第26話  ドングリの話し(序章)。

文字数 5,688文字

え~[スピン・アウト]です。
本当ならN.49の③に追加されるはずだったものです。
かさが高いので別項としました。それも二部構成。

「二元論は、本体のストリームにおける上流と下流として考えなくてはならない」

こんなこと言ったかどうかとっくに忘れたが次の対概念に関しては例としてやっておきたい。
実際としては何が本当の課題であるのかを考えとして残しておきたいのです…。


Re: 保守と革新。

これらが立場上、”対立関係”にあるっていことはもうお判りかと思います。
先ずは、これら言葉の意味するところ…。

 保守:
 既存の、つまりは

、伝統・風習・習慣・制度・法・組織・価値観などに、
 権威/価値/有用性があるものとし、これらを相互に守り支えようとする態度。
 本質的には、急激な改変/改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、思想などが伴う。

 革新:
 既存の国家/社会制度/その他現行の諸々に対し、そこに、
 改革/改変が必要とであるとの考えの元、対外的に要求したり、
 自身にて達成をなさしめんとする態度。

 ついでにリベラルも。
 社会から、他者からのいかなる制約も認めないの態度表明かな?。
 生まれ育ち、家柄血筋、教育のあるなし、性別に関わらず、いかなる偏見、
 そして負い目を感じたくない。
 差別の根拠を、そんなところには一切認めないの姿勢かな?。


まあ、こんなところで十分でしょう!。

ええ~っと…まずは「どんぐりの話し」からしぃ〜よ〜ぉおー。


*もって回っての構成になってます。


Re:『自然から学ばねばならない』


既に、読者の皆様におかれましては名高き方となられているであろう、
あのピータース氏の、幼少期の記録より…。


Gは、幼い”ピーター少年”の注意を、樫の木に向けさせた。
そして、何が見えるかを尋ねた…。

「どんぐりが見える」と答えると、今度はその数を尋ねた。

「分からない」と答えると、
 Gは焦ったそうにして、『大体でいいから検討をつけてみよ』と言う。

「おそらく数千個はあるだろう」と答えた。

Gはうなづき、今度は、
『それら数千の内、いくつが新たなる樫の木に育つであろうか?』と尋ねた。

私は「五つか六つくらい」と答える。

Gはうなずいて『多分、たった一つ、多分、一つもならない』と答えた。

そして『自然から学ばねばならない』と言った…。

人間もあれらドングリと同じ有機体である。
自然はたくさんのドングリを造るが、木に育つ可能性のあるものは、
ほんの少しのドングリにしかない。人間においても同じなのだ…。

たくさんの人間が生まれてくるが、成長するのはほんの少ししかいない。
人間はこれを無駄なことだと思い、自然は無駄をすると考える。
いや、そうではないのだ。

木へと育つことのなかったドングリは、肥料として土中に帰る。
そして、もっと多くのドングリを、もっと多くの人間を、
生み出すことのできる土壌の整備に奉仕するのだ。
このことによって、より多くの新たな樫の木を、
もっと沢山の

生み出すための可能性を創造する。

『自然はいつも与える…だが可能性だけを与える』。

本当の木や、本当の人間になる為には

をしなければならない。
(略)
木とは異なり、人間は多くの可能性をもっている。
現在の人間は、

、成長する可能性をもっている…誤った方向へと成長できる。

人間は、いろんなものになることができる。単なる肥料でもなく、本当の人間でもなく、
いわゆる『善』とか『悪』とか、人間に相応しくないものになることができる。

本当の人間は、善でも、悪でもない。本当の人間は、意識しているだけであり、
(彼にとって)相応しい発展ができるように、魂を獲得することだけを願う。

善と悪を、右手と左手のように考えなさい。人間はいつも二つの手をもっている…。
自己の二つの面、善と悪である。一方が他方を破壊することができる。

両手が一緒に働けるように、目標を定めなければならない…。
第三のものを獲得しなければならない。
第三のものは両手の間、つまりは善への衝動と、悪への衝動との間に、
平和をもたらすものである。

