第42話  本稿⑧

文字数 43,902文字



この【本稿】としてのシリーズが本当のところ「何を目的にして書かれているのか?」これに関してを明らかにして語るともなれば、『なんて、おんどれは身の程知らずな奴なんやー!』との誹りは避けられまい…。またことの断罪たるものからは免れ、得なくなる…。まあ〜言っちゃえば、唯物史観論をベースとしての、あの髭のユダヤ人が唱えたるところの「共産主義思想」に対してのアンチテーゼ、それとしてのものになるんだ。いや、それそのものを根底からを瓦解させるべしてのもの、それとして構想はされてあるんだ…。その方法はいたってシンプルさ。真実がやはり最強になる。こと事実の前では、如何な嘘も詭弁も屁理屈も、無効化されてしまうことになるのは必然となる。避けられなくなっていってしまう。これは絶対なることなのだっと…。

この自分が本稿の中で語るこの言説は、やがてには、ゆっ〜くり〜と、まるで時限爆弾かの如くして、その期待されてある構想されたるの働きを、つまりは影響力を、発揮することになるであろう。だって、本当の、

話しなんだから…。あれやこれやの無知を原因としての誤解/混乱/勘違い、これらに基づいてある人間間における確執を無効化するに足りるってなはずなんだ…。だからこそ、中和/調停/解消としてのその効果が期待されてあるんだっと…。

そして根本的にして最終的なる目標は、真の本流たるものを準備する、形作ることにこそある。これを形成するにおけるその核心論。これになるべきものとしてある。まあ、こういった妄想において、ことは語られている、しまっているまで。イエライ・イエライ・イエライ・イエライシャン…。敬具 天村崇




この絵は自分のお気に入りさ。素晴らしくセンスがいいものだろ思う。大地があって、そこに樹が生えている。近くには湖みたいなのがあって、””にはとても恵まれているってことが分かるっと。水はなんてったって物質交換/物質循環における要。ことにおける最重要なる媒介物/仲介者になるのだから。この樹は、独立して存在しているのだが、人類その他の有機生命を、

、そうして、それらをも、養ってくれている。事実上それらを生かしてくれているのがこれになるんだ。つまりは生活圏としての世界そのものを表している。湖面に映ってあるのは、養われてある人類が見てる夢さ。またその中における生存の有り様そのものってことでもいい。この樹は、自然そのもののメタファーだと言ってもいいだろう…。その腕の内にあってこそ、人類は生きることが、成長することが、無事に生涯においての役目たるものを、果たすことが、初めて〜「で・き・る」っと…。

※既に論を進めるにおける前提たるものの開示が提示が始まっている。※肯定!/ネガティブ!を徹底されていったほうがいい。※この樹は葉が少ないように観える。ならばだ、これからその夢が開花してゆく、これから現実化してゆくのだとの含みなんかもね。その創造における展望が、その様子内容が、表されているまで…。

Re: ちょいとコラム、政見放送。

①さっき、今朝、コーヒー淹れ終わるまで、TVで政見放送見てたんだ。たまたまね。そしたら日本第○党によるもの。党首たる桜●誠さんと幹事長たる中○和弘 さんが出てた。自分はコレ「見せられてんだな」と思ったのさ。とりあえずはこの党に投票するしかないのかも‥ないのか?っと思ったわけざんす…。歯に衣着せなさすぎるぐらいの物言いだった。でも

本当のことだったのだ。「ほんいっときだけ」との制限付きなら、ありかもしれない…。毒をもって自民党を制す。いや、嫌ことをするだ。ある種のヒットラー気質があるね‥あの男。なにか得体の知れない‥世間との世界との確執、それにおいての怨恨を、原因としての怒りが、彼にとっての原動力だわ…。だから…長くではダメだ。危険すぎる…。こういったヒトは、自分が望むその権力としての地位に就いたなら、その願いが叶ったら、途端に、かって憎んでいたいたその圧制者としての敵と、まったく同じことを始めてしまうものなのだ…。追記;予告通り、投票行ってきた。ほんだまりこさんって方と、政党名として日本第一。この自分が投票いったのは何十年ぶりのことになる。あの示唆がなかったなら今回もいってなかっただろう。あと馬渕さんからもこの参議院選はたいへん重要なものとなる聞かされていたのでね。もし自公圧勝となれば、A氏の暗殺もあって、目覚めるどころか、完璧に腰砕けの寄り集まりとしての政権になる。なんの気概も、勇断も、決断も持てない政権。デラシネがその正体さ。根無し草の集まりとしての漂流国家。付和雷同にしかありえない政権。さて、どうなるんだろな?。

追記:選挙ポスターにおけるキャッチ・コピー「国民の為に‥「決断と実行‥「分断から協調へ‥」これらは、ものの見事に悪い冗談としてのものでしかない。完璧にこれの逆を自民党は推進してしまっているのだから。ここでの「国民」とは、いったい誰のことをいっているのだろうか?。聞き慣れた言葉であればあるほど、それの本当の意味からは遠く離れたものへとになりやすすくなる。あくまでも「感じ「感覚」としての使用でしか、もうなくなってしまうんでね。「愛「思いやり「助け合い」これらの言葉においても同じこと。あくでも耳触りが良い、聞こえにおいて信頼が寄せられ易い、これを期待しての使用でしかないんだ。一種の

。世にて流行る歌においても同じことが言える…。実際をもって説明するならば、ここでの国民は、自公が与党として認めてくれる、我らに投票してくれる、政権維持を助けてくれる人々のことでしかないんだ。穿ったことを言えば、私達、自公議員の、原罪ある社会的地位を、立場を、現状維持のままにて、守ってくれる、是認してくれる人たちのことになる。票が取れないことにはその立場は怪しくなってしまうんでね。そんで、彼等がその人達の為に何かをするのかと、してくれることになるのかと言うと〜、まったくそんな気遣いするわけがないのだ。立場が固まったなら、安泰となったなら、そのかれらが顔色を伺うのは、票の取りまとめをしてくれた経済界であり、また財務省であり、特に中共であり、またアメリカ議会なのだ。※ことの重要にして絶望なることは、彼等は彼等なりに頑張ってはいるんだが、頑張ってくれてはいるんだが、それは夢見においてでしかないってことなんだ。遠に、日本国たるもの、国民に関して、経済とはなんであるのかが、分からなくなってしまっている。また、弱肉強食を原則としてあり、暴力が、ことの最終的なることの一切を、決定してあるんだってことが。「話し合い」は、相互において、色んな意味における「力」が拮抗していてこそ、初めて有効になるのだってことが…。とにかく、頭の中が「お花畑」であってはならないんだって…。


ちょっと脱線にはなるのだが、現在の日本の問題は「稼げなくなってしまってる」ってことにあるんだ。結果『貧すれば窮する』で、いろんなことが、健全に、無事にで、回らなくなってきてしまってるんだ。そんで政治においてでは、未だに、小渕首相のときを開始時期として、国債を刷って、刷りまくって、

、とりあえずは、ことなかれにしとけって…、それに徹してあるまで。ズット、もう何十年もなんだ!。あと消費増税だね…。

バカなんかね?…あの人達は…。まともな金銭感覚が、彼らに””っていうか〜、当選しちまえば、後はもうなくなるんだろうね〜…。税金を原資としての予算を、もう自分の財布の中のお金だと勘違いしてしまよることなるんだろうねっ!。未来の日本のことなんか、てんでその頭にはなくなってしまう。いや、昨今のこの日本においてでは、元々大人たちってのにおいてはこの発想はないんだ…。近視眼にしかあらないことに、もはや誰も気づいていない、自覚がされていることもないっと…。

危機たるものの到来を未然に防ぐ。これが最善。ではその為には何が必要だろうか?。絶えず現実に覚めていなくてはいけない。周りの動きを、敏感に鋭敏をもって観察/察知してなければならない。そして、これが重要にして難しいことにはなってしまうんだが、ある種の”杞憂”としての想像力を働かせていなければならないんだ。これは一種の「未来に向けてのシュミレーション」ってことになる。これからの展開を、

、想定/創造してみるってことになる…。こうゆうことをすると、不安で一杯となってしまうばかりなんで、誰もやりたがらない。そこで思うままで終わるとダメなんだ。そこで終わるまでの人ならば、想像をすること、シュミレーションを行うこと事態が、やってはならないことになる。

不安、心配、恐怖、それらの材料としての

、摘むことに、努力できる人であらねばならない。それもできるだけ早くに着手できなくちゃならない。今日たるものを、ちゃんと生きて、つまりは、いろんな日々の出来事を、実地に/しっかり/シビアに確認して、それらにおいて健全なるをもって発想が/思考が/行動ができなくっちゃならないんだ。「遠離一切傾倒夢想」こそを方針として持たねばならない。

その想定が外れた、狂ったとしても、別段、構わないんだ。結果としてのその未来の有様は、天に任せて委ねておけばいい。そのように努力して奮闘したってことが大事なんだ。自分自身の精神衛生上の話としてでねw。とにかくにも、その為の準備には時間がかかる。周りがそうすることに理解を寄せてくれるってことも難しい。現状を維持しサポートしながら、また片方で、その想定されてある危機を凌ぐ、大事に至らないようするべくしての準備をすることになる。だからこそ時間と労力が必要とされることとなる。でも、きっとそれは某らかの形において活きるよ。これは自分が人生において確認してきたこと。※おそらくね〜、これもプラクリティによる采配であることになるんだろうが〜、天は、ヒトがそうやって努力してあることを推奨している。まず間違いなく。だから、ことの報酬として、より更なる動機づけを目的としても、承認としての展開を間違いなく準備してくれる。やっぱ、やっといて良かったーって思うことになるよう、展開においての調節をしてくれることになるんだ…。

※これも「卵が先か、それとも鶏が先なのか?」の設問が思い起こされる。
※そのような悪夢としての展開を想像したからこそ現実がそれに対しての反映をしたのか?
※ことの真実なるは分からんって…。
※これはヒトがマインドを獲得したことにその原因を持つ。云わば、人としての業。
※ならばだ選択は二つになる。
※その悪しきとしての展開を阻むか?、それともそれをむしろ推進するのか?。
※ハスナムらは無意識の内に、後者を選択的に行っている。あの飛鳥了かの如くにして…。


舛添ってやつは未だに何をものを言えるとでも思ってるんだろうか?。高学歴でもアホは阿呆でしかない。あさましきは、なにがどうなったとしても、あさましくしてのままさ…。与党は基本、受け身がその体質なんだ。アメリカ、奥の院の云うこと聴いてりゃ「大丈夫だ」って考えているんだろう…。

追記:ことはあくまでも簡単にシンプルに観るを徹底されたし。何をいくら使おうと、何に使おうとも、それは別段構わないのだが、「入る」を越えてともなれば、それはもうその事実だけで誤ち。ガイキチか?。ダメ。死ぬ気なのかい?と、こちらとしては思わざる得ない。ならばだ、せめて自分には迷惑はかけるなよって言いたくもなる…。

②今朝も政見放送見さされた。二つだけ。すべてダメ、全員

だった。教育の無償化に、更なる構造改革、規制の撤廃をもってし経済を活性化するを公約として掲げてた。すべて日本経済の未来を考えてのものだそうだ。順序が間違っている。

