見捨テラレタ
文字数 3,185文字
ペニェフの娘ペシュミンは、カルプス川下流の村で生まれ、五歳までそこに住んだ。ある日隣人たちと荷物をまとめて家を出るまでは。父親はいつの間にかいなくなっていた。母親は父の為に祈っている。
カルプセスで宿無しの身となっても、ペシュミンの暮らしは変わらなかった。変わった事と言えば、花を納めるルフマンの教会が、田舎の質素な礼拝所から、都市の壮麗な神殿になった点くらいであった。神殿の長ルロブジャンは、その敬虔さと人柄から、セルセト人や街に住むグロズナの人々からさえも尊敬を集めていた。彼の趣味は神殿の前の木陰に椅子を出し、地中の蟻の王国のしきたりや、星の航行、海洋の不可解な生物とその生態について思いを巡らす事であった。そうしながら、誰に対しても開け放たれた門扉をくぐり小道を歩いてくる人々と、挨拶を交わす時間が、彼の至福の時であった。
その日ルロブジャンは、木漏れ日を見つめるさ中、今日、大いなる運命が定まるのだと直観した。老境の神官長は目を見開き、背筋を正した。木漏れ日の揺れるリズムや、目に映る限りの蒼穹の果て、下草と風の囁きから、意味を読み取ろうとした。
何かが来る。
逃れがたい、大いなるものが。
ルロブジャンは信じた。
門扉を通り抜け、幼いペニェフの難民の少女が走ってきた。
「神官長さま!」
汗を振りまいて走るペシュミンは、木陰の椅子からルロブジャンが立ち上がるのを見た。体ごとぶつかっていくと、ルロブジャンは容姿からは想像もつかぬ力強さでペシュミンを受け止め、高々と抱き上げた。ペシュミンは高らかに笑った。ルロブジャンが髭に覆われた顔で頬ずりし、歓迎を示すと、子供はまだ笑いながら言った。
「神官長さま、今日はね、ママの分もお花を摘んで来たの!」
「うん?」
ルロブジャンはペシュミンを抱いたまま、優しく首を傾げた。
「どこにお花があるんだい?」
ペシュミンは手の中の花が消え失せている事に初めて気付いた。地面に下ろされ、困惑しながら小道の向こうに目を凝らしたが、通ってきた道には花びら一つ落ちていなかった。
「お花、落としちゃった」
ルロブジャンはペシュミンの小さな頭に手を置き、髪を撫でた。
「お母さんの分も、持ってくるつもりだったんだね」
ペシュミンは俯く。
「優しい子だ。その気持ちが一番大事なんだよ」
※
神殿の裏の自由市では、ペシュミンの母が手作りのアクセサリーを売っている。珊瑚や貝殻といった装飾品、そして僅かな花の種だけが、彼女の財産であった。そして娘。
神殿を出たペシュミンは、母ナザエの露店の前に客が立っているのを初めて見た。グロズナの男だった。高い鷲鼻と大きな体でわかる。ペシュミンは恐れながら、露店に近付いていった。
「赤珊瑚には思い入れがありましてね」
グロズナの男性客はにこやかに話していた。
「私の弟の嫁が初産の時、赤珊瑚が子供のお守りになるって言うんでね、村を出て買いに行ったわけです。その時私は初めて海を見たんですよ。その広い事、美しい事ときたらもう――」
「どうしたの?」
背後から呼びかけられ、ペシュミンは飛び上がった。ナザエとグロズナの男性客が、少し離れた木陰に立つペシュミンを振り向いた。ペシュミンは後ろを見た。グロズナの少年が立っていた。自分と同じくらいの歳に見えた。少年は小首を傾げて微笑んでいる。
「ミハル、おいで」
少年はグロズナの男のもとに駆けて行った。
「甥のミハルです、どうも故郷がきな臭くなったもんで、弟夫婦がうちに預けに来ましてね」
ペシュミンもおずおずと、母親に近付いていった。
「娘のペシュミンです」
