第20-ウ話 訳説般若心経

文字数 12,212文字

The Maha Parjna Paramita『 Hridaya(こころ) Sutra(教え)』
  比類なき 偉大にして至高の叡智、『フリダヤの教え』

さっそく脱線です。

般若心経の『心』の部分の表記に関してなのですが、
なんのこっちゃ分からなくないですか?。
先にこのタームの意味するところをご紹介しておきます。


Re: Hridaya/フリダヤ

「宇宙が生まれ、そこに存在し、そこから発せられる力が、方向性をもって
  機能している全宇宙には”中心”があります。それと同じことで、私たちの
   存在を支えているこの体構造の内にも中心が存在しています。

 存在、知識、そして至福の実感をもって実現される純粋な意識の座なのです。
 Hridayaと呼ばれるものは私たちのこの中心なのです。
 私たちの内にておわす

なのです。

「この Hridaya は、血液の循環調節している体の心臓とは異なるものだと言われています。
 Hridayaは、胸の右側に存在しており、一般的に知られても、感じられてもいません。

 「これが真実の私だ」という考えが、最初に現れてくるのは、
   その源へと遡り、たどり着いた時なのです。
  私の中のどこかにあるそこで(エゴが)死んだ時になのです。

 この場所、
 すべての思考が死ぬ所、
 エゴが消え失せてしまう所、
 その場所こそが Hridaya なのです。

 このセンターから、純粋な意識たるものが感じられ、また楽しまれるのです。

「「自己の直観の文字通りの実際の物理的な座席」として記述されたフリダヤは、
   上で説明された意味を持っています。おそらく「物理的な座席」という言葉は、
    いくつかの混乱を引き起こすかもしれません。

 それが本当に意味することは、純粋な意識の中心があるということです。
 それは肉体と関係していますが、それ自体は肉体(物質)ではありません。

「Hridayaという単語は「center+this」の複合語です。
 これは、瞑想の結果としてのみ認識することができる右側の”中心”なのです。
 Hridayaから、Sushumna/スシュムナー(脳脊髄と直結している霊妙なる気の経路)を
  通って第七チャクラにおける意識が生じます。
 そこから、いくつかの「ナディス/経路」を通って体のすべての部分へと気は広がるのです。
 それから、私たちは一人で、周りの物体に気づくことになります。

 人間は、それら(周りの物体)が実在するという幻想のために、
  苦しむこととなるのです。
 彼は、真の彼自身である『自己』から遠く離れてしまうが為に、
  苦しむこととなるのです。
 これら(苦/喜の思いの)すべてが発生し顕現する場所が、Hridayaなのです。

「睡眠、喜び、悲しみ、恐れ、または満足のいずれにおいても、
  私たちは『このハート』へと戻ります。
 それが、私たちが周りのすべての意識に迷いを感じている理由です。

 瞑想またはVichara(検証/考察/熟考)によって、私たちがこの中心、
  Hridaya へと至りつけたならば、thus (つまりは)真の自己のことなのですが、
 一切不純物を含まない/純粋な至福の状態を楽しむことができるようになります…。

「私達自身が”源”へと遡る過程で、すべての思考が消え失せ、
  喪失したとき(静まりかえったとき)、右方のHridayaからは、
   throb[鼓動/動悸/振動/ワクワク感]が発生し、
 「アハム」「アハム」'Aham' 'Aham'
 「俺俺」「儂儂」「ボクだよボク」「ア~イアイ♪」が顕在化しますw。明白となる。

 これは、純粋な意識が、それ自身を現し始めていることのサインです。 
 しかし、それ自体が目的ではありません。
 この sphurana (throbbing)(不可思議なドキドキ感?)が
  どこからそれが発生するのかをよく観察する。注意深く。
 そして継続的に行い、真の自己たるものの顕現を待つのです。
 すると…気付きが起こってくるのです。存在の一元性としての

が…。

「私たちが呼吸を、落ち着いて安定化させると、
  私たちは頭が落ち着いてゆくのを感じます。
 それから、思考は内向きになり、ある時点をもって溶け去るのです。
 思考を意識しなくなったこのポイントをよく観察していてください。
 私達自身を Hridaya へと溶け込ませる/一体化することの役立ちます。」


