変異
文字数 2,397文字
黒く波打つ海が岸を洗う小島で三点鐘 が鳴ると、神殿の門前に折り重なる死者達が一斉に身を起こす。
陰鬱な響きが沖の彼方に消える頃には、死者達はめいめい弓と槍を持ち、それぞれの持ち場についている。
それまで警備についていた死者達は、入れ替わるようにその場に倒れ伏す。
この海上神殿に明けない夜が訪れて以来、鐘の音だけが時を告げ、死者達は鐘だけを頼みに意思なき行動を続けていた。
神殿の裏の洞窟では、やはり物言わぬ死者達が、魚の脂を搾る作業を続けていた。
朽ちた手がもげ落ち、労働できなくなった死者があると、他の死者達が崖の上からその骸を海に突き落とした。そして、稀に沖から流されてくる死者があると、迎えて仲間にした。
神殿の内部では、八つの礼拝所と八十八の部屋で黄鉄鉱が打ち鳴らされ、不条理な力に支配された骸骨たちが魚の脂のランプに火を入れた。
その明かりによって、一人の青年が目を覚ます。青年は根と伏流の神ルフマンに奉仕する神官の衣 に身を包み、青白い顔に半月の光を集め、目には起きぬけとは思えぬ鋭い光をらんらんと輝かせていた。
青年は骸骨が捧げ持つランプを受け取ると、火の中に砕いた蛍石を投じた。濃い紫の燐光が、青年の姿を包んだ。青年は天蓋つきのベッドを離れ、寝室を出た。いつも通りの、彼の無益な一日の始まりだった。
彼はまず、書庫に向かった。何に使われる事もない知識を蓄える為に、彼は一日の大半を書庫で費やすのだった。
途中の廊下で、彼は異変を感じ足を止めた。
何かが違う。
違和感の源へ、彼の眼はまっすぐ吸い寄せられた。
月が、満ち始めている。
「誰 れかあれ」
張り詰めた声が廊下に響くと、前後の闇から青い鬼火を纏う亡霊たちが引き寄せられてきた。
「月を見よ」
青年は窓にランプを掲げた。
「永遠 に変わらぬと思われたこの夜の半月が満ちつつある。故 を知る者はおらぬか」
「我には門しか見えぬ」
目のない亡霊が答えた。
「開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない。慈悲を乞えど、押し寄せる波の音を海に打ち返すばかりの高い門。ああ」
「闇さえも押し潰すとう沈黙にも寄せ来る、揺らめくものを感じます。神々も沈黙を守りはすまい」
輪郭を失いかけた亡霊が、次いで答えた。
「揺らめくものとは何ぞ」
「わかりませぬ。私には見えませぬ。炎に似て炎にあらぬものを、ただ感じるのみに御座います」
「よかろう」
青年はランプを下ろした。
「以後、神殿に僅かでも異なる気配があれば、ただちに我に報じるよう皆に申し伝えよ」
亡霊たちが闇に消え失せた後、彼は踵を返し、神殿の最上階に向かった。
そこは唯一屋根のない礼拝所であった。月と星の下で、巨大な水晶の群晶が、青年の背丈より遥か高く聳えていた。青年は骸骨の番兵を下がらせて、群晶の前に立った。水晶の中には煙が渦巻き、不思議な様相を見せていた。全身の皮膚がざわつき、とりわけ額が強く疼いた。青年は水晶の中の煙に意識を集中した。
「我が父、根と伏流の神ルフマンよ、今日こそ我が声にお応えくだされ」
青年は縋るように言った。水晶の中の煙は大小の渦を巻くばかりで、何の変化もなかった。青年は待った。しかし煙の様相が変わりを見せず、また肌に触れる感触も、頭内 に囁く声もないと知るや、諦めて水晶の礼拝所を立ち去ろうした。
すると、ある気配が、彼を呼び止めた。
