第45話  本稿⑪

文字数 11,876文字



偶然見つけた絵になる。この自分に向けて

して備えられていたものであることは確か。正体の知れぬ動物(アザラシ?豚?)の死骸が手前に見える。地としてのものは市松模様の床。それが広がってあって、背景には荒々しくして、無骨い岩が突如隆起しかたかのような荒野が広がっている。左手のやつはもしかしたら倒壊した高層建築としてのなにかなのかも知れないね…。床の市松模様のタイルの一枚が抜かれているね…。わざとだよね…。それの下の様子から、この床は、この大地として舞台は、木枠で組んで造られたものだってことが分かる。コンクリでなくってホントよかったよ…。そしてこの絵のたるは中央に据えてある大きな三角錐!。それの表面は彗星の衝突によってできたクレータかのようなものが認められる。まるでこれは月の表面かのようではないか!。それのトップ、上部の背後には球体に収まってある目が一つ!。多分これは未来の荒廃しつくしたであろうところの地球で、それを、そこを、この目たるものが支配してあるってことを語っているのかも知れないわ…。この眼球としての星の周りを取り巻いている奇妙な表象は一体何なのだ?!。それが何なのかはサッパリ分からないのだけれども〜!蛇としての、大蛇としての、竜としての何かと関係があるってことだけは確かなようだ…。なんか構造に関しては本当はよく分からないけれども!、なんか、敢えてをもってして、騙し絵みたいにされててさ〜、歪まされてデフォルメされてしまてってる。何かを隠してごまかして、分からんようにしてしまっているんだろうね…。鳥の羽みたい‥?もしかした惑星‥?。それの頭だと思われる部分には目があるね。一つ…。なんだろう…「割って」をもって描かれているところにはどんな思惑が、象徴としての意味が、あるのだろうか?。それが暗鬱にして不吉なる暗黒を、まとって、引き連れて、空を覆っている。いったいこの絵が表しているところのその意味は何なのであろうか?…。

※ここに表されてある人間としての状態がマルクス主義者、つまりは左翼としてのものになる。

ことの原点、すべての源流、あらゆるものの源泉、真に本源たるものと見なせるものが、これらとしてのものが、生活感において、認識できなかった、認識できない人達のことになる。だから〜、自分以外の他人との関係性においてともなれば、そこの認識としてフレームわ〜だ!、

、その区分をもってでしかないんだ…もうできないんだ…。このことの結果として、動的相対性/流動性をもって、(ことはいつでもコロンコロンと変わってゆくものだから)、この人間は敵か?/味方なのか?、好きか/嫌いか、自分の方が優位なのか/それとも劣るのか、強いのか/弱いのか、奪えるか?/難しいか?、コントロール、支配できるか?、弱みはなんだ?、この自分は私は本当に魅力的な見かけとしてできあがっているのか?、いやいや、それとも周りから見たら貧相にしか見えてないのではないのか?等の判別に堕ちてしまう…しまってる。なんのことははい二律背反としての判定のことでしかない。

別に、このことに、悪いだの、間違いだなどと、云うつもりはないんだ。だがだ…先に言った使った言葉、表現にはなるのだが、これでは…、ことの一切は、「流動的なるもの」としてでしかあり得なくなってしまう。調和が見失われて、そして完全に失われてしまうってなことになっていってしまう。また、ことのすべては、あくまでも「相対的な価値としてでしか非ず」、なんらかの価値を、権威を、絶対視することは、大いなる誤謬としての間違い、蒙昧なるこことの証しにしか非ず、真に人間たらんとしての、その自由を、著しく阻害毀損抑圧するものでしかないってなことまでもがまかり通ることになってしまう…。

