文字数 3,455文字

 窓から射しこむ光が刻々と角度を変える中で、リディウは男と黙って凝視しあった。彫りの深い顔立ちで、肌の色は濃い。歳は、三十辺りだろうか。リディウは柱の陰から出て、声をかけた。

「どちらから、お見えになられたの?」

 男は掌の炎を消した。掌をマントにこすり付けるような仕草をし、きまり悪そうにそっぽを向いて、
「セルセト国から」
 と、低い声で答えた。

「どの相のセルセト国から」
 リディウは尋ね返した。
「発相におけるセルセト国は、五百年前に凍りつきました。ここタイタス国との終わらない冬戦争によって」

 男は黙りこむ。

「高位魔術……渉相術(しょうそうじゅつ)の使い手ですね?」
 柱に手を添え、リディウは一歩、男に歩み寄った。
「あなたは何に導かれて、ここまでいらしたのでしょう」

「導かれて? 何故そのように思う」
「あなたが、何故私がこのような場所にいるのかをお尋ねにならないからです。私は私の必然によってこの場所に導かれた。あなたもそうであるから、私の存在を不思議に思わないのではありませんか?」
「……お前は生贄だな。発相では歌劇の力を得た代償として役者を求められると聞く」
「はい。私は神に差し出された身の上。あなたも何らかのお導きにより、この山深くの大聖堂図書館に到達めされたのならば――」
「俺は神の役者にはならんぞ」

 言葉を遮られたリディウは、はっとして目を上げた。男の表情は険しい。男はリディウの緊張に気付くと、溜め息をついて力を抜き、頭を軽く左右に振った。

「ミューモットだ」
 男は立ち尽くしているリディウに苛立ち、言葉を重ねる。
「名前だ。お前の名は何だ」
「リディウと申します」
「念の為聞くが、一人か」
「はい」

 ミューモットと名乗る男は頷きながら歩きだし、リディウとすれ違って、エントランス正面の両開きの扉に歩いて行った。リディウは後を追った。

 ミューモットが扉を開けた。

 天井が高い部屋だ。ネメスの神殿の、三階分の高さはあるだろう。壁には頭上から天井付近まである細長い窓が並び、心もとない夜明けの光でも十分に明るい。床には埃一つなく、チョークで円陣が描かれ、それを描いた人間の気配さえ残っているようであった。

「時が切り離されたな」
 リディウはミューモットの顔を見上げ、無言のまま視線で意味を問うた。
「歌劇の上演が行われた水相の歌劇場は、その魔力によって時を奪われた。結果、連続した時間が流れる水相から切り離された。それと同じ効果が一度、この部屋にももたらされたようだ」

 リディウは部屋に入り、朝の光の中で両腕を広げた。天井を仰ぐと、そこにも床と合せ鏡になるように円陣が描かれていた。

「あなたの仰る通り、歌劇場は連続した時が流れる全ての相から切り離された。それゆえ歌劇場の在り処は、時の流れに依存する人間の意識には決して現実として認識できない領域に存在すると伝えられております。それで、この部屋の時が切り離されたとは? 私達はこの部屋を、現実に存在するものとして認識できているではありませんか」

「切り離されたのは」
 ミューモットも部屋に入ってくる。
「ある一区切りの時間だけだ。水相で歌劇の上演が行われた時間帯に関係しているかもな。勘だが」
「何故あなたに、そのような事がおわかりになるのです?」
「経験と場数だ。魔術の残滓が教える。不自然な時の流れ、断絶された流れ、ここには『いつでもなかった時間』があると」

 この男は渉相術の使い手だ、と、リディウはすれ違うミューモットの背を見て、改めて考えた。他の相へ(わた)る力の代償として、相は時間を支払う。この男は、常人にはない、時に対する特殊な感受性を持っているのだろう。
 ミューモットは部屋の奥の小さな扉を開けた。その先の廊下を歩きながら、彼はまた口を開く。

「お前の言う通りだ。歌劇場は人間には現実として認識できない領域にある。どの相にも存在しない一方、どの相も歌劇場を顕現しうる可能性を秘めている」
「私は歌劇場に行かなければなりません。ここから」
 リディウは後をついて行く。
「必ず」
「お前は歌劇の何を知っている?」

