第40話  Interval (II)

文字数 9,427文字

Re: 世界は、ヒトのその願望に対して、反映を返す。


このことの背景には「神はヒトを自身に似せて創造した」を思い起こさなければならない。

    我々のかたちに、我々にかたどって人を造り…
    我等に象りて我等の像の如くに我等人を造り…
    我等の像の如く、我等に象りて、我等人間を造らん。

    なんで複数形やねん?!っと。これは今はいい…。

では、神とはなんぞや?。我々が生きて存在しているこの宇宙そのものだ!。
それの創造者である。全知全能。すべては神の思うところに沿ってある。進行している。
この宇宙は神にとっての肉体だ神経系だそしてマインドだととりあえず制限かけちゃおう。
だからこそ〜彼の思いのままなのだ。そしてすべてを

知ることが
できちゃう。だってあらゆるすべてが従属してあるんだから…。
そうあるもんなんだから…。

勘のいいヒトは、お気づきのことであろうとも思うんだが、
既に解説は済んでしまってますよね?。
もう完璧に!。


では、未だなんのことやらピンと来ていない方々の為に、
余計な労苦を背負って覚悟して言葉を継いでみよう…。


先ず基本、すべては

のことであっては困るのだ。
そんなことに関わり合ってる場合ではない。それは単なる時間の無駄。
自分の生存圏において生活感において検証できないものは不必要。
そうだね〜…暇つぶしのおしゃべり、娯楽としてなら、
なんだって考えたり語ったっていいんだけれどね…。

  UFO、死後の世界、宇宙人、平行世界、過去改変、等々。

それらはあくまで戯言として、冗談としてならなんだって構いやしない。
ただね、実際の生存において、どれだけそのことが役に立つのか?っていう
判断基準は大事にしなければならない。もしあなたが現実を真剣に生きているのなら、
その現実は解決しなけりゃならない問題が山積されていてもうそれで一杯のはずなのだから。

ある程度、現実に対しての認識がもてるようになったなら、自己の内にも外にも海の向こうでも解決の急を要する問題が、山積であることが解るであろう。それを心配したり悲しんだり怒ったりぐるぐる頭の中で思考を巡らせてもなんにもなんない。ことは現実のことなんで、
こちらも、その解決の為には、現実においてなんらかの具体的なアクションを、とらなければならない!。

*このことには勇気たるものが間違いなくいる。それを現実に自分がアクションを起こすべくしての勇気を願い求める必要がある。ここに日常における「キリストが経られしご受難、我を強め給へ」の祈り、Passio Christi, conforta me.
(パッシオ クリスティ、コンフォルタ メ)が絶対に必要になってくるのだ。

それも、もしその問題がややこしいものであるならば、一足飛びに解決に至ることも難しかろ。たくさんのアレヤコレヤの手を試さなければならない。時間が間違いなく必要、前提のものとなってくる。ことは持久戦の構えとなってしまうのだ!。

やはりことここにおいては、ことの達成に向けての執念ってやつがいる。意志の強さっていってもいいんだが…。やはり現実的には執念って言葉になってしまう。なんとしてでもやり抜くぞ、やってみせる!。我が一念を絶対に通してみせよう!!。『 南無八幡大菩薩!!!』。(←これって、エゴを強化、強めることに結果なってしまうんだけどね…。)

脱線:
エゴたる人格の洗練強化も必須になってる。それはまたトラップとしても機能している。
だから、達成の暁が大変に重要になってくる。喜びのあまり天狗になってしまったなら
もうお終い。即座にその成功のフレームから脱する、身を引くのが正解かも…。

この一念を、その試行錯誤の行為において/よって、練るんだ。このときに自身の内部で起こることはなんだろう?。端折る、すべてのセンターが窮地からの脱出の目的において呼び覚まされて起こされて稼働しだすんだ。そしてその足掻きにも似た、日常ツイぞ行ったことのない行動において、外部から痛く馴染まない印象つまりは情報を摂取しだすんだ。これは外界からのフィードバックということで次回のトライアルにおいて生かされることとなる。要は自己を構成するものらが、

みないろんなもん(汗涙血悲鳴嗚咽冷や汗)流しながら協業に励むことになってゆくのだ。そうぜざる得ない状況に追い込まれていくんだ。(←後の稿の為の伏線になっているからね〜)

端折る。日頃発現することのなかった高出力、高感受性においてのパフォーマンスが起こりうるのかも知れない。これは当人の標準として現在保ち続けている状態やこれまでに積み重ねてきた実力や学問経験が物を言うこととなるだろう。もしかしたらとんでもない奇跡でさえ、その彼は起こしてしまうやもしれない…。