「かわいらしい子だねえ。幾つだい? ん?」
男が顔を寄せてくる。ペシュミンは身を竦めたが、ナザエに背中をつつかれて、「五歳」と答えた。
「ほぉう、じゃ、うちのミハルと同い年だ」
大きな手が伸びてきて、その手に頭を撫でられた。優しい手だった。ミハルという少年と目が合った。やはり彼は微笑んでいた。ペシュミンは少しだけ緊張を解き、微笑み返した。
「カルプセスには、お二人で?」
「いえ、村の人々と。でもカルプセスに入った時点で散り散りになってしまって……」
「そうか。それは心細い」
男は赤珊瑚の首飾りと、幾つかの花の種を購入すると言った。ナザエが目を瞠った。
「そんなに買ってくださるのですか……ありがとうございます」
「花はミハルに世話をさせましょう」
嬉しさよりも、むしろ困惑を示すナザエに男は微笑んだ。
「窓辺にこの種を植えた鉢を出しておきましょう。戦勝広場から西三番通りに入って二軒目の家です。ああ、そうそう、私はルドガンと言いましてね」
手を差し出され、ナザエは反射的に握手をする。
「何かお困りの事があれば、うちに来るといいですよ。お嬢ちゃん、よかったらうちに来て、ミハルと遊んでやってくれるかい?」
ペシュミンはミハルを見た。少年はにこにこ笑っている。
「うん!」
代金を受け取った後、ナザエがルドガンを呼び止めた。
「あの、何故そんなに……」
「民族が違う。ただそれだけで憎みあう」
ルドガンはミハルの肩に手を置きながら、尋ねられる内容を先読みし答えた。
「無意味な事だと思いませんか?」
その日、市が閉まるまで、ペシュミンはナザエと一緒にいた。母親は露店そっちのけで、暗い目をしてうなだれているだけだった。
※
夕日が自由市の通りを金色に染める頃、ナザエはその日の寝床を定めるべく裏通りを彷徨っていた。ペシュミンはあくびをしながら手を引かれるまま歩いていた。売り上げのおかげで、久々に屋根のある場所で眠れそうだった。淡い期待は、表通りの喧騒が高まり、それが日常の聞きなれた範囲を超えてなお高まりつつある事に気付いて破られた。
ナザエが足を止めた。ペシュミンは母親の顔を見上げた。怒号や叫び声、女の泣き喚く声や、馬の蹄の音、武装した兵士が歩く度に立てる金属的な物音が、喧騒の正体であった。小さな手が痛いほど握りしめられた。ナザエは足早に表通りに近付いて、建物の影から様子を窺った。
「兵役可能年齢のペニェフの男性は全員表通りに出ろ!」
カルプセスを守るセルセトの兵が、拙 いナエーズの言葉で叫んでいた。
「繰り返す、兵役可能年齢のペニェフの男は表通りに出ろ!」
ナザエが座りこみ、ペシュミンの体を抱いた。
「女と子供は家にいろ! 男だけだ! グロズナも家に戻れ!」
ペシュミンは母の震えを体中で感じた。若い女が泣き叫びながら恋人にしがみついた。男も恋人を抱き返そうとしたが、兵士三人がかりに引き裂かれ、男だけ連れて行かれるのをペシュミンは見た。青年が母親を固く抱きしめ、同じく兵士に半ば強引に連れて行かれるのを見た。ナザエが目を塞いだ。それでも事態は変わらなかった。
「議員の奴らは全員カルプセスを出るらしいぞ。家族連れでだ」
カルプセスの市民が囁きかわしている。
「畜生、奴ら自分だけ安全な所に逃げる気かよ」
「やめてくれ! 妻と娘も連れて行かせてくれ! 頼む!」
中年の父親の悲痛な叫びが鼓膜を打つ。別の誰かが叫ぶ。
「あんた達がいなくなったら、誰がカルプセスを守るんだ!」
いなくなる。ペシュミンは理解する。セルセトの兵士がカルプセスからいなくなると。
「見捨てられた」
か細い女の声が言った。声はそのまま嗚咽に変わって、他の怒号や喧騒に、かき消されていった。
