霊感

文字数 2,939文字

 広い大聖堂図書館内部をひとしきり見て回った後、リディウは南棟のテラスの、長い間風雨にさらされた痕跡を刻む石のベンチに腰かけて時を過ごした。魔術師ではないリディウに、大聖堂図書館から、何らかの情報や過去を読み取ることはできなかった。

 テラスには涼しい風が吹き、木々が囁く。鳥たちが鳴きかわし、どこからか、流れ落ちる滝の豊かな水の音が聞こえてくる。今日が人生で最期の一日であるとしても、のどかな光の中で、なかなかその実感を持てずにいた。その内、体の中に残っていた眠り薬が効いてきて、リディウはうとうとし始めた。

 頭がこくり、こくりと垂れ、石造りの大聖堂図書館を包みこむ森に意識が溶けこんでいく時、リディウの頭の中をある閃きが走り抜けた。

 リディウは目を大きく見開き、背筋を伸ばした。そして、立ち上がると、ドレスの裾をはためかせて走り出した。

 テラスの端の、曲がりくねった堅牢な石の階段を駆け下り、そのまま森に続く石畳の小径を行く。

 森が開け、舞台が現れた。半月状の舞台と、それに向かい合う半月状の客席。階段の形になっている客席を駆け下りて、リディウは舞台に上がり、激しく舞い始めた。原初の混沌を統べる神、すなわち陰陽と調和の神レレナを讃える舞である。踵が石の舞台を打ち、長い髪が踊った。一番上の客席に、ミューモットが現れた。第一の舞を終えたリディウは、汗も拭かずにミューモットと見つめ合った。

「何をしている?」
「贄は夜、歌劇の力を発相に与えた神ネメスに舞を奉じなければなりません」

 ミューモットが客席の間の階段を下りてくる。

「ですが、巫女に託宣を授けた神がネメスだけでなくレレナでもあるのなら、夏の夜に輝くネメスの星だけでなく、冬に輝くレレナの星にも舞を捧げなければならないのではと私は考えました」

 リディウは細い顎を晴れ渡る空に向けた。

「天球の回転にまつわる講義によれば、目には見ねども、冬の星は夏の昼の空に存在するものとされております」
「考えたものだな」

 ミューモットは皮肉っぽい笑みを浮かべ、立ち去って行った。リディウは彼の事など気にせず、第二、第三の舞を空に捧げた。

 舞が終わった後、リディウは舞台の中央に直立して風を感じた。激しい舞の恍惚が去り、目を開けると、ミューモットはとっくにいなくなっていた。

 リディウは舞台を下り、舞の疲労で呆然としながら石の小径を辿り始めた。テラスに至る階段の途中から空を見上げると、テラスからこちらを見下ろす人影が目に入った。

 ミューモットほど大柄ではない。
 人影は、さっとテラスの手すりから離れた。
 リディウは足を急がせた。

 テラスに上がると、誰かが建物内への扉を内側から閉めた。リディウはドレスの裾をつまんで走り、その扉を開けた。ひんやりした空気が体を包んだ。人影が、白亜の回廊へと廊下を曲がって行った。

「待って」

 リディウはその人に追いつき、並んだ。

 まだあどけなさの残る少年だった。髪はきれいに切り揃えられ、身なりは正しく、顔は緊張に強張っている。少年はリディウを気にもせず、回廊を進んだ。中庭には様々な花が咲き乱れ、磨き上げられた彫像には苔一つついていない。

 少年は星図の間の戸を叩いた。

『神官長の酌人を務めております、タイスと申します。神官長の命により台本を預かりに参りました』
『入りなさい』

 リディウは少年と一緒に星図の間に入った。戸に背を向けて、灰色の髪の巫女が机に向かっていた。部屋の壁には、断崖に通じるあの戸はなく、同じ位置に丸い鏡が取りつけられていた。

 巫女が椅子を引き、立ち上がった。こちらを向くと、その顔には大小の皺が刻まれていた。老いている。

『これを』
 巫女は糸で綴じられた紙束を少年に差し出した。巫女の手は震えていた。次の句を継ぐまでに、しばしの間を要した。
『これをタイタスの王のもとへ』

 紙束の表紙に午後の光が当たり、白く輝いた。表題が端正な文字で綴られていた。

〈我らあてどなく死者の国を〉

『道中、ゆめゆめ盗み見ることのなきよう』
『しかと承りました』
『酌人』

 力んだ動作で立ち去ろうとする少年を、巫女は呼び止めた。

『はい』
『筆を走らせている間、私は怖いものを見た』
『何でございましょうか』
『滅びだ。永劫に続く最期の一日、空に厚い雲がちぎれ浮き、高らかに喇叭(ラッパ)が響く。病みし太陽は狂ったように照りつけ、海は干上がり、草木は枯れ、大地は千々に引き裂かれ、死を失った人間が、痩せこけて徘徊する』
『それは、どの相の光景でございましょうか』
『どの相でもない。地球全てだ。前階層の地球だ』

 色を失い立ち尽くしている少年に、行きなさい、と巫女は言い、背を向けた。少年は挨拶も手短かに、早々に退室した。

 その後巫女は、長い間机に手をついて、窓に顔を向けていた。しかしその目はきらめく緑もささやく陽光も見えていない様子だった。

 巫女は思いつめた様子で鏡の前に立った。そして、何かを読み取らんとするように曇りない鏡を凝視し、そこに映るリディウを見つけた。

『何者ぞ!』

 リディウは星図の間を飛び出した。回廊を渡り、走る。エントランスから外に出た。

 そこに白い砂はない。緑薫る大草原が大聖堂図書館の外に広がっていた。リディウは草に躓き、倒れた。そのまま仰向けに転がって、空を仰いだ。
 数えきれない雲の塊が凄まじい勢いで流れていく。見えない人、透明な人、その気配がせかせかと、早すぎる時の流れの中を行き来する。

「死者の国よ」
 リディウはしかと目を見開く。
「死者の国よ!」

 その目に星図の間が映る。

『神々の力を借りてまで、人と人は争わねばならない』

 灰色の髪の巫女が頭を抱えている。巫女の前で、花瓶に挿された花が急速にしおれ、枯れる。

 草原で花を摘む少女は、雲が流れてゆく下で、高らかに響く喇叭の音を聞く。少女の手の中で、全ての花が枯れる。

 喇叭の音を聞いた農夫は、空に顔を向ける。厚い雲が南から押し寄せてくる。彼が手掛ける果樹は急に枯れ、果実も腐る。

 風が、世界中に喇叭の音を運んだ。世界中の花が枯れ、麦が枯れた。木が枯れ、土が痩せた。水が、木を失った山から村に押し寄せて、濁流の中に呑んだ。道端に餓死者が積まれ、ネズミが走り回った。

 リディウは更に目を見開く。更に。更に。大聖堂図書館では額に汗する魔術師が、渉相術を執り行う。別室では有力な神官と巫女が、神々に慈悲を乞うている。

 まだ動ける人間が、死者を積み上げ火をつける。動物の脂が絶えず次ぎ足され、炎は天を焦がす。

 夜明け、後に残った骨を、男も女も子供も砕く、砕く、砕く、砕いて白い砂にする。

 リディウが横たわる草原で、枯れた草が全て除去される。

 そして山と峠を越え、荷車の列がやって来た。

 荷車は白い粉を、大聖堂図書館の前庭に撒き始めた。

 リディウは瞬きし、体を起こした。

 白い砂の中に、馬のない馬車と、リディウだけが存在していた。


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