子供

文字数 1,940文字

 木兵が佇む街を、セルセト兵の目を避けながら二人の子供は歩いた。ミハルの家にたどり着いた時にはすっかり日が暮れていた。ミハルは震える手で家の戸を開いた。そのまま奥の台所へと歩いて行き、震えだしたかと思うと、その場で立ったまま涙を流し始めた。

「おじさん……おじさん……」

 泣いているミハルの姿を見るのは辛く、悲しみが伝播して、ペシュミンの目にも涙が滲んだ。

 突如、何かに気付いたようにミハルが走り出した。彼は台所の奥の戸を開け、あっ、と声をあげた。ペシュミンも後を追った。戸の向こうはちょっとした庭だった。一斉に飛びあがった蠅の羽音が耳を打ち、むせ返る悪臭に息を詰まらせた。

 大きな塊が、庭の隅に転がっている。暗くて見えなかったが、ミハルがそれに縋りつくと、尚も蠅が飛びあがった。

「ノエ、ノエ」

 ミハルは大きな塊を揺さぶっている。ペシュミンも庭に出て、一歩ずつ歩み寄った。塊は、黒い犬の死骸だった。舌をだらりと地面に垂らし、地面を覆う草は、血で濡れている。

「ひどいよ――ねえ――こんなの――」

 ミハルはしゃくりあげながら、ペシュミンに語りかけた。

「どうして――何で――」

 堪らない気分になり、ペシュミンも草の上に座りこんで共に涙を流した。通りから足音が聞こえれば、慌てて声を殺してまた泣いた。

「いい子だったんだよ――ノエは凄く……」

 やがて二人の頭上に満天の星が輝きを放つ。月は生ぬるく満ちて光り、立ち舞う蠅の虹色の翅をきらめかせる。

 ミハルが涙を拭いて立ち、どこかに行った。戻って来た時には、小さなスコップを持っていた。それで土を掘り始めた。ペシュミンも意を汲んで、両手で湿った土を掘り返した。

 二人は力を合わせて猟犬の体を引きずり、穴に落とした。埋めるというよりは、僅かな窪みに落とし、その上に土を盛る形となった。涙は枯れていた。二人は疲れ、土まみれで、更に空腹だった。

 台所に戻ると、ミハルが汲み置きの水でペシュミンの手を洗ってくれた。二人は台所を漁り、砂糖の壺を見つけ、夢中になって舐めた。

「神殿に戻って」

 暗闇の中で、ミハルの声が聞こえた。

「怪しまれちゃうよ」

 ペシュミンは呆然としながら、うん、と答えた。意味を受け止めたくない光景を見たせいで、疲れ果てていた。

「僕はここにいるよ」

 うっすらと影のように見えるミハルの輪郭が動き、手と手が触れ合った。ペシュミンはミハルの手を握り返した。冷たいのに、嫌に汗ばんだ掌だった。

「忘れないでくれる? また会いに来てくれる?」
「来るよ。約束するよ」
「ねえ、もし何かがあったら、僕はノエのお墓にいるから……」

 二人は家の玄関口まで歩いて行き、耳を澄ませた。戸の外からは何も聞こえてこなかった。

「気を付けてね」
「うん」

 ペシュミンは名残惜しく、繋いだ手に力をこめた。ミハルもそれに応えた。

「ばいばい」

 そして、二人は手を放した。

 戦勝広場からルフマンの神殿に続く道を、ペシュミンは一人で歩いた。服は土まみれで、血がつき、長い犬の毛もこびりついていた。指と爪の間には土が詰まり、口の周りは砂糖でべたついている。頭には如何なる思考もなく、惰性で足を引きずるように歩いていた。そんな有り様だから、セルセト兵の足音に気付くべくもなかった。

 カンテラの火が視界に入り、ペシュミンは息を止めた。顔を上げると革鎧を着た大柄な男の姿が目に入った。セルセトの兵士だ。怖くて顔を見れなかった。相手も驚いた様子で、息をのみ、声を出さない。
 ペシュミンは踵を返して逃げ出した。

「待ちなさい!」

 たちまち兵士に肩を掴まれた。

「ペニェフの子だな。今までどこに隠れてたんだ」
「放して!」

 ペシュミンは手足をばたつかせてもがくが、兵士は放さない。

「落ち着きなさい! こら! 何もしないから!」
「嘘!」

 街を覆う壁に連れて行かれ、縛られていく人々の姿が頭をよぎり、ペシュミンは泣き叫んだ。思わず座りこむと、兵士は軽々と抱き上げて、一番近い避難所である、ルフマンの神殿に向かって歩き始める。

 犬の毛と土と血のしみに、兵士は気付いていた。

 確か、猟犬を殺処分した家が何件かあった。凶暴化しては手に負えないから、処分するしかなかったのだが。だが、自分の知る限りでは、ほとんどがグロズナの家だった。

 ペシュミンは、兵士の自分への扱いが存外優しい事に拍子抜けし、もがくのをやめた。

「おお、良い子だ良い子だ。名前は何て言うんだい?」

 兵士は間を持たせる為に口を開いた。

「俺はな、ロロノイって言うんだ」


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