「ヴェルーリヤ!」
煙が割れ、水晶の中に老人の顔が大きく映し出された。老人は白銀の瞳で青年を見つめ、白銀の髭に覆われた口に意図のわからぬ笑みを浮かべていた。
「変わらず退屈をしておるようだな」
青年・ヴェルーリヤは憎しみと苛立ちをこめた目で、水晶の中の顔を睨んだ。
「貴様など呼んでおらぬ。招かれざる亡霊よ、疾 く神殿から立ち去れ!」
「お前の神聖な領域で起きている事を知りたいのではないのかね?」
挑発的な声に、ヴェルーリヤは唇を強く結んだ。
「相 の領界が揺らいでおるな。木相 で派手な戦が行われておる」
「ここ石相との領界に異変を来すほどの戦であるのか」
「木相で、偉大なる渉相術 師が死んだ」
声は応じた。
「その者の最後の術が行われた余波が及んだのだろう。波は大きなうねりへと育ちながら他の相へ広がりゆく。石相、木相といった単位の話では収まるまいな」
ヴェルーリヤは眉間に皺を刻んで、言葉の意味を吟味した。
相は人間に認知可能な現実の範囲であるが、相の上級単位として、階層が存在する。
「人間ごときの為した術が、階層単位の異変をもたらすと申すか」
「あまり人間を侮るでないぞ。お前が神聖かつ不変と信じておるこの神殿もその波を被 り、必ずや変化が訪れる」
「私は如何なる変化も許さぬ」
ヴェルーリヤは老人の顔を一層きつく睨みつけた。
「神殿の静寂と平穏を乱す者は何人 であろうと許さぬ。私は父の名に懸けて神殿を守ろうぞ」
「父の名に懸けて、か」
老人は嘲るように笑った。
「それで、どうするのだ、ヴェルーリヤ。永劫にこの神殿に閉じこもり、不変の夜の静寂に身を委ね、どうするというのだ?」
「黙れ」
「外界のうねりは大きいぞ。多くの人間が死ぬぞ?」
「黙れ!」
ヴェルーリヤは耳を覆った。
「黙れ。私の知った事か。人間など、みな滅べばよいのだ!」
老人は口から大きな嘲笑を放った。ヴェルーリヤが固く目を閉じ、耳を塞いでも、その声は容赦なく彼の鼓膜を打ち、心を打った。
やがて、顔は煙の中に消えていった。ヴェルーリヤは群晶の前に跪き、力なく手で顔を覆った。
陰鬱な響きが沖の彼方に消える頃には、死者達はめいめい弓と槍を持ち、それぞれの持ち場についている。
それまで警備についていた死者達は、入れ替わるようにその場に倒れ伏す。
この海上神殿に明けない夜が訪れて以来、鐘の音だけが時を告げ、死者達は鐘だけを頼みに意思なき行動を続けていた。
神殿の裏の洞窟では、やはり物言わぬ死者達が、魚の脂を搾る作業を続けていた。
朽ちた手がもげ落ち、労働できなくなった死者があると、他の死者達が崖の上からその骸を海に突き落とした。そして、稀に沖から流されてくる死者があると、迎えて仲間にした。
神殿の内部では、八つの礼拝所と八十八の部屋で黄鉄鉱が打ち鳴らされ、不条理な力に支配された骸骨たちが魚の脂のランプに火を入れた。
その明かりによって、一人の青年が目を覚ます。青年は根と伏流の神ルフマンに奉仕する神官の
青年は骸骨が捧げ持つランプを受け取ると、火の中に砕いた蛍石を投じた。濃い紫の燐光が、青年の姿を包んだ。青年は天蓋つきのベッドを離れ、寝室を出た。いつも通りの、彼の無益な一日の始まりだった。
彼はまず、書庫に向かった。何に使われる事もない知識を蓄える為に、彼は一日の大半を書庫で費やすのだった。
途中の廊下で、彼は異変を感じ足を止めた。
何かが違う。
違和感の源へ、彼の眼はまっすぐ吸い寄せられた。