これでは、絶対に、誰も、幸せになることなどで得ようわけがない。人類にとっての、労働者にとっての、幸せだとか、平等だとか、平安、安寧、平和、博愛の精神だとか…、もうすべてがきれいごとの嘘になってしまう。恒常的にして普遍的なる、それとしての善の概念が、基本、成り立たない、成り立たなくなってしまう。何故ならば、流動的にものごとのその様子は変わってゆくものであるし、ことは相対的なる評価をもって、ことの評価はことにおけるその認識は、刻々と変わっていってしまうものでしかなのだから!。

端折ると、すべてを総括するにおいての、それを果す上においての、ことの視点、すべての一切が俯瞰されるべくしての座標、象限が、それとしての世界観が、欠けてしまっているのだ…。

なんのこた〜ない。天を意識する、それをしてあるまでのことに他ならない。地平としてのこの世界においてで話しを限定するならば、それは自然ってことになるまで。我々人類の生存を適わしめているその全景を全体をこの言葉でもって語っているまで。違う言葉ならば、単に生態系だって言ってもいい。

自他しかないから、主客しかないから、ものごとは、ときを追うごとに変化して混乱しておかしなことになってゆくばかりになる。ことの原因の一切は、ヒトの、その頭の中、そこでの思い、その中における、想念、妄念としての考えでしかないんだがね。その妄想としての、あくまでもその場限りにおいての観念、思い、考えにおいて、あれやこれやの支離滅裂なる行動を、突発的に、場当たり的に、起こしているまでなんだがね…。

観念の一切は、実は、現実には存在していない。だからそれに基づいて人間が行っていることのそのすべては、向こうからすれば、歯牙にも掛けていない。相手にしてない。だって…例えば、あなたはガイ○チの、いや、道理の分からぬままの、まだ幼い子供のやることには、さほど、目くじらを立てることなどはしないでしょう?。あくまでも実害がこの自分に及ばないその限りにおいてでは…。



まずは実体としてあるものを、実際に我ら人類を生かしているものを、具体的なるをもって確認しなければならない。改めてをもって。彼方のとしてのその存在に関してのことはさて置いといて、実際に必要とされるものに関してを、改めて、しっかり確認しなければならない。水や光、空気、食べ物、大地、青空ってなことだけで十分。それらは確実に言葉にする前に、既に存在している。だから、言葉によって指し示させることにもさして問題はそこにはない。そして、こういったものの背景たるものに思いを馳せる。原因というか〜、あれやこれやがあることにおいてのその根拠としてのものに…。

たぶんね〜”全天”としてのものにたどり着くはずなんだ。なにか巨大な運動としてのシステムの中にこの地球はあり、生まれ、成長してきたるものなのだと…。それらすべての「お陰」って言っちゃ〜変だんだけど、我ら人類は、生かされている。あるんだってことを、得心されることになるはずなんだ。これがあるべくしての世界観。これはおそらくは恒常的なるものにしてもう永遠に不変、普遍的なるものであるとされ得る。

ならばだ、これを尊び、感謝してあることが、知性においての最低限のマナーになる。父母両親、先祖を祀るってこととおんなじ。もしこういった日常においての当たり前さえ失われてしまっているならば、確実にことの成就は、もはや不可能なることだと思わざる得なくなるのだが…。ことは理性としてのそれにおいての熟成に関わってくるものなのだ。清濁併せ呑めてこそのその感慨なのかもしれないが…。やはり、自分が今ここに生存してある以上、感謝としての思いを、尊敬の念もそれに添えて、仰ぎ見る、振り返るにしか当たれない、そういった存在でしかあられないことであろう…。この自分としての生存を、そうならしめている、そう至らしめているもののその一切、すべてがだ。

ある種、謙虚さたるものが必要とされる。なんに対しての謙虚さだ?。自分を取り巻いてあるその世界に対してだ。この世界観の元に、その中にあって、自他を判じる、主客においての認識とそれにおいての反応がなされるその限りにおいては!…自分にはなにも言うことはあり得ないんだけどね…。


