悲報

文字数 4,317文字


 ラプサーラは夜通し歩き続け、ついに朝日を拝んだ。太陽が中天に差しかかっても休憩は許されず、水の一杯も与えられなかった。その上、隊列の先頭集団は昼前から山道に差しかかっていた。喉は渇ききり、胃が空っぽなせいで吐き気がした。時折隣を馬に跨った伝令が行き来し、獣臭い風を起こした。常に頭の中を占めているのは、カルプセスに残った兄の事だった。最後の集団は、もうカルプセスを出ただろうか。列後方からは、夜明け頃までは様々な噂が伝わってきたものだが、今は誰にも口を利く元気がない。

 喘ぎながら山道を進み、そのせいでますます喉が痛くなる。足が上がらなくなった頃、ようやく大休止の号令が出た。水と食料が配られた。革袋の水を飲み干すと、配られた保存用の硬いパンを一かけらも口に入れぬまま、ラプサーラは眠りこんだ。

 揺り起こされて目を覚ました時には、周囲は薄闇に包まれていた。

「もう夜なの?」

 起こしてくれた女性に聞いた。医業関係者のダンビュラという女性で、セルセト人だ。出発からずっと隣り合って歩いて来た。

「もう朝、よ」

 ラプサーラは目をこすりながら、昨夜配られたパンを荷袋から出し、唾で湿らせながら食べた。水が配られた。次の配給がいつになるかわからない。味わって飲む。

「一番後ろの人達はどの辺りにいるのかしら」
「それが、後ろの集団が昨日から酷い攻撃にさらされているって」

 ダンビュラが声を潜め、答える。

「あくまで噂よ、だけど……」

 出発を告げる笛が鳴り、二人は口を噤んで立ち上がった。行軍中は私語を慎まなければならない。足の筋肉が硬直し、感覚がなかった。それでも誰も何も言わず、前進を再開する。

 隊列は幾つも峠を越え、ほぼ尾根伝いに山を進んでいった。ラプサーラは黙々と歩いた。座りこみたかったが、後ろに二万を超す人々がつかえている事を思うと歩かざるを得ない。歩きながら、グロズナ軍はどこまで迫っているだろうと考えた。

 頭の中で持っている知識を反芻する。

 ナエーズ総督にペニェフの代表者が選ばれ、ペニェフ有利の政策が行われる事に反発し、グロズナは独立宣言を公表した。それまでグロズナは、ナエーズ南部の山岳地帯と西の半島を実質支配していた。だが、彼らの悲願である独立国家樹立には、地理的に連続した土地が必要不可欠となる。

 独立宣言から間もなく、グロズナは民族浄化の御旗のもと、南の山岳と西の半島を結ぶ地域のペニェフを武力で排除し始めた。その勢力はナエーズ中西部のカルプセスにも迫り、排除は殺戮に形を変えながら、徐々に北上を続けている。

 これは、グロズナという民族が特別に自己中心的であり残虐であるという話ではない。ペニェフが優位の時には、同じ事をペニェフもしてきたのだ。

 ラプサーラは一度だけ、世界図上のナエーズから過去を幻視した事がある。見えたのは、並べた椅子に座らされ、戦斧で順に頭を潰されていくグロズナの男達の姿。喉をかき切られ、谷底にゴミのように捨てられた子供達の姿。ルフマンの神印の形に立たされ、油をかけられ焼き殺される女達の姿。襲撃された村で、倒れている人々を更に剣で刺し、入念に殺し尽くすペニェフの兵士達の姿。

 同じ事を、ペニェフとグロズナは何度も何度も繰り返してきたのだ。それがナエーズの歴史だ。

 ラプサーラは幻視した事を後悔した。何より後味が悪いのは、数々の戦闘と虐殺が神ルフマンと神リデルの名の許に行われた事実だ。ルフマンは皮肉屋ながら温厚寛大な農耕の神であり、リデルは狩人の守護神であると共に、公明正大な平和と秩序の守護神でもある。人間に神の御心を推し量る事はできないが、これらの神が虐殺を求めているとは、少なくともラプサーラには思えない。

 何故、神の名を唱えながら殺しを行うのだ? それは、殺されたくないからだ。神からの守護を得る為に、神の名を唱えるのだ。では何故、殺されるかもしれない危険を冒して殺しに行くのだ? それは、殺された同胞の遺恨と無念を晴らす為だ。

 同胞とは、同じ神を崇める共同体の一員の事だ。共同体同士の戦いはいつしか、神と神の代理戦争のようになった。そこに神が不在のまま。

 戦いの起源を遡れば、そこに戦いの意味は見出せるだろうか? あるいは歴史の意味が?

 わからない。わかるのは、今もグロズナ達が背後に迫りつつある事だけだ。彼らの軍勢の内の何割が、この隊列を追って北上してきているだろうか。カルプセスから新シュトラトの間には、他にも村や町がある。カルプセスを出た隊列だけにかかりきりにはなるまい。それでももし……山岳民族と山中で戦闘に陥るようなことがあれば……。

 ダンビュラに服の袖を引かれ、ラプサーラは我に返る。蹄の音が後方から迫ってきた。道の脇に身を寄せると、獣臭い一陣の風と共に馬が通り過ぎた。

 馬の背に跨る人物の背中に見覚えがあった。緑色のマント。長い、水色がかった白髪を一本に束ねた後ろ姿。

 カルプセスを出た日、兄と共に家に来た魔術師だ。

 後ろからもう一頭の馬が来る。今度は知らない男だった。土埃で汚れた灰色のマント。そのフードを頭にかぶり、顔を隠している。

 すれ違う時、目が合った。色黒の肌で、無精ひげを生やした、中年の男だった。男は冷たい目でラプサーラを見た。たくさんの人の中から、ある邪悪な意志で以って、まっすぐラプサーラを見つけ出したかのように。男はラプサーラの背に寒気を残してたちまち通り過ぎた。