出典
http://www.angelfire.com/indie/anna_jones1/hridaya.html
抜粋して自動翻訳をかけてちょいと改稿。


Re: のっけから…

「何のこっちゃ?」
「英語圏の般若心経どこ行ってん?」
「なんじゃこの戯言(たわごと)は?!(怒)」でしょうね〜。

正直、上記の内容は、小生にとっても訳ワカメでしかありません。

これは、語り手と、聞き手との間に、断絶があるからなのです。

もしくは、
語りは、どこぞの誰か権威者が書いてたことを
ただ鵜呑みにしただけで、そんで、ただ復唱しているだけであって、
自らの理解や言葉を何も持っていない…。
そのせいで、読み手としては、受け取るべきものが何もない。
(よって

)だけなのかも知れません!(汗)。


Re:もう少し訳のわからん話にお付き合い下さい(拝)。

あのお経の内容を少し振り返ってみましょう。

たるものは、

って言ってましたよね。
そんで、見るもの、声たるもの、香りたるものも存在し

って…。

「どゆこと?」

個人的に語れることを少し…。

私は、体に備わる目玉を通してではなく、何かを観たことがある。
それは眼球を通して見る映像に近かった。

何かが、何かを、翻訳/変換するにおいて、
視覚関係の記憶を材料として合成して見せていたのかも知れない。
夢なんかに似てて、あれも同じことだったのかも知れない。
でも自分はその時、全くの素面で、平素よりも目覚めた状態だった…。

見るというのは、対象の振動を受信することなのかも知れない。
この場合は、感知するの表現の方が相応しくなってくる。
この振動数が余に高くなると、肉眼というハードでは、
 処理できなくなってしまうのかも知れない。

例えば、妖精はこの地球上に存在しているのだが、
 通常の人間の視覚帯を超えた次元で(振動しながら)存在しているので
  見えない/見つけられない?。
確かに妖精は身近にいるはいる(断)。お花屋さんの観葉植物の葉っぱの上に!。

肉体が枷になっている?。

いや、肉体は、もともと最高度に完成しているのだが、
 そのポテンシャルを引き出す為には、
  また特別なインターフェイスが必要になるだけ。

それのポテンシャルを最大限に引き出して活かす為には、
 特別なトレーニングが必要となる。

これは瞑想/想念の死滅(禅)のこと。

そして、更に、別に、
 肉体に備わるポテンシャルのすべてを引き出す為には、
  いろんな星気体や活性化元素を体内に取り入れなければならない。

これは生活において、正しく苦しむことによって。
しかるべくの戒律の元に真っ当に生活することによって。
初めて、体内にて生成され始め、また溜め込まれて/蓄積されてゆく…。

簡単に言えば、ここでは仏道の修行のことを指している。

お経たるものは、この修行の成果/結果として、
 観えた、感じた、理解されたことについてを語ってくれている。
だから、修行たるものをあまり意識してやってこなかったものにとっては、
 ファンタジー、ナンセンスとしての話としてしか聞こえない/響かない。
単なる漢字の長ったらしい羅列。「これ嫌い」にしかなんない。

でもだ!

、また話しが違ってくる。

だってもう肉体の機能のお世話にはなっていないんだもん。

そして、

…。

体を離れても…、
見えてるし、移動できるし、触ることもできるし、考えたりもできるや~ん。
しっかし、こいつら全然気づきよれへんな〜っ!。なんちゅう薄情なヤツなんや!。




事後、やっと、お経が語ることが現実になってきてしまう。

多分、困るんだろうさ。慌てるんだろうさ。

そこで、横から説明してあげるわけ。

そして、行くべき所へと迷わず行って下さいって。

生前の勘違いのままでいないで、成仏して下さいねって。

だ~か~らー、唱える側(親族)が内容を理解してあげていないと
 メッセージが伝わらないのー!。

下手したら全然意味わかんないままで、首傾げてるだけかもね…。」


Re: 閑話休題。

お待たせしました。

英訳版般若心経の翻訳をさせていただきます。


The Heart of Great Perfect Wisdom Sutra
 偉大にして完全なる叡智による ハートに関しての教え。

The Venerable Bodhisattva Avalokitesvara,
  尊者 仏子たるの観音さまが、

performing his meditation in the deep Prajna Paramita,
  瞑想を 深い 超越的な直感知の叶う状態で行っていたときに、

