第43話  本稿⑨

文字数 14,476文字

       え〜皆さん。お久しぶり、いやお久方ぶりにてでございます〜。
  以前に、どっかどちらかにて、一度お目にかかったことがあるとは思ふのですが…



この私めも

と、あいなりましでござります〜…。ところで、この私が誰なんか、どこの何者で、どういった来歴の者なのか、こういったことをお尋ねになられたい向きの方もおられるとは思うんですが〜、それは、さておき置いといてっと…この世の中におひてともなれば、とかく「知らぬが花」ってことも確かにございますんでね…。いや、やっぱ、ここは名乗らしてもろうときますわ〜、このワテは「天村亭崇ん生」いいよりまして…、ほんまのところ、本心としてはですね〜「美優亭風流

(TKC)
」と、名乗りたいろこではあったんですが〜、それは、ヤッパ、やれんて‥恥ずかしすぎると、言われてしまいまして〜…まっ、とにかく、一種の講談師、はたまた落語家、いやいやだたの香具師、それとして以外の何者でもないし、またあり得ない、そんな類の人間で、おりて、ありて、にててで、御座ひますぅぅぅ〜っと…。

正直言いまして、今回私は代役としての登板です。とある方の代行ちゅうことになるんかとは思いますが。そのある方って云うんが、えらく恥ずかしがりでらっしゃいまして、どないにもこないにも人前で今回の話すんのは苦手じゃと、嫌じゃと、駄目じゃと、格好悪いと、斯くおっしゃとられまして…、正確には、真面目に語るんのはこの

にとってはしんどいと…、おふざけ悪ふざけ混ぜながらも、それの満載やないともうやらないと、やりとないと、もうやりきれんと、それをもってでやらしてくれんことにはもう気が向かんと…、斯く仰せになってで、おいでで、おられまして…。そこで、私めに白羽の矢が立ったと、そういった次第なのでございます…。狂言回しとしてのその方ご本人は、別にどっかにおる隠れているちゅうことなんでございます〜…。

さて、ところで、その今回の内容は?!と申しますと、これがまたあなた、例のあのことに関してのその実際においてのことになるんでございます〜。ええ、ええ、私は当然に、まったくなんのことなのか、なんのことやらサッパリまったくもって分かってなどおりません。聞かされてさえおりませんのでして‥一切、もう合壁に、まったくをもってで、知らされいなのでございます。事前の準備などというものは、今回の話しにおいてともなれば、あり得ないし、そんなことは土台無理なることだったんです…。ことを語るともなれば、自然と、その然るべくしてのあるべくしての内容は、私の口をもって、それを借りて、現れて出ルまでの話しなのでございます。ええ、ケッタイ至極なることとは存知上げますが、そうであろうこととは、身に沁みて思い至ってではおるのですが〜、いざここは覚悟をもって、それを決めて頂いてですね〜、いざ、さっそく、その私めによりのて語りたるものを、今より始めさせていただきたきますので、お耳を是非にご拝借いたしたく、それにてで御座いますー…。

まずは、皆様にお尋ねしたきことが一つ御座います…。それは生きるにおいて甲斐たるものについてのことになるのです。単刀直入にすれば「生き甲斐」。皆様は何をもってこれを定義されるのか?これを是非に、この機会にてお考えいただきたく思うのです。

生きるにおいてのその

/

/

/

/

/

/

/

/

/

/その達成にむけての

/そに伴っての

…。

でわ、それらを支え持っているものの正体とは、

?、「生き甲斐」たるものとは一体なんであるのか?を〜、この機会におひて〜、それを是非、お考えいただきたく…それにおりましてなので、ござりまするぅ〜…。

                   〈暗転〉



                  答えは「遊び」。

この言葉に関して、念の為にと思い、いろいろ調べてみたんだけれども、どれも何も言ってないに等しかった。ほんとのところは誰も何も分っていない…。と言うことで〜自分においてのソレにおいての現象学的記述ってやつを、やってみた…。(疑い難くしての内的印象のみもて記述を行うってやつ)。

    おっと、いきなり話し出してしまっているが、この私がいったい誰なのか...



