陥落
文字数 4,131文字
祈りの言葉が香の煙と共に空に吸い上げられていく。神官長ルロブジャンは広場に並ぶ棺の前で口を閉じた。神官たちが黙祷を捧げ、広場には棺にたかる蠅の羽音が響くのみとなった。
どの程度の物資と兵力がカルプセスに残っているのか、グロズナ軍は把握しかねているらしい。時々街を囲む壁を挟んで小競り合いが起きるほか、市民は危うい平穏の中にいた。
二千の木兵と、指揮官を失った状態で取り残された六十人足らずの兵は、よくカルプセスを守っていた。敵方に魔術師がいない事も幸いだ。それでも、広場の棺の数は日を追うごとに増えていく。
陥落は時間の問題であるように思われた。カルプセスに手を差し伸べる者があるとすれば、新シュトラトの駐留軍のほかない。だがそれは、カルプセスの窮状を訴える特務治安部隊が無事新シュトラトに到着してからだ。首尾よく彼らが新シュトラトに到着したとして、その地の為政者や指揮官が事なかれ主義の人物であれば、兵を動かさぬと考えられる。仮に兵が動いたとしても、それがカルプセスに到着するまで攻めあぐねているほどグロズナ軍は愚かではない。
黙祷を終え、神官達が頭を上げる。
神官長は微笑み、穏やかな口調で言った。
「では、戻りましょう」
祈る事は必要だ。祈りは心を静かにさせる。静まり返った心の神官達を背後に連れて歩いていると、前方からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。目を細めると、難民の少女ペシュミンの姿が見て取れた。ペシュミンはあっちの路傍に蹲り、こっちの路傍に蹲り、何かを探しているようだ。ルロブジャンは歩み寄る。
「落し物かな?」
声をかけると、少女は腕を広げて駆け寄ってきた。ルロブジャンは腰を屈めて抱きとめた。
「どうしたんだい?」
「神官長さま」
「ん?」
「お花がないの」
ペシュミンは泣きそうな声で言った。ルロブジャンは彼女の小さな体を、汗と垢の臭いごと抱き上げながら、ペシュミンが血まみれで帰ってきた夜の事を回想した。あの夜、誰かが神殿の扉を叩き、人々が静まり返った。木兵が扉を開けると、ペシュミンが立っていた。獣の毛と土と血に覆われて。
ナザエが人ごみをかき分けて現れ、ペシュミンを抱きしめた。そして、乾いた音で頬を一度打ち、また抱きしめた。ペシュミンは声を上げ、ナザエは声を出さず泣いた。
あのグロズナの子をどこかに匿ったのだろうとルロブジャンは察した。ナザエはあのグロズナの子供の存在を、セルセト兵に告げようとしていたのだから。だがそんな事をペシュミンが察したとは思えない。何故、ペシュミンはあの子を神殿から連れ出したのだろう。子供ならではの短絡か、あるいは、天性の勘の良さか。
向こうからセルセト兵が歩いてくる。ペシュミンが唾をのんだ。
「お兄ちゃん!」
泣きそうだった子供がもう笑顔だ。ルロブジャンはペシュミンを地面に下ろした。
「おお! また出歩いてたのか、どうしようもないチビめ」
その兵士は度々遺体を運んでくるので、ルロブジャンも彼の名がロロノイである事を知っていた。
「お花探してたの!」
子供らしい高い声で言いながら、ペシュミンはロロノイにまとわりつく。
「花ぁ? 確かにねえな。誰も管理しなくなっちまったもんな」
路傍の花壇はここ数日の内にみな枯れ果て、雑草ばかり逞しく茂っている。
遠くで鬨の声が上がった。ロロノイがペシュミンから目を逸らした。
「ねえ、お兄ちゃん、あの声なぁに? みんなで何やってるの?」
「ああ――あれはな――」
ロロノイは笑みを浮かべた。無理のある笑みだ。
「遊んでんだよ、ほら、あれだ。石蹴り! 兄ちゃんたちみんな元気だからな! お前もやった事あるだろ?」
「うん!」
ルロブジャンは居たたまれない気持ちに耐えた。