もし、そうしたことができたなら、起こったなら、
彼は「イエスの再来」と呼ばれるようなことにもなるやも知れない…。


宇宙は七階層をもって語られる。これはどこぞかの宇宙物理学者が決めた訳じゃない。
古代のどこぞかの聖人がその般若(霊知)において覚知したことによる。
まあ〜このことは東西の文化において同じことが何故にか語られ伝えられてきているので、
もしかしたらそうなんかもね〜ぐらいでいい。w。

まっとりあえず「なんで八やないんや?!」とか「十二ではないんや?!」とは、
お願いだから、言い出さないでいてくださいね〜。こういう反応が一番嫌い。
なんだっていいじゃん。階層状だってことだけで…。

人間の社会が実際そうなってるでしょう?。会社組織においてはそれが必須。
これもなんらかの反映によって自然とそうなってしまってるんだ…。


閑話休題。その七層の内の一層、最下層に我々人類は住まいしている。
そして残りの上層界においての六層に関しては知る術を持たない。
だからある意味、無関係。それこそ彼方のことでしかありえない。

果たして、そうであろうか?。

ここで、あの「神はヒトを自身に似せて創造した」を思い出していただこう。

結論としてはヒトの内部にそのヒトたるものを構成する枢要としてのセンターが存在している。それは独自に生きているものとして語られている。「霊的なる」とまでの形容詞が添えられる場合もある。それら七つのチャクラはあの残り七つの階層との仲立ちを行う中継器官だとしたらどうであろうか?。その世界との接続を行うための受信機、交換機。

お決まりの常法としては「すべては帰納的にでしか把握できないようになっている」。
解剖したってそれらチャクラの実在を実際に確認などできるわけがないのだ。
「科学的に」では無理。ことは神とおんなじ。

だが、例えば、痛く低次元の話しになってしまうのだが、感情やら本能に起因する恐怖だとかそれにおける嗜好(悪食)だとかがあることはすべての人間が同意することであろう。特に感情なんかは、それは何処の部署から引き起こされているものなのかは現在もってハッキリとはされていない。本能も脳梁の古層だろって勝手に言ってるだけ。それは未だ憶測しかないのだ。

脱線:ことの真実をどうしても折り曲げたい、脱線させたい、脚色したいってな連中がいるみたい。宇宙人は少なくとも上位界、つまりは天使たるもののイメージをもってアプローチしたほうがいい。そこにあるべくしての違いは唯物論的なるか唯心論的な対象吟味なるのか。敵方は唯物論的な世界観に引き込んで、それに馴染ませたいだけ。おっと、言っておかねばと思ったのはあれだ…レプテリアンってのが何なのか?。それも結局は人間のことでしかないんだ。脳内における古層には爬虫類時代の情報が強固にして強烈なるをもって残っている。本能中枢に関わる。それの実際はワニなんだけど…。だから、ここに精神的な活動拠点を今もって持っている人らもいるはいる…。決して宇宙人やらなんかのことではないんだ。ミスリードをすべくして、たくさんの情報が発信されてしまっている…。(その目的は上記↑の通り。)

自己の内にておいのみ識り得る領域、対象、器官。各人各様においてでしか知り得よう分かり
得ようないもの。おそらくは真我においてのみそれれの所在はリアルなるものとして確信する
ことができる。間接的にしてなる炙り出しをもって、類形的なるをその背後に察するにおいてとはなるのだが。そしてなによりも〜目的ある意識的な行動においてのその結果、世界からの反映にてー!。


ギャラリー:


鉱物/結晶は感光盤の役割をしてる。宇宙の!。

海の中においても同じ。

なんやら分からんもの。たぶん細胞関係?

あくまでも運動におけるその”一瞬”の様子を捕らえたものに過ぎない。
だから運動たるものをそれに添えないと…観ないと…。

   宇宙をその全貌を観るのに望遠鏡はいらない。手近に観ることができる。
   これらはヒトの為にのみ置かれた顕示となっているのを知っている?。
   他の動物達にとっては殆どここにある色彩は見えていない。
   ヒントとしてご丁寧にも配置してくださっているのさ(それだけが目的ではないが)。
   彼方に〜ではなく、手近にてすべては最初から

ある…。


これら開示に知性の所在を察することができないならば幼稚園からやりなおしたほうがいい。


もしそれらすべてが最高度の感度にて、また最高出力にて、相補的に機能したならば、
その人間は神化の状態に至るとはならないだろうか?。
宇宙の全体と一体化して在るとはならないだろうか?。