然るべく、然るべきのそのまんまにて、ただ

だけ…。それとしてのあるべきを、それとして求めるままを、自由に発現させてる、させて

まで…。※(これはPlay the piano /play the guitar …play the movie としての意味合いが強い)。

我が身がそこに持つ、そこにて自然とわき起こってくる強烈な衝動、欲求としてのエネルギーを、表にて具現化、具体化、発散しているまで…。

 
トリガーの一切は、世界との接触、これこそがそれだ!。この事態によって勝手にことが起こってしまってくる、いるまでの話しなのだ‥。衝動としてのなにかが、ことの実際としての、その形としての何かを求めてくる。かってにどこからか吹き出して立ち現れてくるエネルギー。これがフォース。いたく自然なる自己としての顕現だ。たぶん、生まれながらに、生来的に備え持ってある、備わってある、そのすべての情報(カルマ)を、アクティベイトとせんとしての現象なのだろう…。

子供としてのその生存時期のその最たる特徴は、特筆すべきことは…そこには、さして、制限、制約たるものが、ないってことになるだろう…。社会性としての縛りが基本存在していない。完了がしていないのだ。大人としての世界、その社会ともなれば、常識だとか、ルールだとか、良識だとか、通念って呼ばれるている型苦しくしての様式が《、《暗黙の了解ごと》》として、その行動に制限たるものを、かけてきてしまう…。どうしたって、不自由としての規制をもたらせてきてしまうものなんだが…。ほぼ無意識にで、それは果たされてしまうようなるんだ…。レギュレーションって言葉が、最適なることのタームとして、この自分の頭の中に挙がってきてしまうのだが…。だからこそ、子供の遊びの世界においてでは、無茶なことってやつも、できるようになる。むしろ、それが許されてあるのが幼年期。タブーたるものは基本、一切ない!。

人工的なの意味を最大限に強調しての社会性、それにおいての枷は邪魔になる。あくまでも自然なを形容詞としての自発性においての発現こそがその時期においては奨励されてあるのだ。誰によって?。世界そのものにおいてだ!。未だ揺籃状態にある、眠れる状態にある、そのすべてを、活性化、顕在化せよ!が世界としての掛け声、強制コマンド。与えられてあるそのすべてを「アクティベイトせよ!」か…。

それらプログラムとしてのものは無数にある。各自各個でそれそれみな違っている。それらは、実際に行為される、行動される、執行されるをもって、

、この生においても、過去世においてと同じくして、支配的、有効なるもの、有利なるものとなる、される、されてしまうこととなる。



この展開は、もう最初から必然としてのものなのだ。霊肉ともに改めてに刻印され直される必要があるのだ。これをもって、この新たなる生において、過去世より持ち越されてきたエッセンス、骨子としての業が改めて受肉化、受胎化されることになる。以降は、心身において、改めて、支配的なるもの、強制的なるもの、メリットとしてのもの、自己においての主軸としてのもの、独自としての傾向性を形作るものとなっていく…。

独自見解としては、まったく当人らにおいて知られる悟られる感知されることはないのだが、二極からの、二極としての働きかけたるものがある。良心としてのものに触れるものと、それを封殺背反否定毀損する色合いとしてのものとに。そこに神様や悪魔がいるわけではない。それらとしての波動が知らずの内に、いろんなドラマを媒として、影響を挟んで来てしまっているまで。自分の内の誰の声を優先するかだけの話し。ことはパターンとして強化されていってしまう。

人間、その独自なる面に偏ったが、他にも動物そのものとしてのプログラムがある。どちらかと言うと、こちらの方が子供時代においては圧倒的に支配的だろう。投げる、走る、駆ける、逃げる、追う、捕まえる、叩く、殴る、蹴る、よける。飛ぶ、叫ぶ、組み付く、押さえ込む、引っ張る、引き釣り回す、等々。生存競争を生き抜くを目的として、肉体におけるその機能たるものの学習。これがまずは何をさておいといても優先されることでもある。でも…それと同時に、既に個人としての傾向、独自性は影をさしている。つまりは前世からの持ち越しの業としての表れは、その原始的なることにおいて現れてはいる。三つ子の魂百まで…。