clearly saw that there are five skandhas,
  明らかに観たのは(ヒトの心による観念操作には)五つのヒープがあることでした。

and these by their nature are empty.
  そしてこれらは、それらの本来性においては空虚なものであることも…。

Shariputra,
  我が弟子、シャーリープトラよ、

form does not differ from emptiness,
  形は、空なることと異ならず。

emptiness does not differ from form.
  空は、形たるものと異ならず。

What is form is emptiness, what is emptiness is form.
  形たるものは、空なのだ。 空たるは、それ形なのだ。

The same is true of feelings, perceptions, impulses, and knowledge.
  無たるのが、同じくして真実なのが、フィーリング/知覚/衝動、そして知識なのだ。

Shariputra,  
  シャーリープトラよ、

all dharmas have the character of emptiness;
  すべてのダルマたるものは、空としての特徴を(同じく)持っている。

they have no beginning and no end,
  それらには、始まりも終わりもない。

they are not pure, neither are they impure,
  それらは純粋であるわけではなく、また不純たるものでもない。

they do not increase, neither do they decrease.
  それらは増えず、減ることもない。

Therefore,
 よって、
in emptiness, there is no form,
  空虚たるもの中においては、形相たるものはない。

no feelings, no perceptions, no impulses, no knowledge.
  フィーリングなるもの、知覚たるもの、衝動たるもの、知識たるもの、
  (そんなものは、すべて真実には存在してい)ない。

No eye, ear, nose, tongue, body or mind;
  目も、耳も、鼻も、舌も、体もしくはこころも、ない。

no sound, smell, taste, touch, or attachment.
  響きたるもの、香りたるもの、味わいたるもの、感触たるもの、
  もしくは愛着/執着するもの、(すべて真には存在してはい)ない。

No world of sight… no world of consciousness.
  目が認めている世界…意識としての世界、
 (これらは真には存在してはい)ない。

No ignorance and no end to ignorance.
  無知たることなど そして無知たるのの終わりなど、ない。

No old age and death, and no end to old age and death.
  老齢たるの事態、そして死するの事態、これらは(真には)ないんだ。
  そして老齢へと移り変わってゆくこと、そして死することに終わりがくることもない。

No suffering, accumulation, cessation, or path.
  苦しみたるもの、財の蓄積、中止/中断、もしくは道たるもの、
 (そんなものはどこにも在りはし)ない。

No knowledge and no attainment.
  知識なく、そして達成たるものもない。

With nothing to attain the Bodhisattva relies on Prajna Paramita,
  得るものなど何もないが故に、菩薩は、超越的な覚知(のみに)に依られたもう。

With no hindrance in the mind, no hindrance,
  妨害するもの/夾雑物/偏向が、そのマインドにはないが故に、何の支障たるもない。

therefore, no fear.
  よって、恐れるものは(もう)なにもない。

Far beyond mistaken fantasy, at last, there is Nirvana.
  誤った認識によるお伽話の世界を遥かに超えて、
   遂には、そこは涅槃(へと至れり)。

All past, present, and future Buddhas rely on Prajna-Paramita.
  過去ー現在ーそして未来における、すべての仏陀たちは、
   この超越的な(直接)覚知に依られたもう。

And therefore receive the highest, most perfect enlightenment.
  そして、そうであるが故に、
   最高度にして最も完璧なる悟りを受領される。

Therefore know,
  よって知れよ。

the Prajna-Paramita mantra is the great mantra,
  超越覚知(によって世に伝えられたる)このマントラは、
   最も偉大なるマントラなのだ。

the vivid mantra, the highest mantra, the incomparable mantra.
  (命の宿るが如きの)ヴィビッドなるマントラ、
   最上級のマントラ、比類なき唯一のマントラ

It completely clears all suffering ― This is true, not false.
  それは完全に完璧にすべての苦しみを消し去る。ー 
   これは真実、間違いはない。