ああ。ペシュミンは理解する。
ああ――見捨てられた、と。
その本当の意味もわからぬまま。
カルプセスで宿無しの身となっても、ペシュミンの暮らしは変わらなかった。変わった事と言えば、花を納めるルフマンの教会が、田舎の質素な礼拝所から、都市の壮麗な神殿になった点くらいであった。神殿の長ルロブジャンは、その敬虔さと人柄から、セルセト人や街に住むグロズナの人々からさえも尊敬を集めていた。彼の趣味は神殿の前の木陰に椅子を出し、地中の蟻の王国のしきたりや、星の航行、海洋の不可解な生物とその生態について思いを巡らす事であった。そうしながら、誰に対しても開け放たれた門扉をくぐり小道を歩いてくる人々と、挨拶を交わす時間が、彼の至福の時であった。
その日ルロブジャンは、木漏れ日を見つめるさ中、今日、大いなる運命が定まるのだと直観した。老境の神官長は目を見開き、背筋を正した。木漏れ日の揺れるリズムや、目に映る限りの蒼穹の果て、下草と風の囁きから、意味を読み取ろうとした。
何かが来る。
逃れがたい、大いなるものが。
ルロブジャンは信じた。
門扉を通り抜け、幼いペニェフの難民の少女が走ってきた。
「神官長さま!」
汗を振りまいて走るペシュミンは、木陰の椅子からルロブジャンが立ち上がるのを見た。体ごとぶつかっていくと、ルロブジャンは容姿からは想像もつかぬ力強さでペシュミンを受け止め、高々と抱き上げた。ペシュミンは高らかに笑った。ルロブジャンが髭に覆われた顔で頬ずりし、歓迎を示すと、子供はまだ笑いながら言った。
「神官長さま、今日はね、ママの分もお花を摘んで来たの!」
「うん?」
ルロブジャンはペシュミンを抱いたまま、優しく首を傾げた。
「どこにお花があるんだい?」
ペシュミンは手の中の花が消え失せている事に初めて気付いた。地面に下ろされ、困惑しながら小道の向こうに目を凝らしたが、通ってきた道には花びら一つ落ちていなかった。
「お花、落としちゃった」
ルロブジャンはペシュミンの小さな頭に手を置き、髪を撫でた。
「お母さんの分も、持ってくるつもりだったんだね」
ペシュミンは俯く。
「優しい子だ。その気持ちが一番大事なんだよ」
※
神殿の裏の自由市では、ペシュミンの母が手作りのアクセサリーを売っている。珊瑚や貝殻といった装飾品、そして僅かな花の種だけが、彼女の財産であった。そして娘。
神殿を出たペシュミンは、母ナザエの露店の前に客が立っているのを初めて見た。グロズナの男だった。高い鷲鼻と大きな体でわかる。ペシュミンは恐れながら、露店に近付いていった。
「赤珊瑚には思い入れがありましてね」
グロズナの男性客はにこやかに話していた。
「私の弟の嫁が初産の時、赤珊瑚が子供のお守りになるって言うんでね、村を出て買いに行ったわけです。その時私は初めて海を見たんですよ。その広い事、美しい事ときたらもう――」
「どうしたの?」
背後から呼びかけられ、ペシュミンは飛び上がった。ナザエとグロズナの男性客が、少し離れた木陰に立つペシュミンを振り向いた。ペシュミンは後ろを見た。グロズナの少年が立っていた。自分と同じくらいの歳に見えた。少年は小首を傾げて微笑んでいる。
「ミハル、おいで」
少年はグロズナの男のもとに駆けて行った。
「甥のミハルです、どうも故郷がきな臭くなったもんで、弟夫婦がうちに預けに来ましてね」
ペシュミンもおずおずと、母親に近付いていった。
「娘のペシュミンです」
「かわいらしい子だねえ。幾つだい? ん?」
男が顔を寄せてくる。ペシュミンは身を竦めたが、ナザエに背中をつつかれて、「五歳」と答えた。