全部『善』である人間や、全部『悪』である人間は、全体ではなく、片方に片寄っている。

第三のものは良心であり、人は生まれた時に、すでに良心を獲する可能性を与えられている。
この可能性は、自然がただで与える。だが、単なる可能性に過ぎない。

ほんとうの良心は、ワークによって獲得される。

自己を理解する。このことを学ぶことからすべては始まる。

『汝自身を知れ』。(アポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言)

自己を知り始めると、真の人間になる可能性をもち始める。

最初に学ばなければならないことは、自己を観察すると言う訓練だ。

これによって自己を知ること。

これをしないと、木にはならないドングリ、つまりは肥料になる。

肥料は地中に帰り、いつかは人間になる可能性をもつ。』



魁偉の残像
Gと暮らした少年時代、P.71-73
フリッツ・ピータース=著
前田樹子=訳
崇=改稿



Re: Version 2:*こっちは少しですがコメント付きです。

Gは、幼い”ピーター少年”の注意を、樫の木に向けさせた。
そして、何が見えるかを尋ねた…。

「どんぐりが見える」と答えると、今度はその数を尋ねた。

「分からない」と答えると、Gは焦ったそうにして、
『大体でいいから検討をつけてみよ』と言う。

「おそらく数千個はあるだろう」と答えた。

Gはうなづき、今度は、
『それら数千の内、いくつが新たなる樫の木に育つであろうか?』と尋ねた。

私は「五つか六つくらい」と答える。

Gはうなずいて『多分、たった一つ、多分、一つもならない』と答えた。

そして『自然から学ばねばならない』と言った…。

人間もあれらドングリと同じ有機体である。
自然はたくさんのドングリを造るが、木に育つ可能性のあるものは、
ほんの少しのドングリにしかない。人間においても同じなのだ…。

たくさんの人間が生まれてくるが、成長するのはほんの少ししかいない。
人間はこれを無駄なことだと思い、自然は無駄をすると考える。
いや、そうではないのだ。

木へと育つことのなかったドングリは、肥料として土中に帰る。
そして、もっと多くのドングリを、もっと多くの人間を、
生み出すことのできる土壌の整備に奉仕するのだ。
このことによって、より多くの新たな樫の木を、
もっと沢山の本当の人間になれる人を生み出すための可能性を創造する。

*真の人間たるものが育つ可能性を準備する、
 肥料/栄養としてのドングリ人間


 如何なる人間のことを指して言っているのだろうか?。

*ただ未熟であることがその特徴であるならば、
 苦しみを振り撒く、その源泉としての価値なのか?。
 こういった人間もどきとの関わりは、
 腹立たしい思い、悲しい思いを散々に味わらせてくれる。
 その受苦こそが糧なのか?。
 パートクドルグ義務の履行の機会を(そな)えてくれる?。

*他方、騙されやすく/騙しやすく、簡単に資金(お布施)を提供してくれるー、
 恵んでくれるー、スポンサー的存在の方のことかしら?。
 「ありがとさぁ~~~んんん…」(利夫)を伝えるべくの方々か?。

『自然はいつも与える…だが可能性だけを与える』

本当の木や、本当の人間になる為には、それなりの努力をしなければならない。
(略)
木とは異なり、人間は多くの可能性をもっている。
現在の人間は、偶然に、成長する可能性をもっている…誤った方向へと成長できる。

人間は、いろんなものになることができる。単なる肥料でもなく、本当の人間でもなく、
いわゆる『善』とか『悪』とか、人間に相応しくないものになることができる。

*あくまで規範としての『善』やら『正しいこと』に拘り、これから外れることに
 恐れを持っているだけのヒト。薬にも毒にもならない存在。
 タイプとしての傾向性、そのままに反応しているだけなのに、
 あたかも自分がそれを行っていると思い込んでいる。
 まあ夢見ん中にいて、架空の善やら悪事に拘りを持っている人間のことかな?。

*他者から世間から、好かれたい認められたいっていう無意識からの欲望において、
 関係のある人々からの求めには、なんでも頑張って答えようとするヒトがいる。
 いつも忙しくなってしまてて、暇する余裕がない。
「なんなんだろうな~?」って、いつも思う…。
 これって自己中心性の裏返しでしかないんだけど…。
 間違いなく彼ら彼女らは、お返しを期待している。

