運命ニ背イテ
文字数 2,735文字
新シュトラトの門は、カルプセスからの難民達を呑みこみ、閉じた。グロズナ兵達はその後も市門の外に居座り続けた。
新シュトラトの下町は、次第にかつてのカルプセスと似た状況になっていった。海に面した新シュトラトには、本国からの物資が運びこまれるが、それが難民達に十分に行き渡ることはなく、ラプサーラの頭上には屋根がない。
ラプサーラは下町の一角で、地べたに布を敷き、その上に座りこんで、占星符をめくっている。
客を呼び占うでもなく、ただ一新に符を切り、並べ、めくるを繰り返しては、時折苦渋に満ちた悲鳴を振り絞り、髪を掻き毟りながら地に伏せる。
「見えない」
と、彼女は喘ぐ。
「未来が見えない!」
同じ死の行軍を続けてきたセルセト人の女が、見かねて彼女に声をかけようとし、しかしかける言葉が見つからず、敷布の前で逡巡する。
「そっとしておきなさい」
老人が女に言った。
「あの子はもう狂っている」
ラプサーラはそんな会話を知らない。カルプセスに残された市民達の皆殺しの報も知らない。あの戦いを生き延びたデルレイが、行軍の過程で多くのカルプセス市民を死なせた咎で軍法会議にかけられることを知らない。ラプサーラは何にも耳を傾けない。全ての神経を血走った目に集め、符を繰り続ける。
「みんな死ぬ……みんな死ぬ……」
セルセトの星占の言葉は、誰の耳にも届かない。
彼女は事実だけを呟く。
彼女は結果だけを呟く。
「みんな死んで、星も消える……」
※
その後も、新シュトラトには度々難民達が押し寄せた。統率するのはペニェフやセルセトの敗残兵であり、あるいはそれすらない、ただの無力な一団であった。
彼らは新シュトラトを前にして、為すすべなく叩き潰され、打ち捨てられ、草原で腐っていった。ペニェフの義勇軍は次第に消耗し、力を失っていく。
セルセト軍は動かない。
業を煮やしたペニェフ達は、群れをなして町を練り歩き、セルセト軍の出動を求め抗議した。または市庁に石を投げたり、堀に飛びこんで泳いで入りこもうとした。あるいは暴動に紛れて略奪を働く者もいた。セルセト軍は、暴動を制圧する時にだけ動いた。その事が更にペニェフ達を怒らせた。
行方不明となった難民達は、廃墟の旧シュトラトに連れこまれている様子だった。新シュトラトを囲む壁からは、旧シュトラトを赤々と照らす数え切れぬ火が見える。時折投石器が運ばれては、新シュトラトの市内に向けて生首が投げこまれた。
生首が投げこまれる度、ラプサーラは動いた。
「お兄ちゃん?」
彼女は覚束ない足取りで、ひしゃげて街路にのめりこむ生首のもとにたどり着く。いつも、必ずたどり着く。
「お兄ちゃん」
両手を生首の髪に差し入れて、拾い上げ、顔を見る。跪く彼女はいつもと同じ落胆と憐れみを胸に、生首を抱きしめる。
「お兄ちゃんじゃない……」
靴底と石畳の間で砂を軋ませながら、誰かが背後に立つ。
「お前の兄はカルプセスで死んだ。こんな所に生首が投げこまれるはずがない」
ラプサーラは生首を抱く腕の力を緩めた。彼女は狂ってはいなかった。その恰好が狂気に見えても、狂ってはいない、まだ。
「ラプサーラ。何故、お前は占星符を捲る? 何を探している? 何の答えを求めている?」
「未来が見えないから」
手短に答えてから、背後に立つ中年の魔術師に続ける。
「かつて、世界は無数の相に分かたれた。その全てを俯瞰する神々に、世界は取りまとめられていた。……その神が消えた」
「消えただと」
「はい。占星符が示す神の不在は、世界の、少なくとも、無数の相に分かたれた現在の有り様の終焉を意味します。それより、教えて」
ラプサーラは抱きしめていた生首を地面に置き、振り向いた。
「本当の事を教えて、ミューモット。あなたは何者なの? 何をしに来たの?」
「お前を殺しに来た」
さも何でもないように、ミューモットは告げた。ラプサーラはただ反応に困り、跪いたまま、ミューモットの顔を見上げている。
「今から俺が言う事を、お前が信じる必要はない。狂人の戯言だとでも思って聞け」
呼吸一つ分の間を置く。