投資は可能になるんだから。その原資たるものはどうするの?。またあれだわ国債刷ってそれにて賄うと…それを日銀に買い取らせて現金化するの発想。この方策根拠にて、色々語ってある人たちってのは〜、ファンタジーの世界にて生きてるんだろね。打ち出の小槌を国は持っているとでも考えているんだろう…。後者の維新は多分左系の党なんだろう。自分ならば、構造の強化と規制の絶対化の必要性を国民に訴えるだろうに…。日本経済が、かって強かったのは、勤勉実直であることが集団としてのまとまりにおいて十二分に発揮されていたからだ。また道先案内人が有能であったればこそ。護送船団方式も場合によってはたいへん有意義なものになる。※現在は又これへと帰るべくしての状況だ。規制たるものにおいては、そこには人としての倫理道徳を指標として、ただ単なる暴走としてのありかたを、諌める/阻む/制御するといった安全弁としての機能が期待されてあるわけだ。あくまでも、日本人は、健全なる経済活動のみを志向するでいい!。この為にはどうしても規制たるものもまた必要なのだ。「ネットを介しての無修正のポルノの氾濫を根絶絶滅せよ!」だ。「賭博、一切の信用取引を、国内においては禁止せよ!」だ。「一切の外国資本による日本の資産の買取購入を禁止せよ!」「旧来のものは買い取りをもってすべて無効化にせよ!」「すべての河川と山中の水源に対して、その保護を徹底せよ!」etc。水資源こそがこれからの生死を分ける最重要資産になる…。これら等の事々が自分なんかとしてならば火急速やかに達成すべきことになる。あと「国内にて居住する外国人に対しては絶対に参政権を与えてはならない」。(こわ)す、一切の、旧来からの価値を相対化するをもって日本そのものを無効化したいんだわ。あの彼らは…。どうしてか?。左翼だからさ。あの思想に染まってしまってるから。それが先進的なると、真の知性の持ち主であることの証なのだと、そういった思い込みとしての風潮が今も確実にある。悪性の伝染病みたいなものだから…。でも、それにおける現象の本質は、実態は、ただつまらないから、ただひまなだけだから。生きがいとなるべきものをどうしたものなのか、この自分においては、みつけられたなかったからなだけ。いつまでたっても、いくつになっても。一種のヒステリー状態ってやつに、この手のひと達はあるわけさ。自己顕示欲の化け物、その肥大化によっての怪物化。ハスナムの極みとしてのものでしかない。それらの群れがどうしたものなのか世界中において膨らみつつある。それらのすべては、徹頭徹尾、夢の中で、生きてはるっと…。


要介護一と二が保険適用から外されるよね。※彼らは自力ではもう何もできない…と言うか〜、やってはいけない人たちになる。何故なら間違いなく、必ず、コケる!。事故をおこすことになるから。そばに誰か、助けになる人がいなければならないんだ。家族と一緒に住まいしていなければならない人たちなんだ。それがだ一人っきりで住まいしている、援助のサーヴィスを利用しているってことは何を意味しているかだ!。可能性大なのが「貧しくしての一人住まいだ」ってことになる…。ならばだ、もう最初から保険給付になんかすべきなんかではなかったんだー!。

年金も減額だ。その内に、デイサービスも自費にての参加となることであろう。社会保険料も上げられる。でも、国債の発行は更に膨大なるものとならざるを得ない。借り換えをもって、更に巨大な額へと膨らんでゆくばかりだなのだ。何が問題だ?。政治そのものが、それとしての実態が、現実からは、遊離してしまっているからなのさ。地に足が着いていないものに完全になってしまっている!。これだけ。あの、日本国家は破綻しないの理屈は信じてはならない。目に見えてはっきりした形ではそうはならないだけの話しでしかないのだから。収入において支出を図るのが当たり前のことなのだから…。

ならばだ、ことの解決は簡単なことなんだ。サプライチェーンの、すべてを、自国内に戻してきて、そこにてすべてを果たすことができるようにするだけのこと。つまりは、健全化を図るまでの話し。かっての、その昔、七十年代以前の状態にまた戻るまでのこと。これを徹底するまでのことなのだ。サービス産業なんかではなくて、実体あるものとしての産業へと、急ぎ舵を取り直す必要がある。ちゃんとした実体のあるものとしての仕事を増やさなければならない。危機としての状況はまた好機としてのものでもある。例えば、中国経由のサプライチェーンの分断がおこってる。円安が進行中である。ならば、正しく今が内製化へと還るその好機であると言える。



エネルギーは急ぎ、原発の再稼働、メタンハイドレートの本格的な利用へと舵を切る。これらのシフトへの移行には大変な苦労労力痛みがすべての人々において伴うこととなる。現行を保ちつつになるので、二重のオペレーションともなる。また、これをなすにおいての苦しみを対価として、天に願いおすがりする必要もでてくる。富士山を噴火させる、大地震を呼び起こす、これらを今はお留め置きくださいと願い奉る必要がある。要は、日本国民全部をもって、改心して、一切のことを改めるに、今は、尽きるのだ。ではその号令たるものは、誰が出せる?!。陛下しかあるまい…。

このままでは日本は間違いなく圧殺されてしまうことになる。それの、とどのつまりは、ロシアに北海道を占拠されて、沖縄九州は中共の支配領域に、本州はアメリカの辺境の属州となり果ててしまう。実質上、国体としてのまとまりは薄められて、劣化させられて、無力なるものその断片としての集まりへと相対化されていってしまうことになる。もうそうなってしまったなら、自主独立、自律としての精神は完璧に失われていってしまったということになる。日本国としての再起は、もう絶対に不可能になる!。

問題の解決になるべくしての、その核心的なることは、まずは稼げるようになる必要がある。これだけ。これがまずは先決としてのことなのだ…。だから、政権を取るべくして、取りたいのであるならば、その目的思惑にて広く世間一般に訴えるのであれば、経済の活性化を如何に執り行うべきなのかを話せばいいだけの話しなのだ!。単にこれだけ…。ところがだ、この実際に関して理解をそのビジョンを持っているものが、実際は、皆無なのだ!。これこそが問題。大問題。実際には、どうすれば日本経済たるものが活性化するのかを知るものが実はいないのだ…。その経験が、その実際の体験が、既に既存の政権内には誰もいないんだ…。あるのは、いるのは、既得権としてのものを、その仕組を、守ること、強化することばかりに。その

特化、専心してきたものなのばかりなのだ!。

あの「国債をもって」と、「それを資金として」と語るものらは、みな単なるアホだからね。
バーチャルとしてのその世界にのみ生きてるヒト。これらを選ぶってのはどういうことかだよ。

ならばだ、そういった方々ならば、まったくお呼びでないっと、なってないないおらへんわいと、今の状況情勢となったならば、なったれば、皆様方には退いてもらわんと…。できれば自発的にもてで。さもなくば、国民を道連れにして、強制をもっての退陣をさせられてしまうようことが、整っていくことになるであろう。武力侵略や、もしかしたら天変地異をもってで、天災をも、もってで、使ってで…。


追記:
実際はもう既に、決着はついてるんだって…。天界においてではね…。あっと驚く大逆転が、このあとには待ってるんだって〜。天地まとめての大改革がなされてしまうようなるんだって〜。そう〜日月神事には書いてあるんだって〜。www。あれの中には、キリスト関係の言説がどうしたものなのか多く含まれてしまてる…。その取り扱い方は、あっち行ったりこっち行ったりしてはいるんだけどね…。とにかく、各自は、今は魂を磨くことにだけに、精を出してなさいだって〜〜!。





まずは、これらの絵において、語られているところの、遥か彼方の上位階層を源としてのフローによって、すべては形成されたが、各自において、承認できのかどうか‥。これはある意味、形而上的なるものにすべての原因はあるとする立場になる。そこに立てるのかどうかにかかってくる。この立場を選ぶに当たっては、自分自身たるものの存在に関してを考えてみればいい。誰に何によって自分たる存在は今ここに生を得て、あり得ているのかを…。完璧に自力ではない。これだけはは確か、確実。ではご両親によって?。これまた足りずの不完全なるもののような…。もしかしたら〜、この地球なんかい?!っと。ならばだ…。また、天空にそのヒントを、答えの鍵たるものを、求めるのならば、だて地球を考えるならば、少なくとも太陽系のそのすべての構成惑星についても考慮をすべきことになるでしょう?、その宇宙に全体におけるそのすべてが、関連性をもって、また個別の法則性たるものに各々基づいて、運動たるものを、連続的にで、ほぼ永久をもってして、行ってしまっているではないか!。その総量としてのエネルギー、そしてそこに備わってある

、思う、観じるのであるならば、それは確実に、偶然によるその発生としてでは、あり得ない。※何故に未だその運動進、その展は止まらないん?。起源として無限にして膨大なるエネルギーが「無」より出現したのだとの事実にしか思いは及ばない。これをとりあえず「神」って呼んでるまでのことさ…。当然な話し、白いお髭を蓄えているご老人としての姿、その正体ではないっと。純粋なるエネルギー体。「I am just what I AM」。

※左端の図だけは五行のその成立に関してのものになる。※東洋におけるその解釈。全体性からすれば不完全。※でも相互間におけるその関係によってを引き起こされてある運動と展開、あくまでも、ことの背後にて働いてあるだけの力の所在その関係性、動力たるものの根拠に関しては、これが詳しい。


階層は各自独自の領域(空間)たるものを持つ。我らはその内の一領域を知るまで。他の領域に関しては、今生においての生では知るを能わない。それは世界を包んであるもの、空間としての認識たるものになる。空気や水みたいに当たり前のものだから、あまり取り立てて空間たるものを意識をすることはない。また時間に関しても同じこと。

各階層におけるこうした領域は独自の法則性に支配されてある。かつ隣接してあるもの同士は、お互いに影響を及ぼし合っている。それも綿密に連綿にパンクチュアルにて。即時即応の構えにてさ…。



これらの内、二枚は衛星写真による地上の都市の様子。残り二枚は遥か彼方の星雲間の様子になる。余りににも似すぎている。そう思いません?。よく似たものでありすぎている。都市たるもののその有用性、それがどうしてできたのかを思えば、彼方におけるこれらにおいても同じ意味合いが必然性が備わっていたのではないか?との考えに至り付けるってなもんなんだ…。交信、交流において、物質のみならず、何らかの情報を、それこそを、あそこでは、あれらなりにをもって、やり取りをしてるんではないだろうか?。※下手すれば、これでもニューロンの一単位に過ぎず、一部分にしか過ぎざるものないのではないのか?!。巨大な一つの脳としてあるのがこの宇宙の正体?。


     この似過ぎているってことにこそ、なにかの真実が、隠されてるんだ…。

本流たるものの本体は、やはり本源上流から下流に向けてのものになる。これは河をイメージすればいい話し。これの総体をもってで全体にになる。片や、絵に目を向けると、なにやら本源、上流に向けての矢印(↑)があるではないか!。河を遡るにおいての選択だ。これも実際の河でのことを思うことができる。可能は可能だがそうする必要性が、意味があるのだろうか?。いざことを行えば、大変な労力が必要とされることとなる。モーターボートならばことは簡単だが、そんな便利なものは実際はあり得ない。この道程は、意識的な選択、また努力が、必然にして必須となる道になる。それらがあってこそのその道行きなのだ。更には、真の本源にまで辿り着こうとするならば、何処からかは、ことの完遂は、来世に、誰かに託してのこととなるのはもう絶対にして必然となるであろう…。


    わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。風景や
    みんなといつしよに、せはしくせはしく明滅しながら、いかにもたしかにともり
    つづける因果交流電燈のひとつの青い照明です…。宮沢賢治『春と修羅』の冒頭より


悲しきなることは、領域、空間による制約、その支配なのだ。其処にゆきたくとも、本源にまで到達することは適わない。だが、意識する、意識してあることは可能だ。見上げること、見上げてあることには、忘れるようなことがあったはならない。理想として。そして、夢として、もし来世たるものがあるのならば、其処に至り着くことを、願いとして持って。それを励みとして今生を生きるっと。そちらに関して感覚をもってしての手がかりが[真/善/美]になる。これはもう理屈としてのものではないのだ…。

これらのことは、夢うつつの、幻想、ファンタジーとしての話であってはならない。知ること能わざれど、妙に、確かに確信してしまう。そんな話しなのだ。何故そうなるかって云うと〜我らが生きてあるこの領域その正体たる

観察するにおいて、実際にダイレクに関係を持つことによって、そこに深き叡智たるものの存在を理解することになるからだ。あまりにもことは深慮配慮をもって最初から整ってしまっている…。これが単なる偶然のわけがない…。恵みとしてのありがたさ、また励み努めとしての労苦が確実に求められてしまっている。この狭く制限されてある、まったくもって不便なる世界においてでもそうなのだから、ましてや全体としての遥かなる高みをも含んだ世界宇宙ともなれば、またそこにはそこなりの、尊き叡智によっての世界が拓けているに違いあるまい。

幼稚園から小学校教育において必須としてのプログラムがある。これを是非提案しときたい。ことは助走としてのものから、ゆくゆくは、本番としての六年六回六周としてのものになる。ベストなのはやはり農作物の栽培。毎日ちゃんと面倒をみさせる。テーマは自力で自分の食い扶持を手に入れる。これの大切なる所は、自然との関わりを実地に学ぶがある。確実にこの自分の思惑に反するが如くして、雑草や害虫が現れてくる。水やりを欠かせば如実に弱り果てる。いやもう簡単に枯れていってしまう。ベイビー種からだからさ。芝地を六年かけて育てるでもいいな。雑草の繁殖。芝モドキの出現。肥料のやり過ぎ不足。水やりの丁寧さ漫勉さ。四季を通してのその適切なる対応を実地に自力のみにて果たす。体験においての学習、ことの理解たるものが要。