ふとあの「ぼくらの...」における、ゲームへの参加を意味する

のシーンを思い出した。
               そんで構成に調整かけた。



認証(契約/登録)して後に、その世界としての、その特定個人に向けて対しての、然るべくしての顕現、その作用としてのスタートとなる。この認証ってのは、ずばり誕生そのもののことでしかない。



即座に果たされてしまってたまで。それらプログラムは、既に、生まれてくるその前に、ビルトインされてしまっている。そして、それらは、受肉化せんとして、衝動たるをもって、ひとを行動へと駆り立ててゆくんだ…。


これらは潜在的なるプログラムとしてのものになる。これらは実際に執行されるをもって、
つまりは実行によって、顕現するをもって、初めて、この生においても有効になる。



そうして、そうなった後に、課題となるのは、改めての、再度の賦活/活性化。繰り返しをもってしてのそれらの強化になる。これが長期間を視野において、洗練、高度化、更なる強化が順次なされれていかなければならない。そこにある環境に生きてあるこの時代に則した形で、それにおいてで!。ことは、ゆくゆくには「ゲーム」としての遊び、それとしての体裁をとってある。ことのその正体は、戦争であるし、弱肉強食をもってしての生存競争でしかない。スポーツはよくできた考案だ。おぞましてくしてあるその色合いが脱色されてしまうのでね。


ことは、ゆくゆくにおける、ひとり立ちしてからの生存、それにおける模擬、予行演習としての意味合いをもっている。これこそが真実だ。あらゆる状況に即した形で、自己が備え持っているそのすべてを、もてる能力のそのすべてを動員して、すべてを活かして、その組み合わせの巧みをもって/調整を効かせるもって、その生を、無事生きる、有利に生き延びていかなければならない…。



         肉体、本能としての、それにおいての発現、
         感情としての味わい、圧力、好悪においてのエネルギー。
         頭を働かせての理解、知恵、工夫、算段、想像、想定、予測。

遺伝において備えられたるの独自としての傾向性、その優位性。前世において獲得されたるものであろうところの自己としての特性、持ち分、理解、洗練。育ちにおいて、ご両親や環境から受けとってある、しまってるそれにおいてのメリット、デメリット。それにおいての、よっての行動制約と有利優位性。時代としてそれが備え持っている空気たるもの、また機運、動向。その他諸々の影響…。



生きるにおいて必要とされたるものを与えられて、その全てを持って、それらを伴って、新たなる体たるものを再びここに得て、今、自分はこの世界に生きている…。このことを、真実、実感を、遊びたるものをもって、喜んでるんだろね…。この実感をもたらせてくれるもの、その行為こそが遊び。れの極端なる味わいこそが、遊びたるものにおけるその特徴なのだ。

大変貴重で恵まれた状況に、今の自分があるってことが、どうしたものなのか、
こころの底からの自覚確認をもって、自分には、最初から、知られてしまっている。


一切がおニューであること、それにて始まっていることにかな?。
リセットを迎えて、かって以前にそこにあったであろう一切の、拘束から、開放されたから?。
自由であるってこも大きな要素だと思う。

ことの真実は、再びこの世に生きて、あれているってことの実感なのではないだろうか?。

幼くしてのその無知の限りにありながらもだ…。

ならばだ、その真の主体たるものは、輪廻を重ね続けてきてる、来たところのその魂?。

それにおいての対象としての世界は、大きくわけて二つ:

  自然たるものに抱かれてあるところの、
    自分が現在見守れらてあるところの、この自分を取り巻いている環境の全般。

  そして、なによりも、他の、自分と同じくしての人々、人たち。仲間。同胞。友達。
  
  単に近くしてある人間たちのそのすべて…。




庇護としての環境、基地局、その代表格は「両親」でありまた「家」だ。そして、もう片側においてともなれば、それにおいてのキーワードとなるのは、やはり…「友達」になる。そうだね…自分以外の人間は、すべてこの自分にとっての友達だってことでいいんだろう…。