戦死したセルセト兵と同じ数だけ、市門の上で、磔にされたグロズナの民間人が殺されているのだ。男も、女も、子供も。
セルセト兵を、ロロノイを、非人間的であると糾弾する事は出来ない。責めるは神職の本領ではない。神職の領分とは、ただ、神に頭を垂れに来る者を受け入れる事だけだ。彼らの穢れごと。人間や人間の行為の内の、非人間的な部分ごと。
「日が高くなって参りましたね」
ルロブジャンから話を振った。
「ええ、やあ、もう日陰が恋しいのなんのって。こう暑くっちゃ、たまりませんね」
「お勤め、ご苦労様でございます。お怪我のほうは如何ですか?」
「大したことありませんよ。壁から落ちた時はもう駄目かと思いましたがね。下に大きな木があったから助かったものを。まあ、運がよかったんでしょうね」
ロロノイは兜を脱ぎ、額の汗を拭った。
「神官長さん、感謝します。毎日、特務治安部隊の幸運を祈ってくださっていること」
「それが私の勤めでございます」
「妹が部隊に同行してるんですよ」
と、頭を掻いた。
「俺、妹に死んだと思われてるんじゃないかってね。あいつ落ち込んでないか心配なんですよ、て、こら!」
どこかに歩いて行こうとするペシュミンの肩を掴む。
「またこのチビめ! 今度はどこに行くつもりだ?」
「だって、お花を探さないと……ママと私の分……落としちゃったから……」
「落とした?」
ルロブジャンは気付く。彼女は気にしているのだ。あの日、全てのカルプセス市民の運命が決まったあの日、摘んだ花を失くしてしまって神殿に捧げられなかった事を。
「花は根と伏流の神ルフマンの御心を喜ばせる」
ルロブジャンはペシュミンに歩み寄り、しゃがんで肩を持った。
「だが、お花を捧げなかったからと言って、それが神ルフマンにとって失礼に当たるわけではないのだよ。神ルフマンの崇拝者への愛は、そんな事で揺らぎはしない。さあ、神殿に帰ろう」
少女はそれでもまだ、気にしている様子だった。
その日、ペシュミンは夢を見た。
夢の中で、かつて住んでいた村にいた。パパとママは畑に出ている。ペシュミンはまだ手伝いに行ける年ではないので留守番だ。普段は表に出て他の子供たちと遊ぶのだが、熱があって動けなかった。
空腹のあまり吐き気がした。喉が渇いて痛い。体の節々が強張っている。まるで、固い床に直接寝転んでいるかのよう。ペシュミンは子供部屋に、他に誰かがいると気付く。
窓の下で、木兵が膝を抱えていた。木兵の虚ろな右目の奥で、短い触角がそよぎ、蜂が顔を見せた。蜂は首を傾げた。遅れて木兵も首を傾げた。
蜂さん、蜂さん、どうしたの? どうして首を傾げるの?
ペシュミンは寝たまま尋ねる。
木兵が立ち上がり、ベッドまで歩いて来た。いつしか木兵は、小さな花束を手に持っていた。
花束が差し出される。
嬉しくなったペシュミンがそれに手を伸ばした時、夢が破れた。
花はなかった。家もなかった。優しい太陽の光もなかった。空腹と、喉と体の痛みだけが本当だった。そして、すぐ近くを大人たちが走り回る気配。
「起きなさい、ペシュミン」
ナザエに体を抱かれ、揺さぶられているのを感じた。
「ママ?」
何もわからなかった。ただならぬ事が起きているとだけわかった。夜の中、闇に目が慣れるのも待たず、立たされ、手を引かれるままに歩き出した。
「ママ」
窓の前を通る時、ナザエの横顔が見えた。周囲の女や老人たちの顔も見えた。前だけを見ている。誰も何も持っていない。皆身一つで神殿の廊下の奥に向かって行く。
一階に下りると外の喧騒が礼拝室まで聞こえてきた。
「早くしろ! 走れ!」
老人が喚いている。
「グロズナが攻めて来るぞ!」
背後から押されるような圧力を感じ、ナザエが手を握り直す。前の人が走り出した。つられてナザエとペシュミンも走り出す。
逃げるんだ、と理解したペシュミンは、一つの思いに胸を貫かれる。
ミハルにもこの事を伝えないと!