「俺はお前を殺した、リディウ。リディウと呼ばれていた頃のお前を」
「リディウ? 何の事?」
「前 の世、お前は生まれた意味を果たす事がなかった。そうする事を俺が阻んだからだ、占星符の巫女。人の世から隠れし滅びの歌劇の役者。俺はそうして生きてきた。神が選びし役者を殺し、世界の余生を引き延ばす為に」
「歌劇――」
「『我らあてどなく死者の国を』。第一幕の上演によって水相を没落せしめ、未だ神々が第二幕の上演を心待ちにしている歌劇。知らぬはずはあるまい」
ラプサーラは青白い、どんよりした表情のままかぶりを振る。
「信じられない……」
「言ったはずだ、信じる必要はない」
ミューモットはラプサーラから視線を逸らし、腕組みし、解いた。
「……いずれ来る全ての相の収縮が世界のさだめであるなら、それに抗い役者たちを殺して回る自分の存在は、本来許されるべきではなかった。神々が、人間が信じるほど絶対的で、杓子定規な存在なら。だが、俺は生きた。生きる事ができた。どういう事かわかるか。俺が、人が、生きて何をしようとも、所詮は神の手の上で遊んでいるに過ぎないという事だ」
ラプサーラは何も考えずに頷く。
「それで、私を殺すの?」
「いいや」
「何故」
「何をして生きても同じなら、背負わされた運命を捨てる。もはや俺を見張る、遠い相、遠い時代のセルセト国の王族と魔術師達の目もない。俺はあまりにも遠くに来た。相を越え、時を越えて、実際に、自分が何年の時を生きたか分からなくなるほど」
「どうするの、私を殺さないなら」
「運命を捨て、それでもまだ生きる事が許されるなら、また会おう」
ミューモットは背を向けた。
「セルセト軍がジェナヴァの軍港に集結している。いよいよこのナエーズに来る」
広い背中である。黒いダガーを隠した背中である。
「戦ってみせよう。セルセト国の為ではない。ラプサーラ、もはやお前を守ってみる為でもない。ただ単に自分の身を守る為だ。自分が誰かを知る為に」
去って行く。歩いて行く。背中が遠ざかる。
二度と彼に会う事はない。予感だけが確かだった。
ラプサーラは深々と溜め息をついた。足許の生首に目を落とす。
通りに人が戻って来た。ペニェフの聖職者たちが、生首を拾い上げ、白布に包み、持ち去って行く。
新シュトラトの下町は、次第にかつてのカルプセスと似た状況になっていった。海に面した新シュトラトには、本国からの物資が運びこまれるが、それが難民達に十分に行き渡ることはなく、ラプサーラの頭上には屋根がない。
ラプサーラは下町の一角で、地べたに布を敷き、その上に座りこんで、占星符をめくっている。
客を呼び占うでもなく、ただ一新に符を切り、並べ、めくるを繰り返しては、時折苦渋に満ちた悲鳴を振り絞り、髪を掻き毟りながら地に伏せる。
「見えない」
と、彼女は喘ぐ。
「未来が見えない!」
同じ死の行軍を続けてきたセルセト人の女が、見かねて彼女に声をかけようとし、しかしかける言葉が見つからず、敷布の前で逡巡する。
「そっとしておきなさい」
老人が女に言った。
「あの子はもう狂っている」
ラプサーラはそんな会話を知らない。カルプセスに残された市民達の皆殺しの報も知らない。あの戦いを生き延びたデルレイが、行軍の過程で多くのカルプセス市民を死なせた咎で軍法会議にかけられることを知らない。ラプサーラは何にも耳を傾けない。全ての神経を血走った目に集め、符を繰り続ける。
「みんな死ぬ……みんな死ぬ……」
セルセトの星占の言葉は、誰の耳にも届かない。
彼女は事実だけを呟く。
彼女は結果だけを呟く。
「みんな死んで、星も消える……」
※
その後も、新シュトラトには度々難民達が押し寄せた。統率するのはペニェフやセルセトの敗残兵であり、あるいはそれすらない、ただの無力な一団であった。
彼らは新シュトラトを前にして、為すすべなく叩き潰され、打ち捨てられ、草原で腐っていった。ペニェフの義勇軍は次第に消耗し、力を失っていく。
セルセト軍は動かない。