育てたい、たくさん良いものを収穫したい。キレイな芝目としたいといった、求めは、確実に阻害される裏切られる邪魔されるってな展開が起こってくるのだ。その様子、その手段の、たちの悪さに注目させる。そして、それらの悪害、妨害、邪魔と

大事になる。初期の数回数年は確実に全滅を余儀なくされることになるであろう。でもそれでいいんだ。最後の一回が無事に求めてあった姿にて収穫ができたらな、もうそれで十分。そして先生は生徒たちに教えてあげるのだ、これは農業としてのものであったが、なんにおいてであったって〜、すべておんなじ展開になるのだって。忍耐と地道なる努力、丹精込めての育てる行為、養う行為、その積み重ねが課題なのだ。また仕事において関わりある命、そのすてに向けての愛情こそが、良き収穫たるものの鍵なんだってことを。これが伴わない限り、十全にことをやり通すことなどできるわけがないのだと…。



理論理屈は、その表されてあるものを、体験をもって理解する、これが伴ってなければ、確実に

こととなる。シニフィアン・シニフィエは、セットになって初めてその意義を、その効力を、持つ、発揮する。天皇が象徴として足りるってのも実はあり得ない。彼は、確実に〜、実際的に〜、事実として〜、天照大神と通じていなければならない。神の声を、ご意向を承ることができなくてはならない。ならばだ、語ってくれれば、ご自身としてのその声の理解を、下々たる我々に伝えてくれなければならないのだが…。

ことはキリスト教の権威としての人々においても同じ。あのバチカンとして、ロシアを、マリア様の御心に、奉献するってなに?。ことは少なくともロシアの司教さんたちがするべきことでしょう?。それを他国の司教がやるってどういうこと?。とんでもない勘違いにてあの組織もその長もあるわ、働いて、動いてる…。ところでロシア正教も既に狂ってるわ。敵国殲滅をどうどうと宣ってある。真のキリスト教組織ってのも、もう世界中のどこ見てみても、あらへん、見当たらないのかも知れない…。「殺すな!」ってのが基本としての戒律でしょう?。また「自身であるが如くにして他者達に接せよ!愛せよ!」が、

でしょが〜?!…。どこもかしこもおかしくなりだしてしまってる。だから〜、このへんてこなのが声を大にして、語るようなことにもなってしまうのだ…。


ある意味、厳密には、人間は、この宇宙としてのシステムにとって、必須にして絶対に必要なるものではない。必要なのは有機生命体としてなる生態系そのものなのだ。人間はその内において全体の管理人としてあるはずべき役目のものになる。その為の、それができる知性たるものが与えられてある訳だ。ある意味、神たるものの現場における代行者、管理の責任者としての存在。その代わりに、何をどれをどう食べてもいいことになっている。ここでの、この課題にたるものに対しての、それの現時点における勘違いはエラーは、金儲けを目的としてその欲望をドライブとして突っ走る、一切合切を果たすようなってしまっていることにある。儲けるためには、もう既に手段を選ばないことになってしまってる。ことは本末転倒以外の何物でもない。狂った機械の群れと成り果ててしまっている。自分としてのその存在の本分を弁えない、意識できないようなってしまった。


           以下に絵を複数枚並べてみたののだが説明がいる。
       最初のもの、これにて表されるのが「天の恵み」としてのものになる。
              上位界からのフローだって言ってもいい。



下位のものにとっては、より上位からのものはすべて「善きもの」でしかない。これとして、そう認じて、受け取らざるを得ない…。これにおいおてのポイントとなるは、下位の存在には、その作用影響力たるものは

絶対に感知/検知できないものであるってこと。※(ついでに言っておくならば、

、上位にその存在を持つ人々に関しては、評価比較は絶対に不可能であるってこと。例えば、Gに関しては批判が多いってな部分もあるのだが、それらの意見は、言ってるそいつらがバカであるってことの証明にしかなってない。マザー・テレサにおいても関しても同じこと。こと自らを、実際の生存において高めた高次の存在となられ得た人々におけるその真実など劣悪にして未だ低次にしかいない、その存在に在る我々赤の他人が分かり得ようはずもないのだから。ならばだ、黙ってろ!だ…。)これに関して、簡単な例を挙げるのなら、天空の星々からの影響力ってのがいい例になるだろう。これも上位階層界、その全部全体からにのものにおける、その一端でしかないのだが…。これも、これにおいても、どうしたものかいろんな複雑な作用を、それぞれの星が独自に持ってしまっているのでややこしい。相互間の運動の違いにおいて、それらからのこの地球の地表に向けての放射、それとしてのブレンド配合も割合も、刻々と変わってきてしまっているのでね。占星学がこれに詳しい。この高次からの作用影響力、それは惑星相互間の運動の元、強制と呼ぶにたりる影響力たるものを個々人に対して及ぼしてあるだが、徹底的に拒む阻み難くしてのものなのだが、これに従っての沿っての人間特有のその有り様、変化の進展を総括したものが、あのエニアグラムになる。あれの矢印においての運動展開は、確実に天空における運動展開と等しくしてある。ミニマム化されて、より下位のスケール単位にて、それに沿った形にて、変更変質されてはいるのだが。ことは上の如くしてまた下位も…の話でしかない。この大いなる、見えざる感知せざるの力は、あくまでも導きとして利用すべきもの、そう

利用しなければならないものになる。じゃないとね〜あれやこれやにおいて訳の分からない理屈にて振り回らせることになるよ〜。「な〜んだ、最近のこの自分のヘタリは弱りは、生活におけるノイローゼの性なんかじゃなくて、天空の自分とっての主星が、遠ざかったことに起因してたのか〜」が唯一の正解であることもあるわけさ。また後のいずれにかは、そのすべての外部からの諸影響力から脱出離脱できるようなるべきであることも課題としてはある。また絶対に必要なることなのだ…。真の意味におけるATフィールドたるものの獲得がそのための目標になる。それはエゴの殻としてのものなんかではなくって、…そんなもんなんかじゃなくって〜…、自らの内に、彼そのものが覚醒して在るってことに起因しての、それそのものが放つところのエマネーションによるバリアー…。※既に上でそのイメージについては語ってる。AMのやつ。





多くにおいては、さして重きをもって取り上げられていないのだけれども、この運動としての展開は、宇宙そのものから強制されて、されるをもって、絶えず、いっつも、進行してるってことになるんだ。進行してしまっている。もう既に、常時、絶えず、身の回りのすべてのことにおいて、起こってしまっている事になるんだ。この図にてにある、矢印にて示された展開がそれ。

ことは例えば、重力とか引力、もしかしたられば、空気とか時間みたいなもんとして考え、
また取り扱うべきものなのかも知れない。自覚的にで、それと向き合う必要がある。

この事実に対しては、この運動展開に対しては、そのの対処としての選択は、抗うか、これまでと変わらず、ただ沿って、流されてあるままでいるのか?のどちらしかない。「ことは絶えず、どうしたものなのか、この自分は、いつも間違った選択をしてしまっている…」こういった思いを持つ、感慨を持たれているならば、その原因はこれによる。

※河をもってなにをこれまで表してきたのかというと〜、このベクトルのことなのさ…。

※だからさ、過去に、モメンタムってやつについても語ったと思うんだけど、
 これを逆ベクトルとしての展開において習慣づけなければならないんだ。この逆ベクトルに
 おいての運動展開としての勢い弾みを獲得できたならば、無理をするにおいても楽にできる
 ようになる。それはあくまでも不自然な形態にはなるんだけれどね、
 絶えずいつも、抗うことが、河を遡ってあることが、どうしたものなのか、出来るように
 なってしまっている…。


Re: ちょっとコラム

大気圏外、天空の星々からの影響に関して、これを認めて絶対視する人々がいる。ことの重要なるは、その影響はヒトを構成してある

その影響を果たしてあるのだが、つまりは人工物としての人格にはさして影響を直接的に及ぼすことはないってことが道を分けてしまうんだ。本質と人格との関係性は人それぞにおいて異なってあるものだから。だから、本質においてが優勢な人ならば、ことの事に関しての理解を得るはさして難しくはないのだ。さて、自分は「宇宙天文物理学」たるものは、本来はこの惑星群から地球に向けての影響力に関してを中枢と据えて、研究するべきものだと考える。単に彼方の事象を最先端の望遠鏡、センサーで捉えるだけならば、それは地上の現実に対しては、何の役にも立たない。ブラックホールが見つかりました。宇宙が膨張していることが分かりました。ビッグバンの痕跡、その原理がとうとうついに分かりました!。これらのことが実際の人々の生活において、一体何の役に立つというのだろうか?。それは単なる知的好奇心の満たされにしかつながらない。それだけならば、ハッキリ言って、自分は、お前らは子供なのかと、アホなのかと、思うにしかならない。如何に、我々の現実の生活においての天空からの所々の影響力たるものを研究し又利用するのか、その成果を役立たせ得るのかが目的とされていなければならない。※これは現代おける学問学科たるものが、人間存在、人間そのものを置き去りにしてのものになっていることを言いたかったまで。※如何に人類にとってのより善い未来を備えうるのかを絶対の理念としてあらゆるすべての学問は、持ってあらねばならないのだ。※実際の生活におけるその利用を達成するべく、彼方へ向けての研究を手元へと、最後には折り返して来なければならない。※最後にもう一度、河を渡るの労をとらなければならないのだ。※これこそが最後のインターバルになるであろうから、やはり、人類への愛がなければこの努力奮闘は、覚束ないことになるのであろう…。追記;かってのその古代において星々の運行に当時の人々がどうしてあんなにも関心を興味を寄せていたかだ。種まき収穫の季節を知るためだって?。そんなわけがあるかい!。彼らは最初から知ってた、分ってただけ。星辰の働きが人々の生活生存において如何に背後から強大なる力をもって作用してるってことを。世界各地に点在しているその太古に作られてとされる天文観測所を思えば、それらがやけに遠大なる距離をもって離れてあるってことを思えば、思い当たる至ることは一つ。やはりアトランティスを起源として、それの壊滅をもって、その叡智たるもものは、各地に伝播していったのだと、散らばっていったのであろうとゆうこと。。。。



続いては我々の生存圏において働いてある法則に関して。これもまた結果を通してでしか、その力に関しては知り得ない。その作用力は質において大きく分けると五種になる。これに領域としての概念、その領域特有としての法則を、保証し、それらの発現を形成してある、また永続なるものとして保持してある

たるものを加えたならば六種になる。この六番目のものは、字にある通りに、空によってサスペンドされている。空によって保持されてあるものなのだ…。



我々の認識によって適うのは、ことのあとの展開だけ。天からの降りてきた、降ってきた水滴によって生まれてる湖面における波紋がそれを表している。現実的な内容とするならば、事業たるものの生起、誕生、出現であり、その後の展開ってことにもなる。誰かが何かを始めることとなる。その彼においてはことはあくまでも自然な成り行きでしかないのが真実。ことにおいては良き人間である必要はまったくない。それはあくまでも理由の定かならぬところで起こる。生起して、始まってしまっているものなのだ…。



それら事業は、やがてにおいては、より大きな、近くしての他の事業体によって取り込まれてしまうことになる。吸収合併のことさ。乗っ取りだって言ってもいい。この世では弱肉強食が基本としてのルール。ダイナミズムたるものが引き起こる上での法理としてのものになっている。そこに善悪はない。商法に則っている限りはこれもまた合法なのだ。さて、そうすることによって、主幹としての波紋、波動形成、その事業としての展開は、より強固なものに、活性されたものに、また延命されたものになってゆく。※(これがまた不思議な現象なのだ)。本来ならば、とっくに、何処かで、事業体としてのものは、やがてには消失していってしまうものなんだがね…。その活力を何処かでなくしてしまう。やむを得ないといった展開においてで…。つまりは寿命たるものが尽きてしまうわけだ。だが、もし、安定し、かつ長く継続する、それができる事業となるなれば、それの実際は実体は、国の経済圏の全体を支え、取りまとめている、構成しているその枢要部としてのものでなければならない。もしその存在としてのステイタスを手に入れたともなれば、結果として庇護としての守りの力にも恵まれるようにもなる。この力の正体も、その出どころも自分にはわけ分からんもんなんだがね…。トヨタも花王も三菱も、あれら会社がつぶれるわけがない…。だけれども、そういった企業体となったとしても、絶対的に永続的なものであるとは限らない。より大きな資本、国際政治力の前では、その存在自体も危うくなる場合も、必ずでてきてしまう。強制的にをもって起こってきてしまうものなのだ…。


