第14話  N.77 、偽りの観念。 その①。

文字数 4,841文字

77. ‘I’ and ‘Mine’ are False Ideas
 「わたし」そして「わたしの」、是れらは、間違った観念だ…。


Questioner:
I am very much attached to my family and possessions.
How can I conquer this attachment?

質問者:
私は、家族や財産に対しての、強い執着を覚えます。
この執着を乗り越えるためには、どうすればよいでしょうか?

Maharaj:

This attachment is born along with the sense of ‘me’ and ‘mine’.
Find the true meaning of these words and you will be free of all bondage.

この執着/愛着というものは、「私」とか「私のもの」といった感覚と一緒に生まれる。
これらの言葉が持つ、真実の意味を探してみなさい。
そうすれば、すべての束縛から、自由になる。

You have a mind which is spread in time.
One after another all things happen to you and the memory remains.
There is nothing wrong in it.

あなたは、時間の中で広がりにおいて、展開する心(マインド)なるものを持っている。
次々といろんなこことがあなたに起こる。そして記憶として(そのマインドに)残る。
そこに問題は何もない…。

The problem arises only when
the memory of past pains and pleasures ―
which are essential to all organic life ―
remains as a reflex,
dominating behaviour.

過去に経験された〈痛み/苦しみ〉そして〈喜び/快感〉、それらは有機生命体とって
必須なのだが、この記憶(情報)によって条件反射が(マインド内に)形成されてしまう。
そして(以後)その行動パターンが支配的となってしまう。

問題は、(こうなってしまった)時

に現れてくる。(*1)


This reflex takes the shape of ‘I’ and uses the body and the mind for its purposes,
which are invariably in search for pleasure or flight from pain.

この条件反射は「私」といった形態をとる。
そして、それの目的において、身体と心(マインド)を使う。

常に、快なる/喜なることを追求する…、もしくは、
痛み/苦しみを、もたらすものからの逃避といった目的において。

When you recognise the ‘I’ , as it is, a bundle of desires and fears, and the sense of ‘mine’,
as embracing all things and people needed for the purpose of avoiding pain and securing pleasure,
you will see that the ‘I’ and the ‘mine’ are false ideas, having no foundation in reality.
Created by the mind, they rule their creator as long as it takes them to be true;
when questioned, they dissolve.

あなたが、「私」(自分)を、強く意識する時とは、
なんらかの想定される痛み/苦しみ/恥辱を避けるためにか、
もしくは、日常として身近にある安逸/安楽/快感に留まるためには必要とされる、
すべての物品、関係するすべて人々を抱きしめる時なのだ。

それの ”あるがまま” とは、欲望としての情動の束、恐怖心の塊、
私のも〜の!」として現れてくる絶対的な感覚なのだ。

が分かれば、あなたは理解する。

「私」そして「私の」は、誤った観念であることを。

それらは、現実には、なんの根拠も持ってはいない。

心(マインド)によって創りだされた、ただの観念、実体のない思い込みでしかない。

それらが(あなたという)創造主を支配する。

創造主たるあなたが、それらをリアルだと思う限りにおいては。

一旦、その真実性が問われたならば…、それらは溶け去ってしまうこととなる。

(非在の彼方の元へと立ち去る。)

The ‘I’ and ‘mine’, having no existence in themselves,
need a support which they find in the body.
The body becomes their point of reference.

「私」と「私の」は、それら自体の成立において、
単独では存在し得ないが故に、なんらかのサポートを必要とする。

それらは、体(ボディー)という器を見つける。
体(ボディー)が、それらに ” 型どり”(点的存在)を与える根拠となる。(*2)

When you talk of ‘my’ husband and ‘my’ children,
you mean the body’s husband and the body’s children.
Give up the idea of being the body and face the question: Who am l?
At once a process will be set in motion which will bring back reality, or,
rather, will take the mind to reality.
Only, you must not be afraid.