大きな大きな巨大にして永遠の河たるものを意識する。これの中にて、人類は生きている

巨大にして奇跡としてある樹を意識する。それのお陰で、人類は生きることができてる。


この河やら樹としてのものを最上位にもってきて、人類はそれらの世界圏内の中に、それのお陰で、生きてあれるのだと、この認識を理解を徹底する。すべての思考に先立って、この事実を、その真実を、一切の思考操作のその前に、それの根底として据えてあらなければならない。ならばだ、そうおかしなことを…しだす、思いだす、考えしだすこともないわけなのだが…。






付録としてもう一回あの三角錐のモデルの話しをやります。

内容的には繰り返しでしかないんだけどね。



この二種にプラスして、面上に”I”が結ばれてあるケース、つまりは外界の感受が、それに対しての認識が、「自分そのものと釣り合っている」そうなっているタイプってのを付け加えなければならないんだ…。

多分、象徴(マカバ、MERKABA)に対するアプローチってやつの、一つのあり方の提示にしかならない。

なぜかやっといてあげなさいって…。

この自分における独断としての解釈でしかないだけどね〜…。


ここは後ほど…。


ちょっと先に言っておくと〜今回の内容はこれとは関係ない…



これの場合は、人類を超えたところの存在が、そのシステムとしてのものが、然るべくしての進化を促進すべく”ショック”を与えてくれるってやつ。右下のSと、調停者として表されたものとの間における断絶を、連結の再確定をもって、回復させるが課題としてあるってことを述べたかったまで。結果、S⇔Oにおいての関係性が、バランスをもっての調停をもって、果たされることになる…。

例えば、Sは単に私の思いとしてのものでしかない。ここで、Oとしてのものを、この私が日常において目にするすべてのニュース、事件だってことにしてみればいい。できれば、自分の生活の質に極端に影響してくる関わってくる内容のものがいい。それを気に入れば喜ぶだろうし、気に入らなければ腹立てるまで。これが普通一般。すべてを天の意志においてとみるならば、そこに解釈としての奥深くしての思いたるものが可能になってくる。塞翁が馬だって境地にだってなれるわけさ。天を意識して一切を眺めるならば、そうそう簡単に激怒することもなくなる…。

さて閑話休題。本命としての話しをせねば…。先にも言ったように、今回の話しは、もっとインティメイト世界、それにおいての話しってことになる。私たるこの自分において、ダイレクトなるが極端にして、密接にしてなってもたるの世界、まったくもって、プライベートなるものとしてあるその内的世界ってやつにおいての、それに関関しての話しになる。

あの「汝自身を知れ」の基礎ベースとしての話し。それでしかない‥。



何はさておき、やはりスタートはこの絵だ。エニアグラム。この真実の開示こそが特別なる事態になる。言葉の表記において少し間違っている、これじゃ〜勘違いを生んでしまうだろうな〜と思うのが本能/感情/思考ってところ…。自分としての表現に代えるならば、地球たる惑星における原生動物としての機構の一切。※これにおいてともなれば反射運動神経としての冴えが、それとしてのすべて、核心となるだろうな〜…。感情としてのエネルギーの総体、ただし、重要なるそれが持つ特質として”良心”なるものとしての働きの一切がその中に含まれている。”愛”としての、そのものがそこに根拠を、ことの去来を持っている。思考は、知性として機能を司ってある部位のこと。これは、摂取した情報において、それを構成要素を細分化する、微分化するをもって、ことの背後にて働いている原理、原則、原因、本質としての何か奥深くしてあるものの抽出こそが、それに託されてある機能ってことになる。少し、踏み込んで語ってみたが、要はだ、それぞれが完全に独立しての、どえらく奥深くしての、まったく違う、世界ってやつを、擁してしてあるってことなんだ。また、これらは、まるで生き物かのような、独自に命を宿したるかのような、そんな挙動を見せる、そんな趣のある、なにか、生体機構かのようなものなんだ。