月が、満ち始めている。
「
張り詰めた声が廊下に響くと、前後の闇から青い鬼火を纏う亡霊たちが引き寄せられてきた。
「月を見よ」
青年は窓にランプを掲げた。
「
「我には門しか見えぬ」
目のない亡霊が答えた。
「開かぬ門。叩けども叩けども応じる者はない。慈悲を乞えど、押し寄せる波の音を海に打ち返すばかりの高い門。ああ」
「闇さえも押し潰すとう沈黙にも寄せ来る、揺らめくものを感じます。神々も沈黙を守りはすまい」
輪郭を失いかけた亡霊が、次いで答えた。
「揺らめくものとは何ぞ」
「わかりませぬ。私には見えませぬ。炎に似て炎にあらぬものを、ただ感じるのみに御座います」
「よかろう」
青年はランプを下ろした。
「以後、神殿に僅かでも異なる気配があれば、ただちに我に報じるよう皆に申し伝えよ」
亡霊たちが闇に消え失せた後、彼は踵を返し、神殿の最上階に向かった。
そこは唯一屋根のない礼拝所であった。月と星の下で、巨大な水晶の群晶が、青年の背丈より遥か高く聳えていた。青年は骸骨の番兵を下がらせて、群晶の前に立った。水晶の中には煙が渦巻き、不思議な様相を見せていた。全身の皮膚がざわつき、とりわけ額が強く疼いた。青年は水晶の中の煙に意識を集中した。
「我が父、根と伏流の神ルフマンよ、今日こそ我が声にお応えくだされ」
青年は縋るように言った。水晶の中の煙は大小の渦を巻くばかりで、何の変化もなかった。青年は待った。しかし煙の様相が変わりを見せず、また肌に触れる感触も、
すると、ある気配が、彼を呼び止めた。
「ヴェルーリヤ!」
煙が割れ、水晶の中に老人の顔が大きく映し出された。老人は白銀の瞳で青年を見つめ、白銀の髭に覆われた口に意図のわからぬ笑みを浮かべていた。
「変わらず退屈をしておるようだな」
青年・ヴェルーリヤは憎しみと苛立ちをこめた目で、水晶の中の顔を睨んだ。
「貴様など呼んでおらぬ。招かれざる亡霊よ、
「お前の神聖な領域で起きている事を知りたいのではないのかね?」
挑発的な声に、ヴェルーリヤは唇を強く結んだ。
「
「ここ石相との領界に異変を来すほどの戦であるのか」
「木相で、偉大なる
声は応じた。
「その者の最後の術が行われた余波が及んだのだろう。波は大きなうねりへと育ちながら他の相へ広がりゆく。石相、木相といった単位の話では収まるまいな」
ヴェルーリヤは眉間に皺を刻んで、言葉の意味を吟味した。
相は人間に認知可能な現実の範囲であるが、相の上級単位として、階層が存在する。
「人間ごときの為した術が、階層単位の異変をもたらすと申すか」
「あまり人間を侮るでないぞ。お前が神聖かつ不変と信じておるこの神殿もその波を
「私は如何なる変化も許さぬ」
ヴェルーリヤは老人の顔を一層きつく睨みつけた。
「神殿の静寂と平穏を乱す者は
「父の名に懸けて、か」
老人は嘲るように笑った。
「それで、どうするのだ、ヴェルーリヤ。永劫にこの神殿に閉じこもり、不変の夜の静寂に身を委ね、どうするというのだ?」
「黙れ」
「外界のうねりは大きいぞ。多くの人間が死ぬぞ?」
「黙れ!」
ヴェルーリヤは耳を覆った。
「黙れ。私の知った事か。人間など、みな滅べばよいのだ!」
老人は口から大きな嘲笑を放った。ヴェルーリヤが固く目を閉じ、耳を塞いでも、その声は容赦なく彼の鼓膜を打ち、心を打った。
やがて、顔は煙の中に消えていった。ヴェルーリヤは群晶の前に跪き、力なく手で顔を覆った。