「ほぉう、じゃ、うちのミハルと同い年だ」
大きな手が伸びてきて、その手に頭を撫でられた。優しい手だった。ミハルという少年と目が合った。やはり彼は微笑んでいた。ペシュミンは少しだけ緊張を解き、微笑み返した。
「カルプセスには、お二人で?」
「いえ、村の人々と。でもカルプセスに入った時点で散り散りになってしまって……」
「そうか。それは心細い」
男は赤珊瑚の首飾りと、幾つかの花の種を購入すると言った。ナザエが目を瞠った。
「そんなに買ってくださるのですか……ありがとうございます」
「花はミハルに世話をさせましょう」
嬉しさよりも、むしろ困惑を示すナザエに男は微笑んだ。
「窓辺にこの種を植えた鉢を出しておきましょう。戦勝広場から西三番通りに入って二軒目の家です。ああ、そうそう、私はルドガンと言いましてね」
手を差し出され、ナザエは反射的に握手をする。
「何かお困りの事があれば、うちに来るといいですよ。お嬢ちゃん、よかったらうちに来て、ミハルと遊んでやってくれるかい?」
ペシュミンはミハルを見た。少年はにこにこ笑っている。
「うん!」
代金を受け取った後、ナザエがルドガンを呼び止めた。
「あの、何故そんなに……」
「民族が違う。ただそれだけで憎みあう」
ルドガンはミハルの肩に手を置きながら、尋ねられる内容を先読みし答えた。
「無意味な事だと思いませんか?」
その日、市が閉まるまで、ペシュミンはナザエと一緒にいた。母親は露店そっちのけで、暗い目をしてうなだれているだけだった。
※
夕日が自由市の通りを金色に染める頃、ナザエはその日の寝床を定めるべく裏通りを彷徨っていた。ペシュミンはあくびをしながら手を引かれるまま歩いていた。売り上げのおかげで、久々に屋根のある場所で眠れそうだった。淡い期待は、表通りの喧騒が高まり、それが日常の聞きなれた範囲を超えてなお高まりつつある事に気付いて破られた。
ナザエが足を止めた。ペシュミンは母親の顔を見上げた。怒号や叫び声、女の泣き喚く声や、馬の蹄の音、武装した兵士が歩く度に立てる金属的な物音が、喧騒の正体であった。小さな手が痛いほど握りしめられた。ナザエは足早に表通りに近付いて、建物の影から様子を窺った。
「兵役可能年齢のペニェフの男性は全員表通りに出ろ!」
カルプセスを守るセルセトの兵が、
「繰り返す、兵役可能年齢のペニェフの男は表通りに出ろ!」
ナザエが座りこみ、ペシュミンの体を抱いた。
「女と子供は家にいろ! 男だけだ! グロズナも家に戻れ!」
ペシュミンは母の震えを体中で感じた。若い女が泣き叫びながら恋人にしがみついた。男も恋人を抱き返そうとしたが、兵士三人がかりに引き裂かれ、男だけ連れて行かれるのをペシュミンは見た。青年が母親を固く抱きしめ、同じく兵士に半ば強引に連れて行かれるのを見た。ナザエが目を塞いだ。それでも事態は変わらなかった。
「議員の奴らは全員カルプセスを出るらしいぞ。家族連れでだ」
カルプセスの市民が囁きかわしている。
「畜生、奴ら自分だけ安全な所に逃げる気かよ」
「やめてくれ! 妻と娘も連れて行かせてくれ! 頼む!」
中年の父親の悲痛な叫びが鼓膜を打つ。別の誰かが叫ぶ。
「あんた達がいなくなったら、誰がカルプセスを守るんだ!」
いなくなる。ペシュミンは理解する。セルセトの兵士がカルプセスからいなくなると。
「見捨てられた」
か細い女の声が言った。声はそのまま嗚咽に変わって、他の怒号や喧騒に、かき消されていった。
ああ。ペシュミンは理解する。
ああ――見捨てられた、と。
その本当の意味もわからぬまま。