 中庭を巡る白亜の回廊に出た。回廊を、北の棟に渡りながら、リディウは小走りになってミューモットを追い抜いた。

「多くは知りません。この大聖堂図書館で書かれたという事以外は。大聖堂図書館についてなら多少の知識はあります。ここに来る以前に何度も見取り図に目を通しましたから」

 渉相術の間の奥の扉から回廊に出、北の棟に渡って最初に行き当たる部屋。その部屋の扉を、リディウは迷いなく開ける。

「〈星図の間〉です。水相に凋落をもたらした歌劇は、託宣を受けたネメスの巫女により、この部屋で書かれました」
「書かせた神は?」
「死の神ネメスとする説が多数派です。陰陽と調和の神レレナであるとする説も少数ですがあります」
「その両方である可能性は?」
「歌劇は二部構成になっておりますので、その可能性は考えられます。一部ずつレレナとネメスが書かせたと」
「実際にペンを執った巫女ははっきりした事を伝えなかったのか」
「巫女は何も語らず亡くなりました」

 そこはあまり日が射さない、小さな机が一台あるだけの狭い部屋だった。

「歌劇の内容や書かれた経緯を知る者は、その巫女だけではあるまい」
「みな、亡くなりました」
 リディウは部屋の真ん中で、ミューモットに語る。
「その巫女も多数の神官も、そしてタイタスの都の王も、歌劇の内容を知る者は、みな塩になりました。歌劇の力が及んだ水相の陸地と同様に」
「それほどの滅びの力を秘めた歌劇のために、何故また発相では役者が集められなければならない?」
「歌劇が、第一幕の上演のみで水相を没落せしめたからです。人は歌劇の力を恐れ、第二幕を封印した。しかし神々は第二幕の上演をお望みです。その為の役者が必要です」
「上等だ」

 その言葉に戸口のミューモットを振り向くと、彼は皮肉っぽい笑みを唇に浮かべ、挑発的な目でリディウを見ていた。
 歌劇について、この男に語っていたのではない、語らされていたのだ。つまりこの男に試されたのだと悟り、リディウは不愉快になった。

「歌劇場に行かなければならない、と言ったな」
 ミューモットも星図の間に入ってきた。
「まるで生贄が自力でそうしなければならないような言い方だが、神が自ら選んだ生贄ならば、それを迎えには来ないのか?」
「私は」

 リディウは、歌劇の執筆が行われたという白塗りの机に寄り、指を添えた。

「……私の世話役の神官が、生贄を育てるのが私で三人目であると知った時、奇妙に思ったのです。何故立て続けにネメスの都から、贄が選ばれなければならぬのか。私は十四を迎えた日から、少しずつ調べました」
「そしたら?」
「私も、私の前の贄も、その前の贄も、ネメスの託宣により与えられた役は〈占星符の巫女〉であった事がわかりました」

 ミューモットは腕を組み、深刻な表情で話を聞いている。リディウは続けた。

「ネメスの星は贄の選定までしかしません。贄は自力で神々のお気に召す役者となり、歌劇場への招待を得なければならない。私はそう推測いたします。もしも私が贄としての役を果たせなければ、またもネメスから新たな〈占星符の巫女〉が選ばれるでしょう」
「神官達がそう言ったのか」
「いいえ。ネメスの神官達は口を閉ざしました。そして私の推測を誰一人として否定しませんでした」
「相応しくない娘たちは、歌劇場にたどり着けなかったのならネメスの都に帰ってもよかった筈だ」

 リディウは顔を強張らせた。

「お前も当然一度はそういう疑問を抱いた筈だ」

 ミューモットが部屋の奥に歩いて行く。

「来てみろ」
 彼は部屋の物入れの戸に手をかけた。
「神官達が誰も答えなかったのなら、答えはこういう事だろうな」

 物入れの戸が、勢いよく引かれた。

 その先の空間は、物入れではなかった。

 冷たい山の風が、室内に吹きこんできた。

 向かいの山肌が、リディウが立つ位置からでも見える。
 リディウは震える足で戸に歩み寄った。

 戸の先は断崖になっていた。

 朝日が、消え残った夜を打ち払わんとその光輝を増して、深い谷へ、谷の底へ、光の矢を伸ばしていく。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み