  それらの対象らにおいてともなれば、自分と、そちらとの境界線ってやつが、
  遊んでいる内に、やがてに、至極曖昧になってゆく…。
  混ざり合って渾然一体となってしまってる。
  そして内面における反応ってやつが、交感交流によって爆発的に、矢継ぎ早にて、
  起こされてゆくんだ…。数限りなくしての刺激の応酬ってやつなされて、起こって、
  小ユニットしてのドラマがまたもう限りなくして起こっていってしまう…。
  また少しすれば、しばらくすれば、また元の状態へと自然と還ってくる…。

  海辺のカモメの群れ、水族館で観たイワシの群れの周遊が思い起こされる。
  無数をもってなるその全体をもって、まるで一つとしてのそのあり方だった。





  他者との交歓、交合、交接。
  自分に今現在確かに命があって、実際現実に存在していることの確認行為
  そのことがリアルであることによるおける歓喜。
  スリルこそが絶妙の絶対の隠し味。

  相互刺激、インタープレイ、予測不可なるものとするべくしての、
  仁義無用の悪行三昧。狼藉千万もまた当然ありの世界。

  狡知の限りをもってしての、策謀作術の限りを尽くしてのこその遊び!。
  悪知恵こそがそれの命。それらのすべての参加をもってなる遊びこそが最高!。

  一切そこに決まりたるものは、やりたいと思ったことを阻むべくしての常識は、
  誰かの権威によっての仕来りは、嫌な窮屈な決め事は、基本ない。ないってことこそが、
  それを、それとして、成立なさしめている…。

※やはり予行演習としての意味合いが強いな…。
※やはりこの世の現実において生きてゆくってことは、それにおいての生存競争を
 勝ち抜いてゆくためには、いろんな自身としての力を顕在化し、磨いておかなければ
 ならないんだ。そのことの最初の起動としての舞台となるのがこれ…。

あらゆるすべての部位の活性化、これこそが目的なのだ。そのための、そのために必要な衝動たるものは最初からその身に備わってる。何もしなくたって、最適をもって、吹き出してくる。それらは大きくわけて、確かに、三もしくは四領域からのものになる。それら、各々において、独自色をもってしての要請が衝動として、放っといても勝手に湧いて出てきてしまうもんなんだ。そんなもんさ…。外界においても、よくしたもので、ことここにおいての誘因となるべきもの、誘因として働きかけるべくしてのものを、ちゃんと然るべくして、用意してくれている。

※分かりやすくするを目的として言えば、例えば、成長期における女性のその見た目の変化がそれ…。

条件がもしそこにあるとすれば、ただひたすらに純粋なること、熱心にしてあること、感情に正直であること、あくまで自然体であること。オープンであることを、徹底してあること。その黄金としての季節も、また、いたって短いものでしかないのだから…。アクティベイトを完全に完了しておかなければならない。以降における、モメンタムを、形づくるものとならしむるべくし
て…。

※悪いカルマにおいてともなれば、それはアクティベイトしてはいけないんだろうけど、
 どうだろう…そんな都合のいいようにはいかないだろう。子供としてのステージだしね‥。
 
すべての種は、元からそこにあるってのが当然の話しさ。とにかく、それらのすべてを無事発芽させてあげること。そこに、とやかく制限付けたり、こだわりを持たせる必要は一切必要ない!。




もし外部からの誘導が、指導がなされるべきことがあるとするならばだ、それは、
いろんな部位どうしの組み合わせにおいての自己の発現、その違いを、
ちゃんと知らしめておいてあげるってことになる。
そのときの状況において、それに合わせて、それに相応しく、則して、
自己の発現ってのがなされるべきであるってことを、
実地をもって体験させておいてあげれればいいかな‥。

現在、確実に自分としての人間を、生かしてくれているのはテニスとこの執筆になる。

 でも、それらにおいての核心的なることもなれば、その行為を媒として、関係をもてる、
 この自分たる存在に対しての反応たるを、知ること感じること観れることの出来る他人って
 のがいればこそだ。もしそこに誰もいなかったならば、この行為自体が成り立たなくなって
 しまう。たしかに、たしかに、これは確実にして絶対に欠くことのでいない条件であろう。