あなたが 「私の夫」と「私の子供」を話しだせば、
それは体にとっての夫、とか体においての子供を意味する。

ならば、まずは、自分が体であるという考えはうちゃっておいて、

次の質問に

答えてみなさい:

『私とは誰なのか?/私は一体何なのか?/私は何処から来たのか?』

すぐにプロセスが実行へと移されて開始される。

それは、あなたに現実を取り戻どさせる。

もしくは、あなたの心を、現実と地続きなものとする。

ただ、恐れを抱いてはならない。

*(暗に死への恐怖のことが念頭に置かれている。)


Q: What am I to be afraid of?
 私が一体何を恐れるというのですか?


M: For reality to be, the ideas of ‘me’ and ‘mine’ must go.
They will go if you let them.
Then your normal natural state reappears,
in which you are neither the body nor the mind,

M:現実を到来せしめるためには、

「私に」「私を」「私が」そして「私の」…これらの観念は去らねばならない。

あなたが、それを許すならば、それらは去る。

すると、あなたにとって、正常にして自然と呼べる状態が再び現れてくる。

つまり、あなた自身、そのものは、体でも心(マインド)でもないのだ。

neither the ‘me’ nor the ‘mine’,
but in a different state of being altogether.

It is pure awareness of being,
without being this or that,
without any self-identification with anything in particular,
or in general.

「私」でも「私の」などではなく、

全く違う状態で、すべては一緒に/一緒くたになって存在している。

それは純粋な 存在の 意識/感覚だけなのだ。

それは、これであるとか、あれであるとかはない。

自己に関わる、いかな識別もない。特別にも、一般的にでも。

In that pure light of consciousness there is nothing,
not even the idea of nothing.
There is only light.

自己の意識は純粋な光の中にあって、他にはもう何もない。

ないという観念さえ(もう無用となる)…。

そこは、ただ光だけなのだ。


〈続く〉



ここまでで四分の一ほど。



*1
習慣化、癖の形成の話し。
ネガティブ/ポジティブ・レインフォースメント(強化)にも関わる。
これは基本避けられない。人生において洗練されてゆき強固に根ずいてしまう。

(ドラッグ)の話はするまでもなく、立派だ正しいの行いも、社会的懲罰への


それを支えているだけかも知れない。いや実はそうなのだ。
褒められたいからとか、賞賛を得たいが為とか、ポストにつき続けたいからとか…。

ある時期がきたら、こういった癖から脱することが課題とされる。
自然が(神が)、自然と、その向きへと、個人が向かわざるを得ない状況を準備される。

そうなると、天分としてのアドバンテージはそのマイナス面が強調されてくるようになる。
かっての強みに頼って、これの突破はできないようになっている。

自動性から自由になることが課題なのだ。不幸の起こる理由その訳とも言えるかも。
肉体の死が訪れる前に絶対果たす必要のある課題。
発芽(つまりは殻を破る)が、この生における必達のミッションなのだ…。


*2

ここを深掘りすることが、わてクチの個人的な課題。
虚霊は何処からくるのか?。無いものが無いところの何処から来るのだ?。
経験者は粘着する…。

ここには悪魔と呼ばれるものの起源、その正体も(わずかだが)語られていると思う。
闇は光を理解せずの理由だ。
マンガや創作文、芸術の中、そして思想の中も、存在立脚のフィールド足り得るのでしょう。


またねー。




蛇足:


人から何かをもらったならば、ありがとうを言いなさい。
こういった子供達に対する機械的な躾を見たならば、Gは酷く憤った。

人の好意に触れたならば、自然と触発されて反応してくる部分が間違いなくある。
これの自由な表現として、自然な発露として感謝とはあるべきだとして。

核心的な部分はそっちのけで、機械性によってこれが覆われる封じられてしまうことが問題。
むしろ、それこそが、各自の人生を真に導く責任ある主体であるとして
自由度/強度を増すべく教育は行われて然りなのだ。

それとは、良心、真心、本質、魂、等で呼ばれる何か。





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