でだ、先のエニアグラムにおいてともなると、真ん中の正三角形で、それは表されているってことになるんだ。これが正真正銘の自己としてのものになる。つまりは本質として呼ばれるものがこれなのだ。

ここで注意を引いておくならば、モデルとしてのものは、あくまでも理想としてのもの、完成されたもの、目指すべくしてのものとしての表しになってるってことなんだ。つまりは、こんなきれいな完全完璧なる正三角形としての人間なんて誰もいないってこと。各自、それぞれに、もっといびつなものとしてあるはずなんだ。このことは別途、しっかり意識しておかなければならない。

さて、ここで、この自分としては、人間が人間としてのその特異性ってやつを持ち込みたくなる訳さ。それがマインドたるものによって、それが叶えることとなった場における、”I”たるものの出現さ。それにおいての最たる特徴としては、隔離、隔壁内において、いったん世界との連結を解除して、せかいそのものを遮断して、その状態において思念するってことになる。このことが果たす、果たされる上で、便宜的に、この”I”たるものが析出されてくることになる。



原罪って言うのは、ユダヤ教においてのとらまえ方であって、別途、あくまでも人類の進化における、認識においてのその様式の変化だと、とらまえるってのもありだろう。この事態の入手において、獲得において、その結果、爆発的なるまでの理解が、その進展が起こったからだ。※でもそれはあくまでも物質性の世界、それにおいての、それとしての、この宇宙平面、その世界内においてで、制限されてしまっての、理解でしかなかったのだが…。

さて、話しはエニアグラムに戻して、語ることのなかった円周辺上における1-2-4-5-7-8としてのものについて、おいて…。

自分としては、これらは、対外的にとられてある、戦略的態度としての析出だってことになる。簡単に自己たるものを分けての、本能/感情/思考としての、それらの領域において、それの何処がメインとなるのか、なっているのか、また他のどれとの兼ね合いで、それとの関連性において、つまりは密接になって、もって、対外的なる態度を決定してるのかってことに関わってくる。関わってきてる。

ここで脱線がてらに、天空の話しをしようじゃないか…。天空を見上げてみての、其処における観察の精髄たるものはなんだ?。「運動してる」ってことじゃないだろうか?!。更にもっとよく観察すると、「どうやら回転運動、周回運動のようだ」になる。「どれもがみな、何かの周りを回っている…」。

当然な話しとして、我ら人類が生きてあるこの地球自体も完全に回り、また周回している。このことは四季の変化を、それにおいての環境の変化を、その移ろい加減を、長年経験して来たならば、もはや疑うことは不可能なることでしかない。このことにさしたる専門知識は必要とはされない。

すべて、全天のものは、運動してる。またこの地球自体も…。
ことのすべては、この事象は、人智を超えたところで起こり、またなされている。
それも、おそらくは、未来永劫、永遠に…。

続く


天空よりの影響力それに関して語るのはやめとく。ページがいくらあっても足らない。ただね、それは避けがたくして、密接、ダイレクト、パンクチュアルなるものであるといったイメージは、もってもらいたい。また、たくさんの種類、それらが複雑にして絡まり、ブレンドされてのものとしての作用力、絶えずまったく同一ではない、そういった種類として影響力であることも…。また、あの、【絶対太陽】、根源としてのそれ本体からの放射物も一応は、か細くしながらも、仄かなるの限りなれども、この地球上には届いてはきているのだ!。まあ、そういったハイセンスなやつは置いといて〜、ことの、その影響力ってのにおいての「感受」ってやつの方の話しをしよう…。

これは基本、あの三角形としての本質にとって

感受されうるものになる。そして、そのことの結果として、外界に向けておいての動機行動…、もしくは内面に限定してのそこでの精神活動、思考や思い…において、いたく影響されてしまうことになる‥。なってしまっているのだ。