最後に置いたこの絵は、いろんな事業体が日本経済の全体を構成してんだと、それらすべてをもって回っていることを表すべく入れてみた。これには音が入ってないが、「ジーーーーー」だとか「ガッコン・ガッコン‥」とか「スゥィィィイーーーチョン」だとかの音が、延々と鳴り響いている。「ゥヲ〜〜ムンンン…」だとか「ガラガラギッチョンチョン」とかの音も…。

またね〜色々と古びてききてて、錆がもうひどいことになってるってことも、こにおいては暗示されているんだと感じ取ってね!。実は、全部一回その作動を止めて、すべてのパーツを完全に取り外して、徹底的に各パーツをメンテナンスをしなきゃならないんだ。今は。ことは生活に関わる直結することだから〜、慎重に計画をもって、たてて、バックアップとしての準備も怠りなくした上でー!だ。ちゃんと整備としてからまた元の形に組み立てるっと。モノによっては最新の新開発のパーツ、最新式のより効率のいい動力に置き換えてしまう。そうするならば、より長く活躍してくれることとなる。※(ここ古い時計をメンテナンスするビデオ見て学習しました!。)でも、このメンテナンスを怠るのならば、不如意の事故が到来してしまうことだけは避けられないと思うべきかと…。何事においても、先見の明をもってことが起こるその前に、対処たるものを完了しておかなければならない。ことの後に〜ともなれば、そこには倍以上の労力が経費がかかってしまうことになる。一般市民が被るところのその被害は、どうやって補填するの?。また国債刷ればいいとでも?。繰り返しておく、先見性をもって「危機を未然にて過ごす」。これができてこそ貴方は事業に対しての責任者となれる、あり得るのだっと…。






未完




ここにぶち込んだ絵は創造の光においてのその展開の様子になる。
縦に三列の構成になっている。枠線入れるとごちゃごちゃしてくるのでやめた。

補足:自分としての独断としての解釈がここには埋まっている。その説明。
左端に二段。三の法則のビジュアル化でしかないのだが、つまりは能動としての要素(+)と受動としての要素(−)と中和力。これは1とゼロと場へと変更されている。場が特に分かりにくくて、それすべてを成り立たせているものであると同時に閉じ込めている空間としての入れ物のことになる。界面境界面としての不可視の結界が中和力としてのその精髄なのだっと…。

現代科学において対象化しうるそのすべての宇宙は、物質次元におけるものでしかない。
つまりはこれが第六層としての全内容になる。それに視えない形で、更に上位としての次元が
混ざり込んでいる。だから密接に関わり合っている、何処かでは支え合っているんだろう。

右端は上位界の転写をもって下位はできているってことを表したまで。ただし、その下位としての質、独自の環境において、劣化もしくは変更が大きく為されしまうことにはなるのだが。
絵においては輪っかとしての三階層としてのものとなっているが、これが七枚あると思って下さい。

なんとなしにこのモデルに「合点がいくのかどうか?」が実は剣ヶ峰。もし受け入れられないなら違うモデルを考えなければならない…。この自分としてはやめときなって言いたい‥時間の無駄でしかないから…。

代わりに自分がやるなば...

物質には元から進化としての自己創発性なる要素が潜んでた。これはあくまでも法則に基づいての顕現でしかない。最初のビッグバンとしての現象においてのその原因は分からない。だがとにかく爆発的なるエネルギーの出現たる事態があったのだ。それが冷えて物質と化してゆく。あとは重力やら引力の作用において物質同士が結びつき新たなる物性を獲得したのだ。長きのときをへてそれらは生命体としての姿へと結実する。そして更に長き時を経て人類の登場とあいなる。これが目指すところは更なる進化の後に「神人」と化すところにこそあると…。

これでゆくと…何処かで巨大な断絶がどうしても存在してくることになる。それも数箇所、かなりの落差が。どうしても背後にて働くその物理法則だけではことはそうは整わないんだ。このギャップを乗り越えてことが進展するためには、他の上位からの侵入、持ち込み物を核としないことにはありえないんだ。特にここでは人間の出現のことを前提としてる。それにおいての精神や知性、そして何よりも”愛”たるものの獲得たる事態がだ。こらがもし物質性単独においての進化の結果だとするならば、ことは永劫をもってしても不可能だろう…。※これは思考実験においての結論になる。草々




そんで、こっちは、我々が現実、実際に生存している物質性としての宇宙それの創造の様子。
まっこういった感じで物事は創造されているまでで重要なることは、それは未だ、止んではいないってことなんだ。あの宇宙は膨張してるって観察結果においてもそのことは推察しうる。モメンタムだけでことが進行しているわけではないってこと。

っと言うわけで、この宇宙は現在も動き続けている。変化し続けている。

ならばだ、我々にとっての、その生活圏としての世界も、ことの影響、反映を受けて、変化をもって動き続けるにしかないのだ。環境が変化する、外界の事情が変わる、それに合わせて生活習慣も変える。社会も影響を受ける、当然、経済も変動をきたすことになる。良いこともあれば、悪いこともある。でもその変化におけるその根源としての原因は、おそらくは、宇宙の方に、上位界にこそある。

まっその変化の根源としての影響力を、河の流れにおける、その下流に向けてのフローだっていってるまで…。


ことにおいての真実は、実は、ただ一つしかない。

その真実が何なのか分からない人間においてとなると、ことはどうも二面としての考えとなってしまう。つまりは、良いか、悪いか。もしくはトップダウンか、ボトムアップか。選択肢はどうしても二つの内の一つってことにしかならない。これはホント不思議なことなのだ。事柄はすべて分節化をもって成り立っており、日常において我々人類は細かな意思決定を絶えずいつも行っているのだ。ここにマインドなるものにおける広大なる領域ってやつが存在してくることになる。これこそが問題って云うか〜呪いなんだけれどもね…。

閑話休題。狭きものとしてのヒトの世、その世界ばかり見ていると馬鹿になる。自分が貧しいのは、自分の懐が乏しいのは会社が搾取しているからだとの考えになってゆく。いやこの現行としての社会そのものがおかしいのだとの考えが生まれてくる。この悪しくして、また時代遅れとしての社会制度こそを改めなければならないのだと思うようになる。それもこの自分の、自分たちの手によって!。この考えの理論化、それを行動に移す上での根拠とされたのがあの詭弁になる。かって、ヘーゲルが、神への回帰となるべくしての人間の精神活動を、弁証法として詳述の上、総括したのだが、それは前提として、神の絶対存在を元々から据えている。ある意味あれは正しい。現場が正しく理性を発展させるならば、やがてにおいて、正しく神たるものを理解して、それとの合一、一体化を果すってことなのだが、語りは余りにも回りくどい。そんなややこしい頭の使い方しなくたって、神様がいるってことは子供でも分かることであるはずなのに…。とにかくあのヘーゲルが論理的に詳述したその轍を、反転してみせたのがかの資本論になる。これにおいては下から上へしての進化ってことに徹している。それもまったく神なるものなくしての、あくまでも自然ってやつの援用においてだ。この場合その自然ってやつは余り物漠然としたものでしかなくなる。

もう端折っちゃうけど、全体としての理解が失われて、それは上位としての視えざる存在を敬うってことに端的に収斂していってしまうものなのだが、あくまでも上辺としての形、具体的なるものにしかもう注意を払わなくなってしまったのだ。そして、このことはあらゆる長とされる人間たちにおいてもおんなじことになってしまててた。簡単に言えば、二世三世としてのもの、初代からの引受担当としての人間。これらにおいてもまた同じくして、本源たるものを見失ってしまってる。でっ、現場においては、もう管理監督を行うバカと、現場において不平不満ばかり云う、自分では何一つとして益となることを考えられない考えつかない、実行力もなにもないバカとだけになっちゃったのだ。どちらにも本源としてのそれとして足りるものへの理解が失われてしまてちるのだ。ことは現行の形においての、過去の踏襲としてのものでしかなくなる。単なる反復。何か新しいことをやるにしても、それはまったく畑違いの、異国よりのお仕着せとしてのものでしかない。あのISOなんてのはズバリそう。自分たちの生きてある足元にその根を持たないものだから、それもまた単なる上辺としてのものにしかならない。

本質とのリンクを失っている以上、その事業は段々と左前になってゆく。機能不全へと落ち込んでゆく。上位界からのその視えざる糧を、正体不明としてのその必要物を受信できなくなってしまっているのだから。簡単に人間のこととするならば栄養不足。酸素がえらいこと薄まってしまてて一種の酸欠状態ってことでもある。なのでそれのパフォーマンスは極端に悪くなってゆくばかり。ことの原因が分からず、訳のわからん理屈や詭弁に基づくのみにて、ことへの対処をおこなうものだから、更にどんどんとその症状は悪くなる、悪化してゆくばかり。会社として財布の紐をきつく縛るようになるし、現場においてはモラルとしてのものが、つまりは士気が著しく低下してゆくことになる。貧すれば窮するがすべてを色濃く染めていゆく…。

自分はこうやって訳の分からん理屈をこうやて展開してきているけど、これには、実は、なんの効力がないだろうな〜って思ってるのさ。ことは現実的かつ具体的にでなければならない。身に沁みる、その身につまされるものでなくっちゃ誰も分かりゃ〜しないって…。覚醒するこた〜ないって…。

誰においてだって、求めるは収入の増加でしょう?。自分の財布にどんだけ入るのかだけ。これが着実に堅実に長期においてアップしていけばいいだけの話でしょう?。ならばだ、結果が如実に知れるものにしてあげればいいだけの話し。その結果に基づいての給与大系に変えてあげればいいのさ。ただこれだけのこと。でも意外とこれは、そのモニターとしての画面ってやつを用意してあげるとなると大変なことになる。だから殆どの会社ではこれができていない。できてそうなのは京セラとキーエンスぐらいじゃないだろうか?。

ことはゲームとしてのものしてあげればいいんだ。みんなゲーム大好きだし。それもパーティを組んでのものってことはもう定番でしょう?。現行においては実際はそうなっているんだけれど、ことは視えない。まったくどうなっているのかが分からないままだ。

あることはこの自分においてどうしても不思議なんだが、会社員としてコスト意識のあるものはほとんどいないよ。つまりはだ、このことは何を表しているのかと言うと〜、自分の仕事において収支が掴めていないってことになる。いくら何につかって結果どうだったのかが、自分が属するユニットにおいて厳密につかめていない。またその結果が自分の給与にどれだけ反映するのかがピンとこない。これは会社にこそ責任がある。そのモニターとしてのターブルを用意してあげなければならない。そして給与規定において、どの数字がそのままに、どうあなたの給与に反映するのかも伝えておいてあげなければならない。自分としては給与の半分は変動費化すべきものだと思うんだがね…。ことの結論は営業利益においてってことになる。


こうなってこそ初めて社員は真のコスト意識ってやつものを持つことになる。そして、のんべんだらりとただ単にルーチンの仕事を粉してハイこれで仕事終わりってことを言わなくなる。会社におんぶに抱っこってことで社員として当たり前だってことを思わなくなる。この会社としての資産を利用してなにが自分においてできることなのかを真剣に考えるようになるだろさ…。

真剣に生きてこそ初めて理解されることもあるわけさ。倫理、道徳たるものは絶対なる価値として会社としては定めておかなければならない。その制約においてことが為される突破が起こされたなら、あの失われてあった上位界からの流入ってこと新たに再開されることになるであろう…。





これの後に続ける内容は、ことにおいてのその理解が適う適ってあったのは初代だけだってことなんだ。だが、事業そのものはともかくも、人間としてのその初代さんは、やがてにおいては、その席を、嫌でも誰かに譲らなければならなくなる。人間としての寿命があるからね。そんで、彼が偶然にも獲得できたことの理解たるものは、その彼と一緒に失われてしまうが避けられないんだ。