So set forth the Prajna-Paramita Mantra,
  だから、この超越覚知のマントラを唱えるのだ!。

set forth this mantra and say:
  これを唱えるべくして、言葉にして発するならば…

Gate gate paragate parasamgate bodhi svaha
Gate gate paragate parasamgate bodhi svaha
Gate gate paragate parasamgate bodhi svaha…

ガテー ガテー パラガテー パーラサムガテー ボージィ スヴァーハー…』


〈了〉



あとがき:

違ってるね…。
なんか間違ったのを選んじゃったのかも知れない。
大昔のテキストだからねー。
そだったら、メンゴ。

次回、最終回。悪い癖がでるかも知れない…。


付録:いろいろ集めちゃったので公開してまう…。

Re: Hridayaの意味そして定義。

   *全部Google翻訳。校正だけで改稿せず。

Hridayaはサンスクリット語で「精神的な心」と解釈できます。
より根本的な言葉から、「与えること」を意味するhri、「取る」ことを意味するda、
および「バランス」を意味するyamからのyaとして文字通りに変換されます。
したがって、hridayaは「完璧なバランスを与え、バランスを取るもの」です。
身体の心臓が血流でこれを行うのと同じように、
hridayaは霊的なレベルを授けるための中心です。

ヨガペディアはHridayaを次のように説明します。

ヒダヤは、胸の中心の少し右側にあると言われることもありますが、
他の出典では、身体的な寸法がないと説明されています。
ハートチャクラであるアナハタとは、
存在の側面または次元のみを参照する概念とは異なると見なされますが、
hridayaはより広い概念です。
一部の人は、hridayaが神の火花ではなく、神そのものであると理解しています。

ヒダヤとつながることで、ヨギは個々の感情や個々の魂への愛着を克服し、
代わりに普遍的な意識との心のつながりを実現できると考えられています。

ヒダヤヨガは、ハタヨガの実践、瞑想、瞑想を利用して、解放への道を進み、
精神的な心を目覚めさせます。これらのストレスと不確実性の期間中、
あなたのチャクラはブロックされるかもしれません。


アーユルヴェーダ(生命の科学)
アーユルヴェーダ用語集のヒダヤ

Hṛdaya(हृदय、「心臓」)という名前は、心周期の受け取り、供給、および移動という
3つのフェーズを示すため、非常に意味があります。

心は生命の源であり、それが止まれば誰も生きることができません。
それが、初期の賢人たちが意識の座と言ってきた理由です。
ハートはラサとラクタ(血液)の受容体であり、栄養のために全身に分配され、
そこから不純物を引き出します。
これは絶え間なくサイクルのように続きます。
蓮のような心臓は胸部にあり、両側に肺が並んでいます。右側は肝臓、左側は脾臓です。


心は、いわば「存在の中心」であり、ここで認知的 および感情的な学部が出会います。
したがって、そこに神を設置する行為は、神の見ることと知ることをはっきりと結びつけます


物理的な心臓は、胸腔の左側にある拳サイズの臓器です。
それは私たちの体を通して酸素を含んだ血液を循環させ、私たちを生き続けさせます。
また、心と感情や感情、深みと正直さ、その他の優れた資質を関連付けます。
約50年前までは、脳よりも心を信頼してきました。
しかし、情報システムと新技術が私たちの感覚を圧倒し始めたとき、
私たちは信頼を心から私たちの脳/精神複合体に移しました。
今日、知恵は心よりも心と密接に関連しています。
これらは思考の時間であり、私たちの考えは、
私たちがオープンな感情の心に完全に依存することはできないかもしれないことを
教えてくれます。最近、この傾向は心臓移植が一般的になった後に本格的に始まったと読んだ。
最初の心臓移植は50年以上前に行われました。現在、年間5000件以上の移植が行われており、
いつでも3000人以上が待機リストに載っています。

どういうわけか、私たちの魅惑的で神秘的な心臓は、単なる別の器官になりました-
配管工や外科医が動脈の詰まりを解消して洗い流すことができる動脈を備えた、
整備士や医師が新しいものに切り替える自動車部品です。