それは基本、不可知不可視としての影響のことになるので、ある意味、それの感受は識閾下、感受によっての反応は

となる。

動かされてしまっているになる。こちらとしてはあくまでも自然な振る舞いとして行動を反応を果たしているまでの話し。ことにおいての結果でしかない。プログラムたるものが、元々備わってて、然るべくしての情報、刺激、印象の入力が起こって為されて果たされて、その上において発現しているまで。それのこれの何があかんねん?!の話しにしかならない…。

※河の流れとして例えられているのはこういった影響力としてのものなのだ。その中にあって特徴的なるのはダウン・トレンド。下流へと流れて行ってるていうあからさまなる事実…。自然に運ばれていってしまう。この現実も実は用いようなのだ。基本、この流れのままにあるその限りにおいては、人間に自由意志はありえない。伝動ベルトからの伝達において自動的に生きているまで。決してこれも悪いことではない。愚かな態度ではあるがこれもまた宇宙においての要請、想定内のことではある。神は祝福を与えてくださってはいる〜…。用いように話しを戻すなら、流れに抵抗する、それを遡るってのが、選択肢としてのもう片方になる。違うイメージとしては、自分を固定して流れを水力発電みたいにして利用するもありだろう。いろいろと面白いメリットがそこには生まれてくる。備わってくる。なんにおいてであったって、いい面と悪い面がある。この不自然としての態度を取るにおいて、初めて自由意志たるものの実在性が確かなものになってゆく…。嫌なこと面倒くさいことやるにおいては覚悟を決めなければならないでしょう?。これが取捨選択ってやつを意識的に果すにおいての主体、実体になる。これは最初から与えられて備えられているってわけじゃないんだ…、

話しを少し変える。その、影響力としての種類は数多ある。あるが〜、ここでは物理において捉えられる、それら範疇だけのものに絞っておこう。星々との間には媒体としての何かが間違いなくある。じゃないと〜、何も影響力としてのものはこちらに届くことはないからだ。目に見えるものとして光がある。また、朝晩が、毎日巡ってきていることには地球が自転していることを確信することができる。四季の移り変わり、昼間としての時間、夜としての時間が、短くなったり長くなったりするする様には、太陽との距離が、それを中心としての地球の公転が、間違いないことが確信されることになる。そこにある巨大質量としての運動の様子を思えば、重力や引力、斥力としての力の関係があることはもはや疑うことを許さない。相互関係においてすべてが今ある状態を支え合っている。結果としてね…。

天空からの影響力において、言葉通り、世界は回っているのだ。それにおいてで、

、動かされてあるっていってもいい。誰にもこれを阻むことは、できない。

ヒトの生活環境、生息/生育環境、また経済も、是等影響力からの作用をもって、すべて変動、変化していってるのだ。外界としての環境、そして、内面として語られるヒトの本質においてでも!。

すべては宇宙たるシステムにおいての、歯車としてあり、それは一時たりとて休むこともなく働き動き続けているものになる。そうでしょう?。明日も確実に朝日は登るわけだし…。基本、それはあまりにも巨大なシステムとしてのものであり、人間風情が如何な行為をもってしたとて、この機構としての運動を止めることはできない、適わない。二回言ったりましてん…。

自分を取り巻く外部としての世界、その社会、これの状態変化に合わせて、ヒトは対外折衝能力としての人格を発達、築くことになる。より有利となるべくして。生存本能においてそれが志向する方向に。社会が価値と見做してあるものを目標として。自分としての、その心が関心を示す、気に入ってあるものに指針を合わせて…。

この、人格として呼ぶ、対外的戦略様式、ペルソナとしての行動様式、それの洗練、実力向上、実績の獲得をもって、ヒトは

と化してゆく。これは決して悪いことではない。寧ろ、獲得は絶対に必要にして必須なるものとして、奨励されてあるべきことになる。現実は過酷にして死地たるものがあちらこちらにあるもんんだから…。上手く生きる為には、人格としての自分と、本質本心としての自分の二重化がどうして必要にして大切になってくる…。