では後に残された者たちのおいてはどうだ?。

できあがったものの上において、あぐらをかくまでのことでしかないのだ。
本質的なる事に関しての理解は、それらにおいてでは、欠落してしまっている。

ここにおいて、初めて、対立関係たるものが生まれてくることになる。

この対立は事業たるものの本質を棚上げにした上での、
本末転倒をその原因とする、勘違い基づいてのものになるんだ。

全体をもってしての、こおれが統一見解となるべくしてのものなのだが、その理解が
だれも彼にも、関係者間においては欠落しまうようなってしまうのだ。

ならばだ、後はには、もうそこには動物次元における弱肉強食としてのダイナミズムの顕現しか残らない。もうそれとしてでしかあり得よう訳がなくなる。

統一見解が失われたならば、もうみんなやるべきことが分からなくなってしまう。
もう、それを、誰もが皆が、やらなくなってしまうようになるのだ。

※ここでの統一見解とは、事業は、それは天につなってある世界樹の如きものだと、
 宇宙の全体を支え、そのメンテナンスを果たしているものと

だとする考え。

だから、ほんと、残されたところの、無知なるの極みとしての人々間におけるその対立現象は、無意味にして無価値、自壊としてのそのナンセンスにしかならないんだ。

階級闘争もずばりこれとしてのもの、ファンタジー、幻想、幻覚である。

立ってあるその立場の違いだけで、ことの核心に関しての理解の不在こそが、
すべての原因なのだ。

どちらもおんなじもの。

だから、バカが、他の身近にして自分の生活に関係のあるバカに対して、
腹立ててる憎んでいる怒ってるってなことが現実、実相でしかない。

まったくもってバカバカしい。


すべてをあるべくしての一律の元に還さなければならない。

先の統一見解をすべての関係者が持って、
それを尊び大事にするをもって仕事には取り組まなければならない。

理屈としてではなく、事実真実としての世界観を、各自が取り戻さなければならない…。

この辺のこと長々とやる予定。


でも、今は、ここまでとしておきます。



一週間以内に、追記改稿いたします。


草 々


天村崇



総括は、ことが済んで後に、ことがなったその後で、それ

おいて、
適うようなるのだ。そうなってこそ初めて出来得るものなのだ。

ではその総括たるものは他の未だ未経験の者たちにとってどんな役に立つのだろうか?。

まったく役に立たない。立つわけがないのだ。示唆ヒントとしての意味を持つこともないだろう…。いや、むしろ、何故にか、その者のこころの琴線に、妙なり手触れてしまうが為に、ほんとうのことだから故に、むしろ余計な混乱を、騒動騒乱を、引き起こす、この原因につながらんとも限るまい…。

ならばだ、ひとつひとつの行程を、微分をもって語り、それに逐次同走することにおいて、
実際に全容を確認していってもらうにしかないではないか!。

ニュービジネスを、新規事業を、新たなる自分による自分の為だけの収入の為のその事業の達成をやってもらおうではないか…。これから後に、無事安泰に生き残るためにはこれが一番。ただ自分とその家族の幸せを思っての願ってのものだけでいい…。

教育において、教えるべきことの最重要なるは、「タダなるものは何一つとてない」ってことなんだ。では必要なるものをどうやって手に入れるのか?。対価としての[労働]が、果たさなければならない。これは世界においての、とっての、”お役立ち”だってこどだけでいい。

今生において世界は方円の器の如しってことも教えておいてあげなければならない。ことは巡り巡ってやがてにおいては、この自分に還ってくるもんなんだと…。自分の家族に自分の身の回りの人々に、いや、もしかしたら孫子子孫達において、そのことの反映はもたらされてきてしまうものなのだと。宇宙は、この世界は、完璧にまた厳密に、その負債に対しての精算を果たすようできている。だから、下手な考慮は必要ないんだ。狭量なるをもって、せこく計算高くあってはならない。ただ、真に世の中の為になることに、誠実をもって励んでいれば良い…。

さて、ここで仕事、商売たるものについて、改めて整理してみよう…。

ことの核心的なるは以下のまとめにて足りる:

①何を、(それを)②如何なる仕様において、③誰に、④いくらでドレだけ販売できるのか?

⑤として、実際においての営業利益の確認をもって、それがプラスであることをもって、この仕事は、

、有効なるもの、自分にとって、実入りのあるものであるってことが確定されることとなる。”合格”です。

②が、当方、この自分が真に果たすべくしての役割、パートになる。相手方にとっての、その相手が今ある現実に基づいて要望してあることに対して、最適化された形で、ものを整えて提供ができるのか?、そうすることが本当に実際、可能なのか?ってこと。このことを、社会一般においては「付加価値を付ける/上げる」って表現しているまで。

まっいい…ことはお話しとしてではなくて、現実においての話しなので、できると、できたとしよう!。また、他のことも明確にハッキリしてるとしよう…。ならばだ、ことは、あなたがこのビジネスの所有、管理、支配ができるのか?という、また違う次元における課題たるものが現れてくることになる。

ここで言いたいのはだ、すべてが明らかになった時点で、もうそれは、他の誰であっても、参入が適うようなってしまってる、ってことなんだ。現実において有効なるってことがハッキリと確認されてしまった以上、実際に儲けたるものがあり得るのだと分った以上、それを奪いにくるやつが必ず出てきてしまうことになる。そういうもんなんだ!。その相手はもしかしたら身内、仲間、同士である場合もあるかもしれない。いやハッキリと言うと、ことをが知れずにいられないのが正しく身内としてのその彼らとしての存在なのだ…。※技術ノウハウをもって海外の企業に渡ったってな話もよく聞くよね。また、赤の他人、外の、他の会社組織である場合もあるにはある。とにかくにも、絵空事ではなく、ほんとうにそれが旨味のあるビジネスであるならば、競合の的にされることは間違いあるまい!避けられないと自覚するべきなのだ。。※コンビニの戦略を見れば分かること。また自社ブランドにてすべての商品を置き換えようとする大手スーパーにおいても…。イオン…。

この展開が先の動物次元における弱肉強食としてのダイナミズムの顕現ってことになる。尽くに浅はかで、浅ましく、またおぞましさの限りをもてしてのあり様、そのヒトのあり方なのよ…。それが普通の一般社会人としての行動原理ってやつになるわけ、なってるわけさ…。※必読書として、「ナニワ金融道」(漫画)をお勧めしておく。必ず読んでおくように!。

ことが、これとして収斂するばかりであることには、「何故だ?」との問を持つべきだ。そして、少し考えてみる。そうか松下が真似したと呼ばれたあの話がなぜだか思い出されてきた…そうだ、かってのその昔のソニーは製品開発において先鞭をつけるのがその会社としての理念だったっけ…。

簡単に言えば、上の①〜⑤が、彼らにおいてともなれば、自力では埋められないからなんだ。
基本、最初はすべて歯抜けの状態だからね。また、現実においては、どれから埋められるのかは、べきなのかは、最初はまったくもって分からない…。すべてが未知なんだ。ことが確定したそのあとならなんとでもなる、

のだけれどね‥。

とにかく、リスキーなんだ…。誰もやりたがらない。失敗、損したくないから…。破滅破産したくないから。皆から侮蔑糾弾非難としての眼差しを浴びたくないから。できあがった仕事を引き受けて、取り上げてやるってのが一番安全なのだから。その上で、良い目をしたい、旨味を味わいたい、そんで、そのビズネスを、この自分の牙城だとして、ずっと担保、キープしときたいだ…。

これも実際においては難しいんだ。機械的な反復を自然は許さないからね。必ず、既存の事業を企業を「守る」においても、変化を余儀なくさせれてくる、変動としての波は現場に押し寄せてくることになる。※ここなんか現代の日本を語るにおいては適切な箇所になるな。そんで、バカどもは現場において何をするのか?したのか?。リストラだよ!。正社員を減らして派遣へと切り替えた。やるべきことをせずして、あくまでも後ろ向きの、帳尻わせとしての対処でしかない。そうことしかできない人間ばかりに今の日本はなってしまっているのだよ‥。



ことにおいて、同情理解をもって眺めるならば、分からなくもない…。
みんなリスクを取れるわけではないのだから…。
安全に安心して生活を送りたいだけだ。

家族のこともあるし…。

そんな激しくばかりして消耗のみが続いてゆく、

どうなるかなど皆目分からん、そんな博打みたいな行為に出るわけには、

自分としてはいかないっと。


これもまた、動物としての、その本能次元からの普遍的にして絶対的なる要請になるわな。

ならばだ、もう人間として生きるのは諦めて、

動物としてただ生きて、そんで死んでいきゃ〜いい。

どっかで野垂れ死ぬ、それはそれで構わんだろう。

だが、決して、他の、ヒトとして生きてる、生きようとしている人々の、

その邪魔にだけはなんなよ!。



改めて:

①何を、(それを)②如何なる仕様において、③誰に、④いくらでドレだけ販売できるのか?

何かに、自分の属する組織において付加価値をつけるってのが絶対の条件。また前提。
自分によってとしてもいいのだが、個人ではやれるってことは、たかが知れてる…。

だから、間違いなく、自分が属する会社の事業形態による制約たるものが間違いなく備わってしまっているとするべき。自分なんかの場合では、それはウレタンという高分子化合物によって作られる製品としてあった。※ここが最初の起点になるであろうから、ある種の制約はかえってありがたいのだ。まったくもってなんの目鼻のない状況では、結果なにをやっていいのか分からなくなるからね。

次に「誰に?」だ。ここがまた大海としてのものであることを重々、認識をしておかなければならない。今度こそ目鼻のない相手であることを覚悟する必要がでてくる。何故ならば、既存の関係市場ともなれば、それは横展開としてのものになり、余り大した成果は、期待できないからだ。遠に既に、誰かがやってた、やってるかもしれないからね。もし誰もこれをやってなかったならば、それは単に会社が怠慢なだけ…。

少し言い忘れたが、あなたは、これから生き死にを賭けたゲームを始めるのだとの覚悟、意識を認識をもたなければならない。このゲームのクリアー条件は簡単。自分が給与として会社もらっている、受け取っているその額を、新規の営業利益として、自分が属する会社にもたらすこと。補填することだ。

これができてこそあなたはその会社にいてもいい。これができない場合は、あなたは会社に養ってもらってるって立場にしかあらない。それでは、いつかは、いつまでも甘えているんじゃね〜よ、依存したまんまでいるんじゃね〜よって、会社に言われることになる。

この辺の自覚が覚悟が、徹底して、もう完璧に、失われていたんだ。自分かって所属した会社のそのすべての社員においてでは。原価意識がなかったんだ。あくまでイメージ。大成功とか、大きな商売だとか、大手との成約だとか…。なにやら夢において異常なるまでに頑張ってたまで。客観的な意味におけるその厳正にして厳密なる純利益へのこだわりが、それの達成、絶対に獲得すべきものとしての志向が、欠けてたんだ…。

ことは自分がもらう、もらっている分だけではダメなんだ。それだけでは足りないんだ。上で営業利益においてって表現したけれど、自分の仕事を影で支えてくれている補佐としての業務を担ってくれている管理部や研究部の社員の分も当然、この自分が、外部との関わりを実際担っている持っている営業サイドとしての自分が、面倒みてあげなければならないんだ。だから、絶対に、粗利ベースだけで、それの%だけで考えてちゃダメなんだ。

意外とね、営業利益としての%を、各商売ごとに、厳密に知れる会社ってのも少ないんだ。もしかしたらないかもしれない。全体としては出せても、自分が獲得構築したそのビジネスにおいてともなれば、それは難しいことかも知れないんだ。例えば、何の数字、なんの数字をもって、全体の管理費を研究費を自分関係のものとして按分できるのか?、これが難しいんだ。自分は売上金額や総量とにおいてやってみたが、結果は完璧に赤字となってしまった。でも、これは絶対にあり得ないことだったんだ。何せ粗利ベースとしてならば40は確実にあったわけなのだから…。それもこの数字を死守すべくあらゆる努力を重ねてきてね…。