あのアンインストールとしての…撤去削除無効化しなければならないそのプログラムとは、いったい何だ?。ものごとを逆に選んでしまう性向、嗜好、その衝動。ことを逆さまにもってくること、することにいたく情熱を掻き立てられてしまう傾向。倒錯観念、転倒夢想を促進してある特殊なプログラムのことになる…。これって、どうやって、どうして、人類は手に入れてしまったのだろうか?。誰が何を目的としてインストールしたのだろうか?。神ではないな。では何らかの事故によって?!…。


※予行演習としてのものなので、結果においても、深刻なるものには決して絶対にならない。
※このことが前提としてあるので、余計自由に振る舞うことが可能になる。なっている。
※某らかの(メタ)領域からの承認と庇護が働いていればこその特別なる環境かつ状況。
※次段階において、仲間と一緒にともなれば、それはゲームとしての性格を持つこととなる。
※ことここに至ってからは、ルールたるものが必須にて絶対に必要になってきてしまう。
※両者は混合物、合い支え合うものとしての構成になる。(RPG、スーパーマリオ)
※これがあったればこその遊びとしての新次元/新機軸たるものが、開けてくる。
※女の子のお人形さん遊びオママゴト等は母となってからやることの予行演習としてのもの。
※大人社会が、ミニマム化されて、子供の遊びとして成っている側面もある。
※子供間のいじめ、その根源は大人社会にこそある。それの反映転写がされてきてるまで。



                   〈暗転〉




しかして、

「ゲーム」としてのものへと格上げされて参りますとっ、そこには自ずから敗者と勝者としての明確なる線引きたるものが、事後の結末においてでは、ハッキリと定まるものと、なって参ります。自分が、ゲームの果として、勝者たるものにて納まらんとす、定まらんとしての行為が、まさに遊びとしての醍醐味、その目的となって参ります。いざ事にあっては、懸命に、ただひたすらに、がむしゃらをもって、命がけで!、真剣に努力奮闘してあるまでが当然の話しとなって参ります。分かりやすくにては、実際の、その遊びたるものを挙げますならば、「鬼ごっこ」が、正しく、それとしてのもののズバリに当たるかと思います…。別称としては「探偵」ってのもありましたが…。もうスリル満点!。皆様におかれましても、あれ程までに真剣に、もう夢中になって、遊んだ遊びも滅多にありますまいて…。

私は思うんですが、あのスリルこそが、遊びたるものの真実としての核心ではないかと…。だから、スリルとしての体験を、ルールをもってしてなるゲームたるものによって、上手く、上手に、巧みをもって、深さ深遠さ奥深さを兼ね備えもって、叶えてあるものこそが、良い遊びではないのかと、斯く思う次第なので御座います…。

先には、勝者と敗者と分けて申し上げましたが、その実は、その前段階、根源としての色分けとしては、生き残れたものと、そうとはなれなかった

としての、分断たるものが、あるのではないのかと、斯く思う次第なので御座います…。

この世としての現実を、無事に生き抜く、生き残ることこそが、スリル満点としての遊びそのものであると捉えてあるべきなのが、まさに正解なのではないかと…、いや、むしろ、スリルこそが、生の実感を覚え知らしむるにおける、その実体、その正体なのではないのかと、斯く思う次第なので御座います…。

ことは好き嫌いの話などでは、もはやございませんのです…。好む好まないとしての話でも当然ございません。ヒトたるものの存在は、窮地をもってでしか、その全体としての、それらすべてをもってしての発現たるものが、もうできないものになってしまっている。そうであってこその覚醒たるものが、自動的にでは、自然には、もう普通にてでは、できなくなってしまっているので御座います。この覚醒として味わいこそが…それにおいての自己たるものの確認が、ヒトにとっては最高なのです…。最高の満足としての味わい、その体験となる、ものなのです…。


                   〈暗転〉

そんなこた〜後からの話し、あと付けの話でしかな〜いっと…。現実においての、その現場においての話しをしよう…。まず最初にハッキリと言っておかなければならないことがある。「すべてはだ、現場に入ってから!」のことになる。そこにある「状況」に、身を晒して、漬け込んでからのことになる。それ以前には、何一つとして、知れることはないんだ…。ことは会社や組織としてのものの話しをしている。それらは外見からでは決して知られることはない。どんなに社会的に有名であっても、上場一部市場としての会社であったも、素晴らしく近代的な建築の本社ビルであったって〜、その実際は、中に入って、その組織の一員にならいことには分からないって。ことの一切は、それの中へと参入を果すをトリガーとして、我が内より、内において、然るべきもの、