業を煮やしたペニェフ達は、群れをなして町を練り歩き、セルセト軍の出動を求め抗議した。または市庁に石を投げたり、堀に飛びこんで泳いで入りこもうとした。あるいは暴動に紛れて略奪を働く者もいた。セルセト軍は、暴動を制圧する時にだけ動いた。その事が更にペニェフ達を怒らせた。
行方不明となった難民達は、廃墟の旧シュトラトに連れこまれている様子だった。新シュトラトを囲む壁からは、旧シュトラトを赤々と照らす数え切れぬ火が見える。時折投石器が運ばれては、新シュトラトの市内に向けて生首が投げこまれた。
生首が投げこまれる度、ラプサーラは動いた。
「お兄ちゃん?」
彼女は覚束ない足取りで、ひしゃげて街路にのめりこむ生首のもとにたどり着く。いつも、必ずたどり着く。
「お兄ちゃん」
両手を生首の髪に差し入れて、拾い上げ、顔を見る。跪く彼女はいつもと同じ落胆と憐れみを胸に、生首を抱きしめる。
「お兄ちゃんじゃない……」
靴底と石畳の間で砂を軋ませながら、誰かが背後に立つ。
「お前の兄はカルプセスで死んだ。こんな所に生首が投げこまれるはずがない」
ラプサーラは生首を抱く腕の力を緩めた。彼女は狂ってはいなかった。その恰好が狂気に見えても、狂ってはいない、まだ。
「ラプサーラ。何故、お前は占星符を捲る? 何を探している? 何の答えを求めている?」
「未来が見えないから」
手短に答えてから、背後に立つ中年の魔術師に続ける。
「かつて、世界は無数の相に分かたれた。その全てを俯瞰する神々に、世界は取りまとめられていた。……その神が消えた」
「消えただと」
「はい。占星符が示す神の不在は、世界の、少なくとも、無数の相に分かたれた現在の有り様の終焉を意味します。それより、教えて」
ラプサーラは抱きしめていた生首を地面に置き、振り向いた。
「本当の事を教えて、ミューモット。あなたは何者なの? 何をしに来たの?」
「お前を殺しに来た」
さも何でもないように、ミューモットは告げた。ラプサーラはただ反応に困り、跪いたまま、ミューモットの顔を見上げている。
「今から俺が言う事を、お前が信じる必要はない。狂人の戯言だとでも思って聞け」
呼吸一つ分の間を置く。
「俺はお前を殺した、リディウ。リディウと呼ばれていた頃のお前を」
「リディウ? 何の事?」
「
「歌劇――」
「『我らあてどなく死者の国を』。第一幕の上演によって水相を没落せしめ、未だ神々が第二幕の上演を心待ちにしている歌劇。知らぬはずはあるまい」
ラプサーラは青白い、どんよりした表情のままかぶりを振る。
「信じられない……」
「言ったはずだ、信じる必要はない」
ミューモットはラプサーラから視線を逸らし、腕組みし、解いた。
「……いずれ来る全ての相の収縮が世界のさだめであるなら、それに抗い役者たちを殺して回る自分の存在は、本来許されるべきではなかった。神々が、人間が信じるほど絶対的で、杓子定規な存在なら。だが、俺は生きた。生きる事ができた。どういう事かわかるか。俺が、人が、生きて何をしようとも、所詮は神の手の上で遊んでいるに過ぎないという事だ」
ラプサーラは何も考えずに頷く。
「それで、私を殺すの?」
「いいや」
「何故」
「何をして生きても同じなら、背負わされた運命を捨てる。もはや俺を見張る、遠い相、遠い時代のセルセト国の王族と魔術師達の目もない。俺はあまりにも遠くに来た。相を越え、時を越えて、実際に、自分が何年の時を生きたか分からなくなるほど」
「どうするの、私を殺さないなら」
「運命を捨て、それでもまだ生きる事が許されるなら、また会おう」
ミューモットは背を向けた。
「セルセト軍がジェナヴァの軍港に集結している。いよいよこのナエーズに来る」
広い背中である。黒いダガーを隠した背中である。
「戦ってみせよう。セルセト国の為ではない。ラプサーラ、もはやお前を守ってみる為でもない。ただ単に自分の身を守る為だ。自分が誰かを知る為に」
去って行く。歩いて行く。背中が遠ざかる。
二度と彼に会う事はない。予感だけが確かだった。
ラプサーラは深々と溜め息をついた。足許の生首に目を落とす。
通りに人が戻って来た。ペニェフの聖職者たちが、生首を拾い上げ、白布に包み、持ち去って行く。