ならばだ、管理費と研究費としての総経費を如何に自分の受け持ちとして算出するのか?、この判断が、これの方針決定が、大変難しいものだってことになってきてしまうんだ。ことは、おそらくは現場の判断、その手からは離れてしまっている。※ことは、こういった個々のビズネスの実体が利益をもって把握できるように社内の情報システムを構築しておくにしかない。そうするならば管理部や研究部における個々の仕事、その実際を洗い出す作業が必須になってきてしまう。現場はそれを嫌がるだろうね。それに連れて、生産的な仕事をまったくしてないってことが、単にルーチンワークしかやってないってことも、明らかにされてしまうことになるだろうから。では、そんな奴らに、なんで高い給与を会社は支払っているんだ!?ってことにもなるわけさ…。社長は彼ら管理部と、ナアナアとしてのグルになるのではなく、突き放してしまわなければならない!。各事業部とダイレクトな関係をもってしてのタッグを、奨励してあらなけらばならない!。※ここでの懸案事項は、如何に税金を少なくする納めないですむのかに気を揉むことにある。そこに面倒くさい嘘八百の操作が為されてしまうわけさ。これもね〜小賢しいことなどせずに、たくさん山程稼いで、税金も法定通りに、全額支払ってあればいいだけの話し!。※工場における労務費の按分方法も実は課題としてはある。既に粗利の時点では彼らにおいての給与経費は差っ引かれてしまっているのでね。中々に、あそこにもメスを入れにくい…。

追記:社長さんはね〜、組織のトップとして君臨する人間は、よっく自分のその身の振り方ってやつを、その有り様を、注意して自覚しとくべきなのだ。その一挙手一投足が、組織全体の運営に、影響を与えているのだということを知っていなければならない。もし姑息な考えで経営に臨むのならば、臨んであるのならば、ことは当然なはなし、社員の皆も姑息なる考えにて、その行動に走るようなるのは確実だ…。これもある意味、不思議な話しさ…。近しくしては、身内なるものは、どっかでは確実に通じて、通じ合って、しまっているんだろう…。

生産現場たる工場における労務費についても少し語っておこう…。

基本、地方の辺境エリアにてそれは持たれてることになる。

税制の優遇があるのでね。

そこの、その田舎に住まいしている方々が工員として採用されるのが普通一般通例。


こっからは偏見として…


彼ら現地の皆さんとしては、できるだけ月々もらえる給与を上げたいって思いにて、
日々働かれているだけなのさ。元々、そんなに志ってやつが高いわけでもない。

ここに彼ら現地工員としてのゲームが引き起こってくることとなる。

月々の自分の口座に会社から振り込まれてくるその金額をできるだけ、可能な限りにおいて、
増やす、ってのがだ…。

合理化だの、現場におけるコストカットだの彼ら皆さんからすればどうでもいいことなんだ。

ことにおける、ことに関わるその有効なる操作レバーは唯一。

残業を、如何にたくさんできるか、するのか、
あまつさえ、したことに、出来るのかってことなんだ。

他に収入を増やす手段は彼らにはないのだから…ないのだし…。

そして、それは何よりも、魅力的だと映るのは、残業代ともなれば、
それは従来と比較して、かなり高額、破格の金額が、
上乗せされて支給されてくることになるのだから…。

出来るだけ稼がせてももらうが彼らとしての本意なのだ。

※(これは実際、入社希望の、現地の女の子がハッキリと面接時に言ってた言葉になる)。

これしかないんだ。

他にやることやりたいこと、やるべきこともないわけだし…。

副業と成り果ててしまっている農業の方は、
もうさっぱり稼げんことになってしまっているわけだし…。

何を言っているか分かるだろうか?。

彼ら工員にとって、会社全体としての合理化だの効率化など、どうでもいいことなのだ…。

分かりたくもないし、聞きたくもない話しなんだ。


追記:

ことが、その生産拠点が海外となった場合には、もっと悪質なる展開となる。これは絶対に避けられない。言葉文化の習熟がこちらとしては不可能になるからだ。ダミーとしての会社を複数用意して、当然勝手に、そこからの資材購入、もしくは販売の体裁をつけて中の金額を抜くわけだ。これが一番簡単で安全だから。本国の本社からは分からぬよう見えぬようしやすいからだ…。こと海外においてのオペレーションともなれば、監視そのものが大変に難しくなっていって、しまうんだ…。


ここで本論に入るその前に、w、もう二題を絵において観ておいてもらおう…。



このモデル図において注目すべきなのは、何故に両端にて位置するビジネスのみが儲かるのか?になる。自分としてはこの事態たるものには予予不思議に思ってきてるんだ。ことの事態はどうしても破ることができない。この絵はあまり現実的ではないのだが勝手に要約してしまうのならば左は完全に巨大生産設備を構えたところの産業でありその強みはそこにこそある。

。おいそれとそれは購入できないし、それにおける設備の操作も素人ではできない。事業の背後にては、そのバックには、国が間違いなくサポーターとして控えている。石油コンピナート、発電所なんてのを思えばいい。さて、右端にて君臨するは製品の陳列棚をかこちている事業者だ。スーパーマーケットとかコンビニとか、末端エンドユーザーへの直接的なる橋渡しをしてある/いるのがその会社としての特徴になる。※(もしくは、そういった事業体と、懇意にしている、太いパイプを持っている会社になる)。こちらも又、いざことを始めるとなれば、大変な資金がいることになる。土地代でしょう、買掛金でしょう、倉庫代に商品の運送配達費用に、人件費…。鉄道会社がこれまで百貨店としての事業もやってきてたってのもよく分かる話し。

でっ、あるならば、自分たちがビジネスをやるとなるならば、両端外しての真ん中のエリア内ってことになるわけさ。すって〜とー、この図が語ってある通り、旨味を取るのが大変に難しくなってきてしまう。それは何故なのか?。また、メーカーならば末端製品を作って、直接に一般市場にて販売ができるようにならなければならないってことがよく言われる。これも何故そうしなければならないのか?。いや、そもそも、この忠告、ご提言は、正しいものであるのだろうか?。その訳の一部は既に上で語ってしまってるが〜、ご自身にてその実際をもって考えられるべきかと思いますっと。なにが正解であるのかは一概に言えない。直接的に一般大衆を相手に商売をするにおいても、そこには恐るべくしてのリスクたるものが備わってきてしまうのだから。クレーマーってやつね。因縁つけて金銭を奪わんとしてくる奴、輩ね…。



これもモデルとして観てね。たとえ、自分としてのその商材が、ソフト系のものであったとしても、このモデルは十分に有効になる。なんにおいてであったって〜、ことにおての本質ったやつは、まったく同じなのだ…。

先に、ガイダンスとなるべきものを言ってしまうのであれば、各自にとってのニッチとしての市場を狙えだ。それも、いろいろと入り組んだ、参入障壁が自然とできあがってしまっている市場をだ。外からでは簡単に見つけられない、発見されないってやつ。間違っても大手との、資金力技術力のある会社を、ライバルとしての相手にすることのないように、しなければならない。また、売上の回収は、絶対、100%で、なければならない…。


では、自分がことを行ってみての、その過程/渦中において、考えたこと、感じたこと、そして思ったことを、これより後は、語らせていただくこととしよう…。





直感においてが、それによっての認識がすべてだな〜。

それは、中にて、その渦中にあってこそ起こる叶い得る、認識だってことになる。


非常に複雑にしてデリケートな対流がそこにはあるんだ。

それに対して、こちらの思惑においての、それの利用方を見出すんだ…。

発想する。企画する。何らかのビジョンが間違いなく必要になる。

これを投影するにおいて、その後の努力は重ねられていくこととなる。

ことの始めてに、ハンチ。直感。感触。是等としての何かがなければならない。

タイプ4としてのこの自分の強みは、あくまでも感覚的なるものに基づくことにおいてなのだ。

不思議なのは、どうしたものなのか、感覚を通してかなりの要項が自然と読み解かれてしまっているってことにある。これは学校教育における勉強ができるできないの次元としてのものではない。状況認識、状況把握としての能力、そのキャパに関わってきてしまうのだ。

ことわだね〜、常識としての、それとしての縛りからは隔たって一人だけで立つことができなければならない。これは通常の人生を送ってきただけなら無理なんだ。某らかの、逸脱、転落、陥没としての事態を経験してきないその限りにおいては‥。だから先の現実を踏み外すを題としてのものを最後に付け加えたのだ。

これまでの人生において、取り立てて何の障害もなく、無事すくすくと育ったというならば、そうして社会人になってしまっているのなら、ことは難しくなる、というよりも不可能であるに近くなる。そう言ってもいいだろう。

そのマインドによる、それにおける自動性を、かなぐり捨てるをもってこそ、初めてそれでも考えたり動いたりができるようになるのだから。意外とね、これできないんだ。自分の自動生に気づいてないだろうし。でも、その常識ってやつこそが実は実在のもの、常在のものなんかではないんだ。それによって、それに基づいてで叶いうるのは、あくまでもその常識が通用する有効である観念としての世界だけの話さ…。

ことの本質にして重要となることは、見えざるものを観ること、それにおいて判断理解をすることになる。難しいようで、実はそれを行うにおいての能力は生来から人間は持ち合わせているんんだ。直感とか本能的にとかが、これに関する類する言葉表現が、その能力に関わってのものになるんだ。繰り返しておく、知性とかマインド単体ではまったく役に立たないんだ。それが受け持つ守備範囲じゃない。もっと原始的にして本質的な領域こそが、ことの処理に際しては、主導権を持つべきになる。その状況に対して、自己を開いてあらねばならない。

これが難しいん。正直ほとんどの成人は、もうこれできない。できなくなってしまってる。
そうなっても出来る人は、裸一貫、命を賭けて、自分としての自分にとっての事業をなさんとして有る迄の人。背水の陣をもってことに臨んでいる人のことになる。

これも繰り替えておこう。頭だけの人、理屈だけでなんとかことを改めようとしている人になんか絶対に無理なんだ。分からないこと、気づかれないまま見落とされていることが、余りにも多くなってしまっているから。それでは本当には誰も、自分も、幸せ、満足にすることはでき得ようわけがない!。





ちょっと気分転換に、エニアグラムを、人格を構成してあるそのタイプ論ってやつを…。

※ここはね〜、ハッキリとは語ってはいないんだが、あることにおけるその有効性、
 もしくはその絶対性を、皆さんなりに確認すべくしての部分なのだ。敬具。

この絵にての表現でおもしろいと思ったのは、単なる怒りに対して、またことが正しく行われていないことにおいての、その義憤としての怒りが特徴だっとしているところ。また、知性においてのいらぬ心配/杞憂、それをもってしての恐怖が強力に作用するだとか、メランコリーとしての憂鬱が囚われとしての癖/傾向であるって表現しているってところ。これはこれで素晴らしいまとめだと思う。※これですべてでは確実にないんだけどね〜。

世間一般にて語られてあるあの各タイプの呼称はあくまでも便宜的なものでしかないからね!。例えばこの絵においてはでは自分としてのタイプ4は「イノベイター」ってことになっている。この表現は珍しいのでこの絵をもってきた。従来は、世間一般には、「芸術家」だとか「個人主義者」ってことになったるんだけどね。一概にあれだこれだと言明することはできないんだって。単純にこれらのどれかの言葉にてそのタイプを考えるのであれば間違いなくそのヒトは何も理解できてないヒトってことになる。ことの起こるその背景にて蠢いている感情だとか知性だとか本能領域だとかの関係関連性こそを理解しなければならない。そこに各人各様なりの偏向/癖/習慣っての驚くべく多様にて備わっていて発動しているまでなのだ。だから、一概に言葉で括るなんてことはできないんだ。さて、この自分の、今生におけるその持って生まれた特徴に、「二黒土星」だってのがある。これは四柱推命におけるその表現になるのだが。特徴というよりも、定めだとか、役割だってことでもあるのだが。

その意味は、「畑の土」であるってことの言い換えでしかないんだ。
これとしてが自分としての存在の意義になるんだ。
では、果たして「畑の土」ってやつの、その有効性とはなんなんでしょうか?。

イノベイターだとか、芸術家だとか、個人主義者だとか、畑の土だとか、自分としては、全て、全部「しっくり」来てしまうんだ。なるほどなって。そうなのかって…。自分では、この回答はみつけらんかったな…たどり着けることはできんかっただろうなっと…。

このタイプとしての自分は、それのみに留まるわけではない。本意/不本意においてで、その立場を移動することになる。自動的に、また強制的に。そうされて、それにおいて、然るべくしての正しい生存/行動選択を果たした上において、もう一度自分のタイプとしてのその定位置へと戻ってくるんだ。その上でこそ、各呼称呼び名としてのものは初めてその意義を真に持つこととなるっと。