、かってに立ち現れてくるまでのこと。

思考やら考えってのは、まったく不必要にして不用なるものなのだ…。

                   〈暗転〉



かの方の、つまりはご本人とされましての、その実際を、お話しいたしますと…。とにかくそれは酷い有様だったのです…。そのことの原因はと申しますと、一つにやはりご本人されましてのそのバカ正直さたるものが災いの種となってしまっていたのでございます。入社早々に、歓迎会めいたその場所で、昼食会としてだってのですが、その機会において、「この自分をただの新参者と思わないでいただきたい」と、そこに揃っていた諸先輩方、皆に向かって、ハッキリと述べ伝えてしまってのですから…。云わば、啖呵というやつですな…。不思議なのは、そこに集ってあったのは、ご自身とさほど変わらぬ年頃、つまりは三十前後の若者たち、バカ者たちばかりであったことなのです…。このことも言い添えておかねばならないと思うですが、そこの社員の人たちというのが、皆、やはり技術畑の人間が多いこともあってなのか、気位たるものがウルトラ級に高い、それのみを正に特徴とした、もうそればっかりの、異常にプライド突出したまくりたるところの、つまりは”断トツ君”ばかりが居揃っている会社で、あったのです。若くして理工系の地方大学を出て、直ぐに大阪のこの会社の研究室送りとなってしまった、なっちゃったの人間たち…。とにもかくにも、これは最初から、大いに、しでかしてしまっていたのスタートであったことには間違いはありません…。ご本人の思いとされましては、幼き頃より、この会社の経営においての

たるものを、大いに受けて、会社経営たるものの歪を、もう存分に浴びならがにし〜て〜、ツートップにおいてのその軋轢たるもの年がら年中、晒されながら、そうして、そうされて、育ってきたこともありまして〜、ご両親からは、絶えず、いつも、まったく聞きたくもない、会社としての問題、恥部、不足、頭の能力の足らずなるを原因とするおかしげなる社員の動きに関しての話を、もう素っ裸、あからさまなるの限りにおいてで、散々聞かされて参りましたこともありまして〜、毎日毎晩のの夕食時においてのこととはなりますが〜、やはり、ああいったことを、皆の社員の面前にて、言わずにはおれなんだやったろな〜とも思います…。やはり、最初にガツンと行っといたろか、との、猛々しくしての思惑も、やはり少しはあったのかとも思いますが〜…。

補足1:
入社してすぐ、各現場に同行してた。外回りが多かった。工場にも一回。この昼食会(近所のソーキそば屋)の前に7日間が既に経過してる。それら同行/訪問において、自分には社員らに関して印象が既に持たれてあった。一言で言えば「こりゃ〜素人、子供の集まりだわ」だった…。

補足2:
どういった意味で、子供だと思ったのかと言うと〜、行動においての彼等の指針が「ただひたすら真面目に」しかなかったからなのだ。もちろん顧客に対して。その面と向かってある商談のとき

の話しなのだ。一緒に同席している最中「変な波動だなこれは…」と自分は訝しんでいた。思いっきり、お役さんとしてのその相手を奉るに徹してた…。それもまたいいんだけど、物欲しさと、なれ合いしか確認できなかった。意識レベルが根本からして低すぎる…。仕事がなんなのかテンで分ってない…。誰も何も教えてきてないってことは明らかだった。しかし、それでありながら、プライドだけはどうしたものなのか、異常に高かったのだ…。

※下位としての、極端につまらない、嫌な、面白味の極端に欠ける、自分としてはまったくやりたくない、そういった

ってやつからは、自分は免れてある。これまで頑張ってきたのだから。社会的ステータスを手に入れるにおいて。現在の自分は、低レベルなるものとしての、誰か自分より劣るものに、それらをやらせて