※ことの最悪なる問題は、あの” I ”としてのものへの偏り、それとの完全同一化のことになる。そして調和としてのあるべきが見失われてしまうこと。これに関しては締めのパートにて語る。

ここでまた話しを少し変えて脱線してみよう…。この最初に示したところ三角形としての本質としての自己は何処から来たるのか?。またそれを構成/形成してあるものとは何なんであろうか?。三種の、三つの生き物かのようなもの?、それら三つの交合体として成り立つこの自己たるものとは、いったいなんなんであろうか?。

これに関して、本わずかだけ、クローズアップをしておきたい。個人性という側面のみに脚光を当てるのなら、前世において培われたところの貴方たるもの、それが獲得したものが、そのデータ、能力が、備わっている。生まれながらにして。生来的に…。この今の生にて修行をもって獲得された徳たるものは間違いなく来世においても持っていくことができる。その停止を向かえた地点からの再出発になる。データたるものはアクティベートされる必要があるのだが、これは自然としての、その成り行きにまかせるしかないだろう。これが一つ。そしてもう一つ、誕生の機縁として恵まれた両親らから引き継いだ血に備わってあるもの。どちらかの家の業病を引き継ぐ可能性が非常に高い。特に長女長男らにおいては避けがたくしてのものがある。素晴らしく練磨された特質ってもきっとそこにはあるだろう。血筋において伝達/供与された強化洗練されてある、この世を生き抜くにおいての戦略的プログラム、戦術的ノウハウ。ある意味においちゃ〜、非常に貴重なるものになるだろうさ〜。それのアクティベートは両親との接触、関係性、確執においてとなる。それがイニシエーション。あなたの代において決着を付けなければならない家系としての、それにおいての課題、難問…。あともう一つ、育ちにおいて環境、また時代性としてのものも大きい。本質そのものも三者ともに成長発達しなけりゃならないからね。幼少期における地域性ってことでいいのかも知れない。そしてその時節たるものが持っていた空気としてのもの…。例えば、この自分なんか大阪で生まれ育ったもんだから、「

」てのからはどうしても抜け出せない。おふざけに流れやすくなってしまっている(哀)。もう完璧に癖。一種の病気!。でも、これもまた大事な自分にとっちゃ〜必要ごとにはなるんだ…。うちの母ちゃんは育ちが非常に悪かったんだ…。自分にとって気に入らない他人は犬畜生の生まれ変わりだって言ってた。自分たちが生き残る為には他人が犠牲になって当然としての発想にあった。それだけ殺伐とした環境において自分ひとりだけの力をもって生きてきたヒトになるんだ…。父ちゃんなんかになると、幼い頃は貧しいってことだけでどれだけ不自由であるかって、屈辱的なる立場に自身を晒すことになるのかをことを身に沁みて感じてた、分かってたヒトになるはずなんだ。頭が切れッ切れッの、ガットセンターが異常なるまでに発達してた人だから、それに加えて、ど外れて、プライドの高いヒトだったから、そりゃ〜もぉ〜、成人して独立したその暁には、ドン・コルレオーネみたいな存在にもなるわいさ〜!。

             閑話休題。この絵を見といてもらおう。
          苦労して分かりやすくなるよう加工してみました!。





この絵において皆様のご注意を引きたくは三点。一つに、階層をもってのその順位。原因があってことの展開においてのその結果があっただ。二つ目、描かれているのはあくまでもこの地球と月に到達すべくしてのラインのみ。わかり易くする為さ。実際にはもう無限と呼んでいい程までの星系としての実体があるってことなのさ。それらは便宜上、伏させれてしまっているが〜、それらとの関係性も、それらからの放射としての影響も当然あるって、この地球において受けてるって話し。三つ目としては、これは変な切り口になると思うんだが、これの構成って、なんか会社組織としてのものと同じだな〜って思われません?。各部署に長がいて、部下を管理している。社長の経営方針の元、社員は仕事を粉してゆく。嫌でも、そうせざるを得ない。もしもだ、それが嫌なら、我慢がどうしてもならないのなら、独立して、自分の会社を持てばいい。それだけの話し。それ以外に道は、あり得ようわけがない…。