ナザエは前の人に続いて走るのに夢中で、自分への注意がおろそかになっている。ペシュミンはそろりと手を放し、人ごみから外れ、街の闇に紛れた。
「ミハル!」
明かりのない大通りを、うっすら見える建物やモニュメントの輪郭を頼りに遡り、戦勝広場にほど近いミハルとルドガンの家にたどり着いた。
「ミハル! 一緒に逃げよう!」
鍵は開いていない。飛びこんだペシュミンは、いきなり何かに躓いた。
「ミハル?」
転んだ拍子に膝をすりむき、泣き出しそうになるが耐える。
「ミハル! 私だよ! ペシュミンだよ!」
足許には布や本や壺や、様々な物が散乱している。台所に向かった。そこも酷く荒れていた。
「ミハル、ミハル!」
裏庭に出た。約束の場所、猟犬ノエの墓の前に、ミハルはいなかった。
「ミハル、出てきて! 一緒に逃げなきゃ駄目だよ!」
背後から不意に抱き上げられ、肩に担がれる。
「このチビめ!」
放して、とペシュミンは叫ぶ。そしてなお声を張り上げた。
「ミハル! ミハル! 放してよ、ねえ、お兄ちゃん」
「駄目だ、もうここには誰もいねぇ!」
「いるもん! ミハルがいるもん!」
兵士ロロノイは足許に散乱する家具を跨ぎ越し、家から出た。
「ミハルはね、男の子なんだよ! 一緒に逃げなきゃ駄目なんだよ!」
ロロノイが立ち止まる。ペシュミンはロロノイの体の緊張を感じた。ロロノイは私情を殺し、守るべきペニェフの子供を抱え走った。
「ミハルー! ミハル、どこに行ったの!」
ペシュミンは叫び続けた。
「お兄ちゃん、ねえ、ミハルって子がいるんだよ、あの家にいるんだよ!」
「あそこにはもういないんだ」
ロロノイはペシュミンの顔を見ぬよう、見つけた木兵に彼女を託した。木兵はペシュミンを抱き、最後の砦、市庁舎のある方向へと走って行く。
「どうして? どうしていないの? ねえ――」
ペシュミンの叫びが闇から響く。
「ミハルをどこにやったの!?」
どの程度の物資と兵力がカルプセスに残っているのか、グロズナ軍は把握しかねているらしい。時々街を囲む壁を挟んで小競り合いが起きるほか、市民は危うい平穏の中にいた。
二千の木兵と、指揮官を失った状態で取り残された六十人足らずの兵は、よくカルプセスを守っていた。敵方に魔術師がいない事も幸いだ。それでも、広場の棺の数は日を追うごとに増えていく。
陥落は時間の問題であるように思われた。カルプセスに手を差し伸べる者があるとすれば、新シュトラトの駐留軍のほかない。だがそれは、カルプセスの窮状を訴える特務治安部隊が無事新シュトラトに到着してからだ。首尾よく彼らが新シュトラトに到着したとして、その地の為政者や指揮官が事なかれ主義の人物であれば、兵を動かさぬと考えられる。仮に兵が動いたとしても、それがカルプセスに到着するまで攻めあぐねているほどグロズナ軍は愚かではない。
黙祷を終え、神官達が頭を上げる。
神官長は微笑み、穏やかな口調で言った。
「では、戻りましょう」
祈る事は必要だ。祈りは心を静かにさせる。静まり返った心の神官達を背後に連れて歩いていると、前方からぱたぱたと小さな足音が聞こえてきた。目を細めると、難民の少女ペシュミンの姿が見て取れた。ペシュミンはあっちの路傍に蹲り、こっちの路傍に蹲り、何かを探しているようだ。ルロブジャンは歩み寄る。
「落し物かな?」
声をかけると、少女は腕を広げて駆け寄ってきた。ルロブジャンは腰を屈めて抱きとめた。
「どうしたんだい?」
「神官長さま」
「ん?」
「お花がないの」
ペシュミンは泣きそうな声で言った。ルロブジャンは彼女の小さな体を、汗と垢の臭いごと抱き上げながら、ペシュミンが血まみれで帰ってきた夜の事を回想した。あの夜、誰かが神殿の扉を叩き、人々が静まり返った。木兵が扉を開けると、ペシュミンが立っていた。獣の毛と土と血に覆われて。
ナザエが人ごみをかき分けて現れ、ペシュミンを抱きしめた。そして、乾いた音で頬を一度打ち、また抱きしめた。ペシュミンは声を上げ、ナザエは声を出さず泣いた。