、命じてあれてる…。これをもって自分としての現在のステイタスに満足する。喜んであれる。「いいとこ取り」においての現象学的記述…。www。


もうすぐ本稿としての真の内容が開始されます。それはね〜どういった方針を、ビジョンをもってこの自分が仕事に取り掛かっていったのかについて。ことは全局を見渡してになる。それは余りにも無謀なる内容になっていたのだ。かなりの資金と時間、そして社員全員の同意、協力がいるものだった。それを即座に全力をもって、叶えることに着手してしまっていたのだ。「すべてを外圧をもって強制的に」を、方針として持って…。


自分が属したすべての会社、組織に限らず、外部におけるあらゆるすべてのシーンにおいて思うのは、「何故に、身近としての、同じ仲間が持っているもの、商件に、執心してあるのか?」。ことは簡単で、それにはある程度は目鼻がついているからだ。具体的な可能性たるものがあるから。現実的に商談の相手がいる。その彼の向こうにはハッキリとした金主としての大手エンドユーザーもまた存在している。本能的な嗅覚において、ことは知られてしまうものなのだ。たぶん、こちらにおいてのその心の動きが、どうしたものなのか、伝わってしまうものなのだ…。
つまりは野心からだ。あとはいかにそれを横取りするか?できるのか?の、ことでしかない…。

※身近にいる人間の、その世界の動き対して、その大きなもの/ことにおいてともなれば、なぜか、なぜにか、嗅覚の働く、効く、者らにおいてともなれば、ピンときてしまうものらしいんだ…。この自分に、相続としての、その実際の入金が、起こる、行われる少し前ぐらいから(これは自分には時たるものは皆目分からなかったのだが)、突如、アプローチを開始してくる女性が二三現れてきてたんだ…。ことにおけるその内容は、彼女らに全く分かるはずがないのに…なのに〜〜だったんだ…。ほう〜、これがモテキってもんなのかな?っと、

、その女性たちからのアプローチってやつに、なにやら驚きと関心をもって、喜んでたまで。www。彼女らはみん、あらゆる意味における荒行においての際しての歴戦練磨をもってして勝ち抜いてき〜た〜、破格の〜、また強烈なる〜、そして魅力たるものを備えたるの〜、おなごさんたちだったんだがねっ!…。だが、みんな…伴侶たるものがいなかったんだ。一人なんか、コブ付きではあったんだけどね〜…。「こっわ〜!」。


        ここ異世界おじさん調の語りでやったつもり。似てる〜www。

ここは、プラクリティーたるものが如何に、ことにおいての介入ってやつを、図ってくるのか、きているのか?の事例になる。彼女らにあっても、ことにおいての理由ってのは定かじゃない。どうしてものなのか、あの人間が気になってきてしょうがないってだけのことだったのだ…。

でも自分なんかとしては思うんだ。外には可能性が、無限として、いくらでも、あるではないかと…。数限りなく、もうなんぼでも、腐るほどまでに!。ならばだ、他人の持ち分、(それもまだ可能性としてのものでしかない)、など気にしないで、欲しがらないで、むしろその仲間が、
彼が現在温めているところのその可能性において、成功することこそを願ってあげるべきなのではないだろうか…。彼の成功は、そのまま会社にとってのメリットになる。それはそのまま回り回ってこの自分にとってもメリット、利益ともなる。それとして直結してくる、還ってくることになるのだから。「頑張れや」ぐらいの心づもりで、心の中の応援で、十分なのではないだろうか?。

実際はどうも隣のライバルとしての相手の動向がどうしても気になるようだ。もう一種病気として関心の強さになる。その彼、相手よりも、この自分が抜きん出てる、優勢である、成功してることの確認がどうしても必要なようだ…。自分は、いろんな職場、いろんな立場で、多くの組織に属してきたが、どこもまったくおんなじだった。いらぬライバル意識が強すぎる。同僚を意識しすぎている。これはまったくいらないことなのに…。自分なりに、自力で、属する会社に外から仕事をもってくる、つなげてくればいいだけのことなのだから。それがいつ、どう、変化するかなんてわかりゃ〜しないんだから。大事に育てていってれば良いだけの話し。それは、その担当者のあり方において、彼の努力に対して、然るべくしての反応、を返してくれるまでのこと。静かに温かい目をもって、応援してあげてるだけでいい…。