他に何が変わりましたか?
神経科学、遺伝子研究、その他の医学的進歩における新たな発見は、
脳をより面白くしています。
注意の過負荷によりマインドフルネスが主流になり、
テクノロジーガジェットに対する世界的な中毒が、
これが私たちが進んでいる方向であることを強調し続けています。

しかし、古くからの生活の伝統からの知恵の長老たちは、
私たちの肉体の心臓には、胸の右側に、エコーの息をのんでいる霊的な双子がいると
教えています。アドヴァイタの偉大な巨匠、ラマナマハールシからの引用は次のとおりです。
「自己の崇高な原子は、体の正中線から約1本の指の幅だけ離れた、心臓の右心室にあります。
ここにダイナミックなスピリチュアルハートがあります。
それはHridayaと呼ばれ、Spiritual Pathの熟練者の内眼にはっきりと見えます。
瞑想を通して、

。」

今日はそれを見ることができませんが(主にほとんど信じていないため)、
それでも認識できます。
そして気にすれば、そこに道を見つけることができます。
世界最古の言語の1つであるサンスクリット語で、Hridayaはhridとayamの複合であり、
「中心」、「心」、「これ」を意味します。
Hridayaを隠して保護する領域は、「心の洞窟」と呼ばれることもあります。

Hridayaはスピリチュアルハートです。
それは情報源であり、私たちのあり方でもあります。
スピリチュアルハートは神の火花ではありません。それは神です。
本物であるすべてのものはここで立ち上がり、設定されます。
幸運なことに、ソースに戻る可能性のあるものをトレースできる場合は、
ここで見つけることができます。
私たちの思考は私たちの心の中で始まるかもしれませんが、
ここでエゴとその思考語が最終的に消えるので、
ここで彼らは終わります。

ウパニシャッドは「Tat tvam asi」と言い、私たちは究極の現実です。
ですから、スピリチュアルハートは私たちのすべてを反映するだけではなく、
純粋な存在の本質です。
あなたのHridayaも私のHridayaもありません。
私たちは皆、同じスピリチュアルハートを共有しています。
私たちが目を覚ましているのか、眠っているのか、良いのか悪いのかを問わず、
私たちをつなぐスピリチュアルハートは1つだけです。
Hridayaは一貫性、共鳴、そして全体性です。
人の心と世界の心は一つの心です。

現代では、直感的な知性とスピリチュアルハートの関係はほとんど忘れられています。
私たちがスピリチュアルハートの存在の考えを一般に受け入れたとしても、
それを象徴的に受け入れる傾向があります。
しかし、私たちの証拠に基づく旅が、私たちのスピリチュアルハートが現実であり、
過ぎ去った時代の象徴的なジェスチャーではないという発見に導いたのは
素晴らしいことではないでしょうか?
スピリチュアルハートは、直接的な知識の器官です。
そして、個性の境界が消えていくとき、
私たちはそれを永遠の無限の愛へのなじみのある閾値として認識します。

キリスト教神秘主義の前身である砂漠の父親たちは、
「心の目」または「心の知性」として知られる瞑想の器官について説明しました。
彼らは人間の中でこの精神的な中心を生きた聖域と呼び、
個性の犠牲を通してのみ入ることができると述べました。
この方法でのみ、神と人間との結合の謎を解明することができます。
スーフィーの伝統は「心の目」にも言及しており、
巡礼者に人間性を自己愛する傾向を排除するように促し、
それは「個性の要塞」を奨励するだけです。

心は知恵の微妙な器官です。それは全体的かつ分割されていない(非デュアル)。
それは深い意識を通して癒し、明らかにします。
心は(太陽のような)知恵を放射し、心は(月のような)知識を反映します。
心の知識は情報の逐次的な蓄積に基づいています。
それは、私たちが挑戦的で変化する世界に適応できるように設計されています。
しかし、時間が経つにつれて、
私たちの働きすぎた(そして現在ストレスがかかっている)合理的な心は、
演繹的な推論を通じて結論に達しないスピリチュアルハートを理解し、
関係づける本来の能力を失いました。