占いの根拠となるのは、生年月日と姓名におけるその画数。これらが何を指し示してあるのかと言うと〜誕生時における天空の星々の配置でしかない。画数はその人物が背負っている背負わされてしまっている今生における”質”もしくは”役割”、それを判じる決定する上での根拠。すべては数字にて、還元しうるんだとさ…。

なにを言いたいのかと言うと〜、星辰によるその影響力はあらゆるすべてにおいてでは働いているんだよってことを改めて訴えたかったまで。すでに、だいぶ上の方でも一回やってるんだけどね。星々がその配置を変えて動いている以上、あれらによるおけるこの地上に向けての作用影響力も刻々と変わっていくまでの話しなのだ。

こちら受け手としても変動せざるを得ないんだ。刻々と変化させられていってしまうんだ。その偏向をもたらす作用において簡単にまとめるならば、更に下流に向けてか、それとは逆の上流うに向けてとするのかの二者択一の選択になるんだ。あくまでも生来の気質のままに反応反射してゆくまでなのか、それに敢えてをもって逆らって、違うことであってもチャレンジしてゆくのかの違い。ことはどちらにしても、今ある状況こそが、それがどうあることになるのかを教えてくれる。

起点たるものは天空にこそある。

ある意味、我らはそれの、それからの操り人形でしかない。

で〜も、選択肢がないわけでもない。

繰り返しておく。

今ある状況こそが、どうする、どうあるのが、貴方としての、選択になるのかを、

突き出してくれている。指し示してくれているのだ。


ついでに、
自分を取り囲んである、この自分を含んである世界に対しての認識、その様式において、
各人違いがあるってことは、このエニアグラムにおいてのみの開示だと思う。

その要旨は:

自分を世界に対して小さく感じてしまう。
    (自分を必要以上に卑小なるもの、無力なるものとしやすい。)
自分を世界よりも大きく感じてしまう。
    (簡単にははジャイアンになりやすい。支配的な傾向性が強い。

気質。)
ちょうど、釣り合った形で感じになる。
    (何事も気負いなく普通な感じで対応できるんだろね〜。)


このことも人間には選択権はないんだ。

これが、それが、その人間にとっては、一生を通して、

世界感受におけるその様式として残っていってしまう。

これもまた用いよう。

世界に対して臆病であるからこそ、いったん、その勇気を振り絞って、ことに挑んで、臨んだならば、奇跡としてのなにかが起こってしまうことになるんだ…。天使が、その貴方を助けるべくして、天より舞い降りてくることになるんよっと。嘘!。意外に、ことは簡単に達成できてしまうもんなんだ。行く手を阻むそのすべての障害は、たとえ一時はタフなものに思えたとしても、そのすべては実は幻想幻覚。諦めずに挑み続けるならば、必ず突破されることとなるっと…。

※タイプ4、(これはいたく自分を小さく感じて覚えてしまうものになるのだが)、それにおいての自己としてともなれば、肝としての、それに切り替えての、これをもってしての自己の発現が阻害されてしまってる。下手。その部位センターとの相性がいたく悪いことになってるんだ。そこで強制的にをもって、このラインを回復させるがプラクリティとしてのご采配ってことになるんだ。あえてをもってしてで、外界の感受において自己を卑小なるものとして意識するようにしといて、そんでその状態にて、外界との関わりを避けがたくしてやる…。逃げるか、立ち向かうかの選択をその彼に強制するのだ。まぁ〜理性的なる選択において彼はまず逃げることはできないし、しない。その彼にとってのことの渦中における確執によって、常日頃使うことのなかった部位としての肝とのリンクが使われる、それとの協調が回復されることになるっと。試練とはそういった目的において準備されたるものなのかもしれない…。



もう一題、Re: 直感とはなんだ?

ちょっと説明するともなればとても難しい。その原理に関してになるのだが…。
一つの説として聞いといてもらえればいいかな…。

直接的には、「型としての型においての観を(感知)してる」。
型の近似/類似性をもって、「そこに埋まってある、それが宿してある意味を把握してる」。
類似する過去の記憶におけるすべてのデータが理解においての参照テーブルとなっている。

経験において得られたそのすべての情報は、(これも肉体においての感覚として、感情における味わい、それの好き嫌いの色、そして反応、また知性における微分断片把握とそれらの整理、そのすべてを含めて情報としてとらまえる。)そのすべては、因果をもってしての、それらを切り口としてのストーリー構築によって整理される。されてある。

、それをもってして、整理されるわけさ。エピソード記憶たるもののその正体。

出来事のそのすべては物語としてあるのだけれど、それにおける精髄たるものを抽出しての物語整理が重要になってくる。これによって理解たるもののその実際が図れるようになる。あったことを、あった因果の連続、混合体としてのものを、原資データとして、枢要なるをもって物語としての再構築を図るっと。ことの要約化ってことでしかない。でも、これにおいての課題は、本質なることを見抜く/知れてある/取らまえてあれているってことなるんだ。理解がそこにあるてことでもいい。それをもってしての再構築になる…。

補記:

かなり自動的というか、無意識においてのその作業になる。もしかしたら眠りの間にてこの作業が行われているのかも知れない。

ハイパーテキスト構造だって思ってくれればいい。原資データは、実際の経験は、最下層にてちゃんと保存されている。暫時の、また時を置いてをもっての、その繰り返しをもってしての意味の意義の抽出化、要約化が階層となって構築されてゆく。これがまた「河を遡る」としてのものと同じ例えが採用できる。「枝葉としての現実、その末端から幹本体としてのものを探り当てる」作業だって言ってもいい。※既に暗示としてのものになってしまっているのだが…。この作業がとても大事なのだ。またこれはとても難しい行いであるってことも事実だ。得手不得手が確実に出てきてしまう。

ことは禁断の木の実によって獲得されたところのマインドたるものがあってこそ適う作業だと言える。それはフィールドとしてもので、あとは精髄たるものに対しての感覚反応たるものが道先案内たるものを果たしてこそとはなるのだが…。※(ここはあくまで観念としてのものだけではないってことを、それだけであったはいけないっとことをいいたかったまで)。要は、とにかく、この作業は、人にしか、できないってこと。

をもって、ことにおいてのそのすべてを再構築する。最終的には煮詰まって、至極簡単な物語となっている…。不思議なことにこれにすることによって、その記憶はほぼ永久に記憶されてしまうことになる。エピソード記憶たるものは、もう永遠になるのだ。それも、絶えずいつでも簡単に、そして何よりも自動的にで、

、できるようなってしまっている。

こういったことの上澄みとしての物語を、いくつもっているのかが重要になってくる。
これは、ちゃんと経験を積み重ねてきてるってことでもある。
事後に、ことの一切を、ちゃんと正しく、奥深くして、理解もできてることでもある…。

物語として、それと化したる自分の過去を俯瞰するをもって、何か(真実)を抽出してる…。

直感たるものは、その本質は類型比較としてのものなのだ。類推こそがその命。それらあれらが持つある種の型たるものが、

、もしくは

、起こしてしまうものかもしれない。この現象、事態をもって、

一遍に呼び起こされてしまっているのだ…。そして、この一切が思い起こされたるの事態、その中、俯瞰においてで、改めて、新たなる認識たるものがなされてあるのだ…。これが直感たるものの、その正体、その現象…。

この型、形として認ずる、認じてあるにおいて、ことの比較対象としてのその対象が、あの上澄みとしての最終形態としての物語になるんだ。最大公約数としての概念をキーとして、鍵として、ことにおける類似性を確認してみてるってびがことの実相。すると、引っかかってくるものはもう自動的にて、瞬時にて、頭脳においてでは、

識別察知して、知らせてくれているってことなんだ…。

人間は、すべてを、物語の形態にて、その

、とらまえて理解している。これがまた救いとしての可能性たるものを保証し、また開いてくれてはいるんだけれども〜、また片側では、”呪”たるものともなってしまっている。物語は所詮は幻想だかんね!。現実は現実のそのままにて、その物語たるものの前に、

で、存在してしまってる!。

あれもまた、資本論と言う名の物語でしかないってことを言いたかったまで…。

形でもって、形においてで、ものをとらえ、また考えている…。

人間のみとしてのものだ。

補記:

ことにおいて、別途、独立した真我による識別がそこに介在してないとならない…。じゃないと〜

にしてしまうこととも限らんではないか!。うんこカレーを作って自ら食べてしまう!。これはまあしょうがないわな〜。いっていくところが何処にも見当たらない。ヨシとしよう。だがだ!、注意すべきことなのは、ことが起こることだけはどうしても絶対に避けねばならいことわ〜、誰か他のヒトに、こいつを食べさせてしまうってな事態展開なのだーー!。「ヒィイイイーー!」。是非に、皆様、お気をつけくださいましねーーー!。こいつを食ってからのその後では、もう遅いからねー!。w。

実は、そういった‥こういった馬鹿げた展開となるべくしての、

しての罠ってのが、いっぱいあちこちに仕掛けられているんだって…。誰によってだ?。プラクリティそのものによってだ。この自分によっておいてではないからねー!。たとへ、ことそれを作るにおいて、その実力は日本最高峰であったとしてものだ、この天村が、その才能を備え持ってていたとしてもだ!。その事態たるものの到来は、あくまでも、自然に、起こるべくして…。絶対に、この自分、天村の

なんかではないからねーーっと。了。www。


その型においての類似性、そこにおける無限連想となる、ともなりうる、この直感としての作業には、真我たるものがちゃんと横に控えして備えてて、判定を、絶えず行ってくれてなければならない。じゃないと〜、ミスリードを、どっかで自分自身がしてしまわないとも限らない。「それは似てるけど、まったく関係はないぜ」って、ちゃんと識別してくれる、くれてる存在が一緒に側にいてくれなければならない…。もって回った語りをしてしまったが、ある種の覚醒感が、その作業においては伴ってあらねければならないってことだけ。※ことはあくまで一瞬のこと、刹那においての情報処理でしかないのだから…。



Re: インターリュード

タイプってのは、それぞれ各々、育つその環境によって析出されている、きてるまでの話なのだ。自動的に、必殺の必然に〜で。一切は然るべく整ってくる、しまているまでなのだ。

人生において起こるそのすべてのことは、必然としての出来事なのだ。

誰がこれを避けること抗うことができるっていうんだろう?。

そんな人間は、誰も一人もいやしない、いるわけがない

自分においての「何が」、それにおいての対しての、然るべくしての外界の反映を引き起こしているのだろう?。””””としての言葉しか思いつかない。前世においてのそれらの積み重ねにおいて出来上がっている

…。この宇宙たるものの特徴は、即時即応にて、ことの反映がおこっていることになる。合法則においてで、神のご意思、ご意向に従った形で、その作法のままにて…。

すべては自動的なるもの、そうとして発現している。

必然としての展開、その有様としてでしかない。

ただ一つの、たった一つだけの展開、道しかない。可能性としてのその道たるものがだ。
既に確定されてあったところのその現実が、顕現してきているまでのことなのだ。

ならばだ、この自分として託されてある、期待されてあるところの顕現を、徹底的なるをもって、果たそうではないか!。この自分には、元々責任はないんだし。御旨のままにで、せいぜいことに励んでいるまで。そうしよう…。自公大勝しよりよったことだし…。

ほんとうのところでは、選択肢、選択権たるものは、人類には、元々なかった、ないのかも知れない。ことの一切は、その原因たるものは、食することを禁じられていたその実を、口にしてしまったことに尽きる、そのことに始まるだけのことなのかも知れない。


せっかくだから、脱線したろ…

上における””””について。これやったろ…。

これってなんなんだろう?。

間違い、エラーとしての行為がなされたならば、統合体としての全体からは、拒絶されることになる。犯罪者が捕まって投獄されてやがてには罰を受けるみたいな展開。でもね、もしかしたらその当人本人においては間違ったことをした覚えがないかも知れない。自分はだた自分のやりたかったことをしたまでだって。やむおえずそうせざるを得なかったのだって。ここに確執としての轍が刻まれることとなる。これは当人が心から夾雑物、悪い癖、誤ったプログラム、我執としてのものであると、得心して理解しないその限りは、解くことはできない。これが””””。

統合体としての全体は、この宇宙そのもののことになる。これの内に生きいる以上、逸脱、エラー、身勝手、独善としてのその顕現は、一細胞においてともなれば、許されるはずがない。それは一種、癌細胞みたいなもののことになる…。