宇宙そのものが行っている展開、創造としての運動。それの派生においてここ地球においてのあらゆるすべての事柄が、変化していってるのだ。その変化変動に合わせて、適応してこちらとしての態度を戦略的に決めていってるわけ。この戦略的って言葉にて意味したのは、あくまでも「上手く上手に要領良く世を世間を渡ってゆく」ってことに尽きるんだけどね…。それにおいての対外的態度決定としての様子、その結果としてのものが、エニアグラムにおけるあの1〜9までの様態。

自分として伝えるにおいて力点を置きたきことは、これとしての各タイプ、各様体としてのものも、他への移行が余儀なくされてしまってるんだよってことなんだ。本意不本意に関わらず、どちらかのトレンドにおいて、別としての様態へと、強制的かつ自然に、変化していってしまうものなのだ…。

ここでちょっとまた脱線する。いや、そうでもないな…。とにかく、

、くどくやっとくべきことだろう…。

ことはだね〜あの、洞窟の影、イデアとしてのそのものズバリとあくまでも表記表現としてのもの、別途、シニフィエ・シニフィアンの話し、表象と実体、コインの裏表、本音と建前、等に関わってくることになる。

せっかくだからプラトンのによる、ことが

、つまりは断絶分離としての状態にこの人類が陥っていることの原因に関しての卓見をご紹介っと。これはあくまでたとえ話、お伽噺としての体をもって語られている。

  我々の魂は、かつて天上の世界にいて、イデアだけを見て暮らしていたのだが、
  その汚れのために地上の世界に追放され、肉体(ソーマ)という牢獄(セーマ)に
  押し込められてしまった。そして、この地上へ降りる途中で、忘却(レテ)の河を
  渡ったため、以前は見ていたイデアを、ほとんど忘れてしまった。だがこの世界で
  イデアの模像である個物を見ると、その忘れてしまっていたイデアをおぼろげながらに
  思い出す。このように我々が眼を外界ではなく魂の内面へと向けなおし、かつて見ていた
  イデアを想起するとき、我々はものごとをその原型に即して、真に認識することになる。

そんで彼の結論としての総括は、『真の認識とは「想起」(アナムネーシス)にほかならない』んだって〜〜!。もう既に最初から知ってたことを思い出すことにしか当たらないんだって〜!。

まっいい。この彼の弁に関しては完全に脱線になる。ことはだ、先の本質と人格、つまりは対外的に選択されて構築されてある、しまう外面としての自己の話しをやりたいんだ。

もう端折って言っちゃうと〜、それは基本、コインとしての裏表としての関係性においての選択事例としてのものでしかない。いや、そうとしてあらねばならない事態なんですよ〜ってことを言いたいまで。ふ〜…。

あまり巷においては語られることはないんだけれど、この自分個人としての見解は〜、本質としてのものは、その実体は、あくまでも。その個人の内部としてのものでしかない。そういったものとしてでしかありえないんだ。完全にサブジェクテブ。主観性の世界。他人には知り得ようはずのない世界。完全に独立したるのもの。多分、各辺そのものによる結界によって、場たるものが形成されて、そうしてこそ、そうあってくれていてこそ、初めてあり得る叶いうる状態なのだ。だと空想している。各人各様はもう完璧に個として分断され切っている。これは言っとくが内部においてはーーの話し。現実においての他者との関わりは、また違った別次元としての様態にて果たされることになってる。つまりは全体をもってしてのインターフェイスによって、これをもってで。












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