あのグロズナの子をどこかに匿ったのだろうとルロブジャンは察した。ナザエはあのグロズナの子供の存在を、セルセト兵に告げようとしていたのだから。だがそんな事をペシュミンが察したとは思えない。何故、ペシュミンはあの子を神殿から連れ出したのだろう。子供ならではの短絡か、あるいは、天性の勘の良さか。
向こうからセルセト兵が歩いてくる。ペシュミンが唾をのんだ。
「お兄ちゃん!」
泣きそうだった子供がもう笑顔だ。ルロブジャンはペシュミンを地面に下ろした。
「おお! また出歩いてたのか、どうしようもないチビめ」
その兵士は度々遺体を運んでくるので、ルロブジャンも彼の名がロロノイである事を知っていた。
「お花探してたの!」
子供らしい高い声で言いながら、ペシュミンはロロノイにまとわりつく。
「花ぁ? 確かにねえな。誰も管理しなくなっちまったもんな」
路傍の花壇はここ数日の内にみな枯れ果て、雑草ばかり逞しく茂っている。
遠くで鬨の声が上がった。ロロノイがペシュミンから目を逸らした。
「ねえ、お兄ちゃん、あの声なぁに? みんなで何やってるの?」
「ああ――あれはな――」
ロロノイは笑みを浮かべた。無理のある笑みだ。
「遊んでんだよ、ほら、あれだ。石蹴り! 兄ちゃんたちみんな元気だからな! お前もやった事あるだろ?」
「うん!」
ルロブジャンは居たたまれない気持ちに耐えた。
戦死したセルセト兵と同じ数だけ、市門の上で、磔にされたグロズナの民間人が殺されているのだ。男も、女も、子供も。
セルセト兵を、ロロノイを、非人間的であると糾弾する事は出来ない。責めるは神職の本領ではない。神職の領分とは、ただ、神に頭を垂れに来る者を受け入れる事だけだ。彼らの穢れごと。人間や人間の行為の内の、非人間的な部分ごと。
「日が高くなって参りましたね」
ルロブジャンから話を振った。
「ええ、やあ、もう日陰が恋しいのなんのって。こう暑くっちゃ、たまりませんね」
「お勤め、ご苦労様でございます。お怪我のほうは如何ですか?」
「大したことありませんよ。壁から落ちた時はもう駄目かと思いましたがね。下に大きな木があったから助かったものを。まあ、運がよかったんでしょうね」
ロロノイは兜を脱ぎ、額の汗を拭った。
「神官長さん、感謝します。毎日、特務治安部隊の幸運を祈ってくださっていること」
「それが私の勤めでございます」
「妹が部隊に同行してるんですよ」
と、頭を掻いた。
「俺、妹に死んだと思われてるんじゃないかってね。あいつ落ち込んでないか心配なんですよ、て、こら!」
どこかに歩いて行こうとするペシュミンの肩を掴む。
「またこのチビめ! 今度はどこに行くつもりだ?」
「だって、お花を探さないと……ママと私の分……落としちゃったから……」
「落とした?」
ルロブジャンは気付く。彼女は気にしているのだ。あの日、全てのカルプセス市民の運命が決まったあの日、摘んだ花を失くしてしまって神殿に捧げられなかった事を。
「花は根と伏流の神ルフマンの御心を喜ばせる」
ルロブジャンはペシュミンに歩み寄り、しゃがんで肩を持った。
「だが、お花を捧げなかったからと言って、それが神ルフマンにとって失礼に当たるわけではないのだよ。神ルフマンの崇拝者への愛は、そんな事で揺らぎはしない。さあ、神殿に帰ろう」
少女はそれでもまだ、気にしている様子だった。
その日、ペシュミンは夢を見た。
夢の中で、かつて住んでいた村にいた。パパとママは畑に出ている。ペシュミンはまだ手伝いに行ける年ではないので留守番だ。普段は表に出て他の子供たちと遊ぶのだが、熱があって動けなかった。
空腹のあまり吐き気がした。喉が渇いて痛い。体の節々が強張っている。まるで、固い床に直接寝転んでいるかのよう。ペシュミンは子供部屋に、他に誰かがいると気付く。
窓の下で、木兵が膝を抱えていた。木兵の虚ろな右目の奥で、短い触角がそよぎ、蜂が顔を見せた。蜂は首を傾げた。遅れて木兵も首を傾げた。
蜂さん、蜂さん、どうしたの? どうして首を傾げるの?
