どことも知れぬ空間で、ニブレットは落ちてゆくサルディーヤの胸倉を掴む。

「貴様の魂を喰わせろ!」

 己の、長い、赤い髪が視界を遮る。空いている方の手で髪を払った。そうしながらも、背後から己の体を通過して流れこむ緋の界の炎を制限しようとはしなかった。サルディーヤも同じであった。稲妻が牙となり、ニブレットの五体に食らいつこうと狙っている。

 ニブレットはサルディーヤの顔を隠すヴェールをはぎ取った。

 ヴェールの下からは、思いもよらぬ顔が現れた。

 ニブレットは笑う。首を仰け反らせ、高く笑う。

「何という事だ! この男、私と同じ顔をしているではないか」

 サルディーヤがむき出しの魂で笑う。ニブレットも同じ顔で笑う。肉体なき体は牙と鋭い爪を生やし、互いの体に食らいこむ。

 ニブレットは血を流しながら、サルディーヤの喉仏に牙を立てる。サルディーヤは血を流しながら、ニブレットの腹を鋭い爪で貫く。食いあう魂の争いを片隅の些事として、深遠なる紫紺と緋の色彩は、和合し、混ざり合い、閉じる。

 ※

 荒野から、緋も紫紺も魔術の力も消えた。地には晴れ渡る夜空と星々の色彩、空には月を隠した雪雲が広がるばかりであった。

 三頭の馬はいずれも、先刻の魔力の衝突に怯え、とうに逃げ出していた。荒野の奥から冷たい風が吹き、捲れあがった二枚の敷布がラピスラズリの大地を滑っていった。カンテラは砕け散り、明かりとなる物はなかった。雲が割れ、月が出た。月光が、地に伏すただ一人の人間の輪郭を浮き彫りにした。

 その人間は、意識を取り戻すと、手をついて体を起こした。座りこみ、辺りを窺って、他者の不在を確かめる。

「勝った」

 荒野にただ一人の人間は、低い声で宣言した。

「勝ったのは私だ」



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