 それから間もなく小休止が与えられた。一度座りこむと、両脚が激しく攣った。沢に水を取りに行く兵士らの声を聞きながら、冷たい岩に頬を寄せて体を冷やし、ラプサーラは束の間まどろんだ。

 その内誰かが前に立ち、その気配で目を覚ます。

 あのセルセト人の魔術師だった。

「ラプサーラだな」

 魔術師はぼんやりと目を開けるラプサーラの前にしゃがんで言った。

「俺の事がわかるかい?」
「あなたは、魔術師の……」

 記憶をたどりながら、掠れた声で答える。

「……ベリル」

 頷くベリルの後ろに二人の男がやって来た。一人はこの隊列を率いるデルレイ。もう一人は、先ほど馬に乗っていた、中年の色黒の男だった。

「大丈夫か? 今話せるかい?」

 ベリルは落ち着かない様子で左手を動かしながら言った。無意識の動作だろう。彼は左手に水色の大きな石を持っていた。魔術師は自分を守護するための道具を持つ事が多い。この石が彼の守護であるなら、何が彼を落ち着かなくさせて、それを何度も握り直させているのだろう。嫌な予感がした。

「兄さんは?」

 ベリルは深く俯いて答えた。

「カルプセスで……戦死した」

 ラプサーラは意志に反して両目が大きく見開き、全身が硬直するのを感じた。顔からさっと血の気が引いた。ついで、カッと熱くなった。脈拍が次第に高まり、怒りとも焦燥ともつかぬ複雑な感情が、煮えたつように湧き上がってきた。

 カルプセスに戻らねばと思った。ベリルの言う事が本当なら、ロロノイが、少なくともその肉体が、カルプセスにいるのなら。

「カルプセスを出る前に、グロズナの魔術攻撃にやられたんだ」
「君のお兄さんは立派に戦った」

 デルレイも言葉を添えるが、殆ど聞こえなかった。

 ラプサーラの頭の中では、兄と死に関する様々な情報と、焦燥に関するあらゆる感情が、複雑に絡み合っており、しかし結びつく事はない。カルプセスに戻らなきゃ。ラプサーラは落ち葉と柔らかい土に指をついたまま、しかし実際には動けない。

 死んだ。

 死。

 もう会えない。

 では、あれが最後だったというの? カルプセスでデルレイに妹の行き先を託し、踵を返して人ごみに消えて行った、あの後ろ姿を見たのが?

 嘘だ。

 言わなければ。そんなのは嫌だと。さあ、何か言わなければ、馬鹿だと思われるわ。ラプサーラは焦る。唇が震える。頭の中でベリルの言葉が浮かんで消える。戦死した。カルプセスで。敵。魔術。やられた。

「魔術――」

 ラプサーラは、もはや自分が何を思っているかも自覚できぬまま口を開く。

「魔術師がいれば百人力だと――兄さんは言っていたわ――魔術師が一緒だから大丈夫だと――」

 ベリルの頬がさっと赤くなった。申し訳ない事を言ったわと、ラプサーラは鈍麻した頭で思った。そんな悲壮な顔をしないでと思う。やめて。本当に兄さんが死んだみたいじゃない、そんな悲しい顔。

「この人は誰?」

 兄の代わりに立っている、見知らぬ男について尋ねた。ベリルの肩が震える。全く意外な一言だったようで、顔を上げた彼は少しだけ動揺を見せたが、すぐにそれを隠した。

「セルセト人の魔術師だ。名はミューモット。カルプセスで助けてくれた」

 助けて。じゃあ、兄さんの事は? 助けてくれたの?

「お前、星占(ほしうら)だな」

 ベリルとデルレイが目を丸くした。ベリルが尋ねる。

「あんた、何で――」

 伝令が人々を押しのけて馬を走らせる、その叫び声が聞こえた。

「何事だ!」

 伝令は馬から下りず答えた。

「後続の集団が敵弓射部隊の襲撃を受けています!」

 その報告はラプサーラの心に衝撃を与えた。ロロノイの生死に関するベリルの情報より、遥かに直接的で、わかりやすい衝撃だった。

 伝令は各地点に設置されており、最後尾から前方へ、前方から最後尾へと伝達される。

 デルレイは直ちに前進を開始した。山の中の坂道を、石や木の根を跨いで急ぐ。

 行軍が滞る瞬間があった。

 それは峠の、左手側の木々がなくなり、視界が開ける箇所で起きた。

 ラプサーラも思わずその場所で足を止めた。

 蟻のように蠢き逃げ惑う、人間の姿が見えた。先頭集団がとうに通り過ぎてきた道にいた、後部集団に違いなかった。

 左右の支道から、矢の雨が降り注ぐ。

 道には既に人の骸が積み重なり、行く手を塞がれた後続の人々が、為す術なく倒れていく。

 混乱に陥り、敵のいない支道に迷いこんではぐれていく人々も見えた。そっちじゃない、と叫びたかったけれど、渇ききった喉からは、声は出なかった。

「急いでください! 立ち止まらないで!」

 セルセト兵に肩を突かれ、ラプサーラは歩きだした。目を前に戻せば、また森と道しか見えなくなる。殺戮を隠す緑の幕。

 視界は木々に遮られ、じき何も見えなくなった。



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