無限としての可能性が眠っている。

まだ目鼻もない、一切が定かならぬままで、その様子にて。


ことの環境のすべては、タイプ4としての自分にその特質を発揮させるべく整っていたまで。

生き延びることを目的としての、自分が嵌まり込んであるその苦境から、脱出させるべくしての、その方策、奮闘するにおいて正解となるべくしてあるその方向性は、そのあり方は、確実に、統合に向けての矢印に沿っての活動となるべく、強制力たるものが、環境において、その苦境そのものにおいて、作用してくれていたのだ…。



理論は既にご存知として、タイプ4たる人間においては、4-2-8-5-7-4-1-4としての、その流れに任せての、この流れのまままにの生存と基本なっている、それとしての生存になっている。この展開は、いろんな表現が可能なのだけど…、一言で言えば、本源から、神からは遠ざるのことでしかない。どんどんと物質性としての特徴が顕在化していってしまう流れであると言える。同時に、何か原点としての何かが、それとしてのものが、バラバラになってゆく、そんな展開でもある…。精神性としての何かがだ。言っちゃ〜なんだが、ある意味、これもまた自然な姿ではある。大きな流れがそこには働いているんだからね…。それはそれで、どうぞ皆様ご勝手にってことで良いんだ‥。片や、4-1-7-5-8-2-4としての展開の道筋ってのもある。でもこれは大変な道行きになるんだ。自己の内にあるあらゆる能力知覚を動員することが必要になってくるんで。内部の三角形の3寄りってことはその個人としてのベースは感情だってことになる。そこが基地局。タイプ4なれば6付近の知性との関係は密なんだけど、1付近としての本能領域、ガットセンターとの相性は最悪だ。人間ってのは内部の三角形そのもの全部としてのものになるので、当然な話し、すべて、自分だとして、発達強化洗練がなされるべきなのだ。その上に、調和をもってしての連携関係こそが重要になってくる。統合としての道筋。真に自己を人間と為さしむるべくしての道として語られるのはこんなところにその理由はある。ある意味、ことは自己責任において、努力をもって達成されるべきこととしてそれはなっている。あの「自然は可能性だけを与えてあるまで」がここに関係している。この道筋をゆくことはある種、心理的には「嫌なこと」になってる。抵抗がある。なので、どうしても、受け身のままでは、その方向には向かえないんだ。人間の性ってやつのせいでね。何らかの目標を掲げての意思をもってしの努力、奮闘ってやつが伴っていないことにはどうしてもこの道筋をたどることはできない。ところが、人間ってやつは、未だ未完成としての人間ってやつは、これが自力では、もう確実にできないことになってしまってるんだ。そのことの原因は一言で言えば「怠惰だから」ってことでいい。「時代的に恵まれすぎて平和ボケしちゃっているから」でもいいな。波風極力立てたくないってことが本音の場合もある。平穏無事で過ごしているのが一番いいって。っで、そんなボケた存在としての人間達を駆り立てんとして、自然の方が勝手に介入を、状況やら環境の調整をしてくる場合もあるんだ。否が応でも、なにかどうにかせねばならないってことにしてしまう。ことは全体的なることの場合もあるし、特定の個人をターゲットとした場合もあるっと…。


閑話休題。改めてに、何故に他人の持っているものにヒトは関心を寄せるのか?。
繰り返す。それにはある程度、目鼻が、目処が、それには付いているからだ。
その情報を元に、具体的に、その仕事の可能性についてが分かる、想像がつくからだ。

ならばだ、その目鼻が付く前、まったくのっぺらぼうとしてあるときにはどうするのか?。

何をもって、目鼻がハッキリとしたものへと、それを変え得るのか?だ…。

これが本稿⑨としての真の内容、それの教唆、教示、公開そのものになる。





           いや…もう、字数が、とっくに、アホほど過ぎている…
              次の⑩にてのこ

、するこ

にしよう…。
            とりあえず、最後に、このこ

だけは言っておこう。



                    プツン


                  ザァザーーーーー…
















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