ペシュミンは寝たまま尋ねる。
木兵が立ち上がり、ベッドまで歩いて来た。いつしか木兵は、小さな花束を手に持っていた。
花束が差し出される。
嬉しくなったペシュミンがそれに手を伸ばした時、夢が破れた。
花はなかった。家もなかった。優しい太陽の光もなかった。空腹と、喉と体の痛みだけが本当だった。そして、すぐ近くを大人たちが走り回る気配。
「起きなさい、ペシュミン」
ナザエに体を抱かれ、揺さぶられているのを感じた。
「ママ?」
何もわからなかった。ただならぬ事が起きているとだけわかった。夜の中、闇に目が慣れるのも待たず、立たされ、手を引かれるままに歩き出した。
「ママ」
窓の前を通る時、ナザエの横顔が見えた。周囲の女や老人たちの顔も見えた。前だけを見ている。誰も何も持っていない。皆身一つで神殿の廊下の奥に向かって行く。
一階に下りると外の喧騒が礼拝室まで聞こえてきた。
「早くしろ! 走れ!」
老人が喚いている。
「グロズナが攻めて来るぞ!」
背後から押されるような圧力を感じ、ナザエが手を握り直す。前の人が走り出した。つられてナザエとペシュミンも走り出す。
逃げるんだ、と理解したペシュミンは、一つの思いに胸を貫かれる。
ミハルにもこの事を伝えないと!
ナザエは前の人に続いて走るのに夢中で、自分への注意がおろそかになっている。ペシュミンはそろりと手を放し、人ごみから外れ、街の闇に紛れた。
「ミハル!」
明かりのない大通りを、うっすら見える建物やモニュメントの輪郭を頼りに遡り、戦勝広場にほど近いミハルとルドガンの家にたどり着いた。
「ミハル! 一緒に逃げよう!」
鍵は開いていない。飛びこんだペシュミンは、いきなり何かに躓いた。
「ミハル?」
転んだ拍子に膝をすりむき、泣き出しそうになるが耐える。
「ミハル! 私だよ! ペシュミンだよ!」
足許には布や本や壺や、様々な物が散乱している。台所に向かった。そこも酷く荒れていた。
「ミハル、ミハル!」
裏庭に出た。約束の場所、猟犬ノエの墓の前に、ミハルはいなかった。
「ミハル、出てきて! 一緒に逃げなきゃ駄目だよ!」
背後から不意に抱き上げられ、肩に担がれる。
「このチビめ!」
放して、とペシュミンは叫ぶ。そしてなお声を張り上げた。
「ミハル! ミハル! 放してよ、ねえ、お兄ちゃん」
「駄目だ、もうここには誰もいねぇ!」
「いるもん! ミハルがいるもん!」
兵士ロロノイは足許に散乱する家具を跨ぎ越し、家から出た。
「ミハルはね、男の子なんだよ! 一緒に逃げなきゃ駄目なんだよ!」
ロロノイが立ち止まる。ペシュミンはロロノイの体の緊張を感じた。ロロノイは私情を殺し、守るべきペニェフの子供を抱え走った。
「ミハルー! ミハル、どこに行ったの!」
ペシュミンは叫び続けた。
「お兄ちゃん、ねえ、ミハルって子がいるんだよ、あの家にいるんだよ!」
「あそこにはもういないんだ」
ロロノイはペシュミンの顔を見ぬよう、見つけた木兵に彼女を託した。木兵はペシュミンを抱き、最後の砦、市庁舎のある方向へと走って行く。
「どうして? どうしていないの? ねえ――」
ペシュミンの叫びが闇から響く。
「ミハルをどこにやったの!?」