この宇宙は既に最初から万能にして完璧なので、独自として、その変質してしまった癌細胞を正常なる状態に返す、戻す、復元する作用を持ち、果たしている。大変慈悲深い思いをもってのことに違いあるまい。でも、もしも、どうしても帰り至らないようであるならば、その細胞は、なくしてしまうようするのであろう。火をもって焼滅してしまう。全体性にける害としかならないものなのだから…。

ことの、間違いとしてのその根本は、「 I 」たるものの獲得にこそある。禁断の木の実を食したからこれが誕生することになった。この「 I 」は、頂点としてのものと、なるのが必然で、それては元々は、神お一人が座してある、彼が専有してあるポジジョンなのだ。これがもし不死性さえも獲得してしまったならば、神によっての専制が崩れてしまうことになる。この宇宙全体としての調和がなくされてしまうことになってしまう。

目が一つってのは、トップは一つだけってことの、その表しとなっているのだと思う。ツゥー(2)トップってのは基本あり得ない。ダブルスタンダードってのは、現場においてともなれば厄介なもの/ことでしかないではないか?。そのオンリーワン(1)が、そのような存在を許すわけがない。許せるわけがないのだ。今ある、現存する調和が崩れてしまうので…。

と言うことで〜、その「I」を獲得してしまった状態で、下位としての物質性が色濃い次元世界にヒトの子は移された。落とされてしまったのだ。ここが、そこがまた、たいへん居心地の悪い、生活を送るともなれば、しごく劣悪なる環境/世界としてヒトの子等にとっては感受されてしまうのだ。罪滅ぼし/罪を償う/贖うを行うべくしてのその場所が、その環境が、その刑務所としての世界が、居心地いいわけがない…。そこで味わう【苦】こそが、妙薬としてのもの、罪の贖いの対価となるべきものとして、設定、利用、考慮されているわけなのだから…。

補記:

(よご)れを、

けがれを落とす。不純物をきれに取り除く。キレイな元の状態へと還す。これが本来の世界においての目的。そうすべきである、そうしなきゃならいってことも分かるであろう。これを人の世ではどうやって行っているのか?だ。これが、このことの実際が参考になる。古き時代においては、水にさらして、棍棒で叩いてその汚れを落としていた、洗濯板ってのに押し付けてゴリゴリ擦ってた。今日の現代ともなれば、洗濯機で汚れは落として乾燥させるだ。対流の中に漬け込んで、漬け込まれて、グルングルン回されて、そうやって汚れは落とされるものなのだ…。あっちへこっちへ引き回れるってのが常法にして唯一の方策なのだ…。誰がその渦中から逃げ出せるっていうんだろうか?…。また、不純物の撤去に関しては、高温に加熱して、その不純物を蒸発して気化させて外へ放り出すってのが方法、作法だ。これら以外に、その為に有効なる手段ってのははない!。だから…苦しい思い、情けない、わびしい悲しい思いを、今生において、その生きている限りにおいて味わうってのは、もうしょうがないことなんだ…。*喜び、楽しみも、そのことの埋め合わせとして、準備されているんだけどねっ。ことの一切としてのその総計は、ゼロサムとしてのものなんだろう…。

ことここにおいて、極端に、その人としてのあり方は、その方向性は、変わってきてしまうことになるであろう。苦しみに際して、惨めなることにおいて、

、そして

。そして自力で、力づくをもってして、ことをなんとかことをしようとすることになる。これはより「I」としての自己の強化、それによる突出としての事態を招く、促進することになる…。

追記。Re: この事態としての進展において…。

然るべくあるべきである、整っているべきであろう教育が、今の時代には、もう完全に抜け落ちてしまっている。道徳とか倫理の時間にて、人生における苦に対して、それに接して、これをどのように理解するか?どのように対処するのが妥当なのか?を、幼い頃にしっかりと、教えておいてあげなければならない…。


コラム:

 結婚すると、子供ができると、自由がなくなるってことで、結婚をしない人たちがいる。
 この選択は

になる。だが、ヒトは人格だけで出来てるわけじゃない。
 未知としての動物次元、本能からの欲求ってのもあるんだ。生まれ持ってビルトインされて
 あるプログラムからの要請。これが満たされない場合、その限りにおいてでは、また厄介な
 事態が起こってくることになる。※ことを行うにおいては既に遅くなってからの、耐え難く
 しての欠如としての思い感慨、欠乏感においての寂しさ。この憂愁としての思いが内にて、
 もはや避けようもなきものとして起こってきてしまうことになる…。これは、このことは、
 まったくの想定外の事態たるものが当人等においては、起こる、浮上してくることになる。
 ことにおいて、人間たるものに、他の選択肢ってのは、元から一切ないんだ。あくまでも、
 単純なるをもって、自然としての理に(そく)して、法理に(のっと)って、それに従ってあるのが一番、
 安全で、幸せなることなんだ。この自然としての世界認識をこれの受領を、現代人のその
 すべてが、失ってしまっている…。

 ※ことは頭としてだけの理解ではまったくもって足りないんだ。



閑話休題。

他人より優れていることの証明をもって、この自分としての価値を確認したい。

出来るだけ多くの人から、その相手からマウントを取ってありたい!。

ナダルなんかが、一番分かりやすいその例になる…。

コロチキ・ナダル & 山田杏奈、スタジオの密を避けたい!

https://www.youtube.com/watch?v=4Rt53-3VWBA

有田と同じく、自分も今年一番笑った。

※夕刻から再アップがされるチャンネルになってます。昼間は消去されている。
※あれこそがヒトとしての標準。決してイレギュラーなるものなんかではない。
※あれを、ナダルを、

観るっと。





簡単なモデル図を作ってみた。元々の人間としては左の三角形のものとして考えられる。
この時点におけるその肉体組成は現在生存してあるこの地球上のものとは違う、違ってる。

※たくさんの細胞が各器官を形作り、それら各部が全体を構成しているが全体のイメージ。
※この全体は宇宙そのもののことになる。無数のこの三角形によって構成されてある。
※面としてとらえるのもありで、その場合は、各個人はそれを構成してある点となる。

そんで、ことがなんであったのかは皆目分からないんだけれど〜、神に食することを禁じられていた樹の実を食べちゃったことで、開眼してしまうこととなったのだ。その事態を、後の変化を表してるのが右の図。

何が起こったのか?。
この構成を支え持つ”次元”を、”力場”たるものを、手に入れたんだ。
空間、領域をって、ほんとは言いたいんだけどね…。

あちら、あれの番外編の中で、一度チャレンジしたことにはなるのだが、この構成が可能になったことにおけるその最大の変化は、時の概念観念の入手(将来未来たるものとしての展望)と、日々に起こってある出来事を、それを時系列において因果の関係性をもって把握できることになったことにある。その主体たるものが【I】としての自己、その観念、これとしてある…、つまりは完全自己同一化をもってしての視座、主体化。

最初の三角形は、別に

である必要はない。四でも五であっても構わない。あくまでも便宜上の選択でしかない。妥当だとは思うんだがね…。正三角形であることはあくまでも各中枢が調和

ことを表しているまで。実際は、そうである、そうであれることは、難しいことであるのが真実。MEは、面そのものとしてのものになる。

※考えてみたらさ〜、これって子供から大人への変化のことじゃん。
※最初の原初の状態から自己たるものを確定するをもって大人としての社会人になるっと。
※一応、原初におけその事件そのものを、そのプロセスってやつを経らされているわけだ。

老婆心:

知性たるものの、その特質/特性/有用性は何だ?。

においての担当部署。優劣/是非の判定。また、対象に関しての、その構成/構造/機能/

としての理解、それの担当部署。妥当性/正当性の判定。最善としての事後の方策の考察決定部署。こんなところなんとちゃいますやろか〜?!。
肉体、体としての組成はハードとしてのものになる。天使としてのその肉体はまた違ったものになっている。M78星雲における、そこでの生物の体も当然違ってる。カラータイマーが生まれながらにして!…。

さて、正四面体となってからは、これもいびつなものであるのが実際ではあるのだが、例えばこんなの…。右端だけがご参考。「偏っている、いびつであるってこともある」を持ち込みたかったまで。※いや殆どのヒトが不均一にして不調和であるのが実際。
これらにおける偏りが実際は何を表し意味しているのかは各自それぞれにその判断はお任せしよう。こんな、いろんな形でいるのが、あるのが各人としてのその現実だ。でも、今は、そんなことはさておいといてっと…。この【I】が果たしているところのその機能だ。この【I】は、実はこの宇宙からすれば隔絶した遊離した存在となってしまっているのだ。その証拠というか、それが故の結果とでも言うべきなのか…それによって把握される観念としての現実は、すべて実際には存在していない。ヒトのおつむの中に

にて存在しているまでの

なのだ…。

このことの最たる事例は既に上で挙げさせてもらってる。あの「国民の為に」の国民が現実とはかけ離れたものであること、乖離してしまっているってことに…。




  頂点としての I は、また最下位としてのものとして自としての立場をもつことが出来る。
         すべてを下位から、根底から見上げて観てるの状態。
          この二つの型の合体をもって、ヒトたるものは、
       過不足なくして、初めて完全に表すことが適うことになるのだ。

※自分はマカバに関しての理屈は何一つとして知らないんだが、この図形には惹かれる。
※上位としての頂点にはイエスを置いて、この自分はそれの(たい)としてあらんと努力する。
※最下位にて自己たるものを結んで、置いて、これを自分としての分限とするっと。
※この二つの合体として有りたいな〜と、望んであるまで。
※主としての我、従として我、となるので、男性原理、女性原理だってことでもいい。w。


正三角形を自己の本質としてとらえるならば、第四の頂点として出現した【I】は、人格としての自己ってことになる。原罪はこの立体化する、できる次元を、切り開いた契機。ここでの新たなる「私」ってやつが面上の上にて結ばれてある場合が、世界に対して自分をより大きなものに感じるになる。また面上にある場合が、世界と調和してある。そして、面の下方にて結ばれてある、しまっているならば、この自分は世界に対して小さいものとの認識になる。

この第四の頂点が、これら三種の内のどれにて収まってしまうのか、定められてしまうのか、これの選択権は

。たぶんね〜、生まれ落ちたるときの、そのときの天空における星辰の配置がこれを決定してる。それらからの特定の配置をもった放射が、私達の内なる、某らかの感光版に焼き付いてしまうことになるのさ。

ことは世間にてよく聞く、内向的であるとか、外交的である、友好的であるとかの現れ、その原因、それがなぜそのヒトにおいて傾向となってしまっているのかの説明と、なるのかも知れない。

これら三種の、外界に対しての印象は、それそれにおいメリット・デメリットがある。メリットにおいてはそれはあくまでもありがたいことでしかないので、そのままなんだけど、デメリットにおいてでは、反動としての戦略的対処ってのがどうしたって習慣として持たれることとなる。

自尊心、プライドにおいて…。

簡単に言えば、たとえば、世界に対して、いつも必要以上に自己を”小さきもの”と、みなしてしまうものともなれば、

、これにおいて、虚勢をはる、どうしても意固地になってしまう等が起こって、為されてしまようになる。

虚栄心としてのその屹立の事態。自己たるものを結んであるその位置の変更を自力で、強引になんとかしようとしてしまうのだ…。不自然なあり方としての人格の強化となる。

これも

のドライブ、そのベクトルの起動でしかない。

誰において?。

プラクリティ…。


つづく



未消化として、「怠惰がなぜ引き起こってくるのか?」がある。

タイプ9ともなれば、これがどうしたって端的に現れてきてしまうものなのだ…。

これに染まる、陥没する、流されてしまってあること…、

これはたいへんにまずい、恐るべきこと、その事態なのだ!。

これを脱する為の

と、ことを継続してあれる為の

(習慣化されて常態化してある”勢い”)、がどうしてもいる。

これ獲得し、かつ保持してあれる為には、たいへんな労力と時間、また、そうなることを叶わしむる機会/状況たるものに恵まれることが、どうしても、どうしたって、その両方がいる。

まずは、それを脱することを意思において求めよ!。

さらば、その機運たるものには間違いなく、いずれにかは与えられん…恵まれん…。




⑧はここまでとします。予想以上に前置きとしての内容が長くなった。
次回⑨はこの自分において実際に覚えられていたことにおいて表してみます。
表面的なることにおいては既に済んでいるので、もう少し内面においてとしての
表現をいたしたく思います。









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