だけど。

*悪は反社?…。いや今ならメディア関係者の方がピンとくる。金の為ならなんでもやる。
 嘘であろうが、社会にとって悪害の垂れ流しにしかならなくともへっちゃら。恥知らず。


本当の人間は、善でも悪でもない。本当の人間は、意識しているだけであり、
(彼にとって)相応しい発展ができるように、魂を獲得することだけを願う。


*ちょっと中断…。

 最後のライン辺りが意味深ですよね。

 独善的に解釈するならば:
  観念としての善悪にはなんら意味はない。
  こんなもんに基づいて/沿って、自己規定してたら、”

”に
  なるだけよって。本当の人間は、(自己の存在を)意識しているだけであるっと。
 (これはマハラジからの拝借だ)

 そんで最後!。これがG独自の独特なる表現だ。

 『魂たるものの獲得こそが最重要な課題である』

*自己の魂こそが目標物。
 これは最初から与えられているものでは

獲得されるべきものなのだ。
 魂は、種として(分霊として)最初から備わっているのだが、これを発芽させ、
 育てることが必要。まずは分厚く固い殻をぶち破ることから始めて…。

 これができますように、そのために果たされるべきことが何であるのか?が、
 自分に理解されますよう神に祈る。導きがあることを願う。
 いざ、その実際において助けを求める。

*敢えて、これに該当する他の言葉を探すなら、真我なのかもしれない。
 でも、もしかしたら、まったく別物なのかもしれない…。

 再開。


善と悪を、右手と左手のように考えなさい。人間はいつも二つの手をもっている…。
自己の二つの面、善と悪である。一方が他方を破壊することができる。

*「利他の精神」と「エゴイズム」。

両手が一緒に働けるように、目標を定めなければならない…。
第三のものを獲得しなければならない。
第三のものは両手の間、つまりは善への衝動と、悪への衝動との間に、
平和をもたらすものである。
全部『善』である人間や、全部『悪』である人間は、
全体ではなく、片方に片寄っている。

*Win-Winを考える。意識する。関係そのもが長続するための極意。
*第三の力として働いてくれる何か。Reconcilation: 和合、調停、調和、合意。
 両方を共に慮って/思いやれる心の動き。バランスを心がけてくれる。
 ブレーキとしても働いてくれる。

第三のものは良心であり、人は生まれた時に、すでに良心を獲得する可能性を与えられて
いる。この可能性は、自然が

与える。だが、



*感情センター、もしくは本質、
 この一個の独立した霊的な生命体と呼んでもいい部位において、
 これが覚醒した、調和した機能状態にあって初めて、”良心”とGは呼んでいる。
 なにか、”ふつふつ”と思いのようなものが心の奥底から湧き起こってくるみたいな?。
 色合いがまったく違う。世界がやけに鮮明に、親しげに感じとられている状態?。

*マインドの働きにおいて、やけに明晰なることを覚えることが誰にもある。
 妙に冴えた状態のこと。これは多分、知性センターが覚醒状態で、マインドのすべてが、
 これの元に最高のパフォーマンスで仕えている状態なのだろう。
 良心は、これとはまた質的にまったく違う主体なのだ。

ほんとうの良心は、ワークによって獲得される。

自己を理解する。このことを学ぶことからすべては始まる。

『汝自身を知れ』。(アポロン神殿の入口に刻まれた古代ギリシアの格言)

自己を知り始めると、真の人間になる可能性をもち始める。

最初に学ばなければならないことは、自己を観察すると言う訓練だ。

これによって自己を知ること。


これをしないと、木にはならないドングリ、つまりは肥料になる。

肥料は地中に帰り、いつかは人間になる可能性をもつ。』





あとがき:

既に前振りから大部になってしもてるー!。
でもこれって、N.49『マインドが原因』と大いに関係する内容ともなってませんか?。

「なんたる偶然!」
「流石は自然!」

後に続く内容は構想通りに機能してくれるのであろうか?。
同じくして、インスピレーションとしての後続の作文は活きてくれるのであろうか!?。
「ヤッパ」つながりは大事よー。

本章はとても

です。そして

ヤバイんです…。


ではまた…。


最近わさ〜、スピン・アウトばっかり。本体へと中々戻れない。
これも何らかの理由でそうなっているんだろねーーー。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み