今日、私たちはほとんどスピリチュアルハートの存在と
その開発へのユニークな貢献を無視し、
あるいは否定さえしています。
多くの場合、私たちは談話的な思考に取り憑かれ、疑念に悩まされ、
決定や方向性が不明になります。
理由だけに焦点を当てると、心臓の温かみのある照明が暗くなり、
より無菌の脳/心の複合体がより活発になります。
マインドがスピリチュアルハートの可能性を考えると、疑問が生じます。
ここでは、より一般的な3つの質問を示します。

Q. Hridaya(霊的な心)が無形である場合、
  体の中でのその物理的な位置をどのようにして知ることができますか?

良い質問!霊的な心は無限であり、形や境界がないため、無限を含むように見えます。
共鳴、またはこの例の自己のような無限のものと有限のものの間の関係は、人体のように、
両方に関連するどこかで交差していると言えます。
賢人は、(神の)意識が身体の中で見つけたり、
配置したりするのは容易ではないと指摘しています。
結局のところ、意識は腕や肩、脚のようなものではありません。
しかし、賢人はまた、純粋な意識を体現するとき、
または意識のより高い状態に達した後に意識を取り戻すとき、
相互の記憶が残り、身体の心臓の近くの領域から発せられているように見えますが、
その少し右にあるようです。
そして、見つかったら、それを再び見つけることができます。

Q.スピリチュアルハート(Hridaya)を自分で見つけるにはどうすればよいですか?

身体のこの領域の存在を、私たちが本当は何であるかを明らかにする特権的な場所を
持っていると認めることは助けになります。
可能であれば、「誰」、「私」、「私」、およびすべての主語/目的の認識を削除し、
一度削除した「目撃者」も削除します。私たちのこれらの部分は、部品なので、
そこに行くことはできません。彼らはここに属しています。

彼らはむしろ時間的に属しており、時代を超越することに屈することはできません。
胸の第2の心臓を想像するのではなく、胸の真ん中にある純粋で輝く太陽を考えてください。
ここで毎日始めて、できるだけ頻繁に戻ってください。
呼吸を安定させるように働きます。
これはまた、思考の通常の猛攻撃を安定させ、遅くします。
思考が溶け始めたら、Hridayaとのマージにアクセスできます。

Q.スピリチュアルハートに関連する身体的な感覚はありますか?

突然の恐怖、喜び、またはショックは、肉体的な心臓を非常に強く振動させます。
同じことがスピリチュアルハートにも言えます。
この点で、それに注意を払う人なら誰でも感じることができます。
自分の出所をたどると、思考が最前線から消えると、
目立ったドキドキが起きると言われています。
それは熱望する目的ではありません。
それは始まりに過ぎないと考えられています。
このズキズキする(スフラナと呼ばれる)ことは、
より深い認識の前身であることがよくあります。

現代に向かって急いでいるとき、私たちはおそらく自分自身から私たちを
救うかもしれない時代を超越した教えを見過ごしましたか?

私たちはテクノロジーの不思議についての信念に過剰に投資し、
私たちの心だけで現在直面している問題の解決策を思いつくことができると
考えることに過度の負担をかけていますか?

地球とその多くの市民の未来は、私たちが誰であるかを思い出す能力に関係しています。
私たちの目の前にあった賢明な伝統の教えと宝物を復元し、
それらを私たちの意識の最前線に持っていく時が来ました。
スピリチュアルハートは、ピンの最小の頭よりも小さいと言われていますが、
最大の太陽よりも輝いています。きっとここにも知恵と愛があります。

「神は心の中で生まれ、心は神の中で生まれます。」~マイスターエックハート

https://www.pepperkeenlewis.com/post/hridaya-sanskrit-for-heart



蛇足:


ヒトの生存は、おかしな作用力(プラクリティー)に曝されており、
それのからの影響をまともに受けてしまう。マーフィーの法則のことね。

その為、間違いなく、生き方は、やがてには、一方向に定まって行ってしまう。
(二方向の内のどちらか一つに)

だから、誰もが皆、知らず知らずの内に、
 仏道の途上にあらざる得ないってのが本当の話し。

これは反省やら、理性的な判断がちゃんとできるヒトだけの話ね…。』


敬具

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