自分はそうなると思ってる。そうなのであろうと確信している。

神のその特性は創造にある。ヒトとの違いは不死性のみ。

その人間は求めることにおいて現実に改変をもたらすことができるようなる。

「求めよさらば与えられん」を地でゆくこととなる。

既に世界は、彼に対して恭順してあるへとその態度をかえている。

だから思うだけでことは勝手に叶ってしまう。

ただし、ことは神が定めるところにおいての流儀、その制約は伴ってであるだろうがね。

あくまでも理法的にー、であらねばならない。

そしてまた、あくまでも

にーーーで!。

そこに在る起こる状況こそが彼が取るべき道を教えてくれていることだろう。



     〈本稿⑧へと続く〉



補記:

宇宙は七階層として考えられるが実際そうなんだが、これらアチラ側にとって、確たる分離はそこにない。すべてはお互いに浸透しあって存在機能している。各階層オリジナルの生産物質もまた人体において浸透してきている。でも通常の人類の生活にいてそれ、は活かされぬままにある。それを結晶核として増やす大きくすることもできるのだが、その為には意志的な努力が為されなければならない。それは世間の目からしたら奇特なもんなんだろうね…。だから猫に小判、豚に真珠の状態にあるのでいかないとも言える。

前にも言ったことだが、インターフェイスの観点からは、もう完全に完璧に完成されたるの
存在なのだ。人間がだ。だからそれに小賢しくも人工のなんやらかにゃらを組み込むことは
不用なのだ。そんなことをすれば、そのことによって制約が発生してしまう。
一挙に低次元においての受信理解出力しかできなってしまうであろう。
これこそがアレの目的なのだ…。

上位界への参入たって、そんな大層な儀式が必要とされるわけではないんだ。
現実において良き願いもて、奮闘できるかどうかだけの話し…。
その思いが崇高なるものであればあるほど、その個人においてはそんな自覚はないんだけれど、関わる関連部署は上位階層になってくる…。

自動的に然るべくして関係は起こる。

「すべては然るべくして、それに従った形で、なるようになっている。」

このことに尽きる。

ただ一つの、一つだけの現実が、あるのみ。

それは誰にとっての話しなのか?

各人にとってだ!。

だから現実はヒトの数だけあるってことになる。

それらの間に化学反応はあっても、一体化や、共通の完全にしてなる理解は絶対にあり得ない。

でももし、その個人たるのを降りたなら、(←至難の技)

誰しもにとっての、ただ一つの現実が、また現れてくることになるのだろう。」







あとがき:


これ未だ未完成。なんか一杯言葉足らずな面があるよな…。

ガイドとなることまたことの整理の為のものだからそれほど踏み込んで語れなかった。

まっこれでいいかぐらいの感じのもの。


例えは、本来ならば言わなきゃならないのは、
自分以外の誰かを、その心を、その状態を変えることはできない。
ことはあくまでも、その個人がそれを為すが、勤めであるべきものなのだから。
その個人の問題は、その個人こそが〜、単独にて、なんとかすべきこと。

あのデスノートにて語られる呪殺も可能は可能だがこれは禁忌。


要はその人間が〜どれだけその変革を必要としているのが願えるかにかかってくる。

何を願うかによっても。それを管轄する階層は違うだろうから。

その接続において開ける世界の印象もまたその当事者によっていろいろ、様々。
その人間の出来上がりによって、ことは左右されてしまうのに違いない。
結果、そのパフォーマンスにおいても、違いがでるくるのは当然なはなし。



良き願いであろうが、悪いエゴイスティックなものであろうが関係ない。
世界は間違いなく、そのチャンスを与えるべくして反映を返してくれるまで。
ただし、その願いの内容次第によっては、絶望的なるまでの苦しみを
対価としてその当人に要求してくる。



「呼べば応える魔神群」ってのが昔自分がこの方面において編み出したるのビジョン。

 

、もしことが失敗に終わったなら、彼の魂を持ち去ってしまう。

 簡単に言えば、暴虐の限りをもって、その無能認定されてしまった彼を殺してしまう。

 魔神らはプライド高いからね。

 またそうすること、そうできることこそが、意外と、魔神らにとっての本懐なのだ。

 それを条件としてこそ、服従してくれているサーヴァント…。











また後に手を入れにくるかも…。





この二枚を並べて掲載してる意味はお分かりだろうか?。人間は宇宙と相似となるよう創られたんだ。これが冒頭の意味。垂直律においてその自己の存在が達成されたなら、これは個人として、その個人が生み出す事業会社として、また国家としても、それは樹として例えられるものになる。これが生命の樹の意味。その各位はスケールは違うものの、同じこの宇宙を支えるもの活かす生かすものとして機能するしび役目として全体に調和をもって組み入れられることとなる。相補的にはなるのだが、もしそうなれたならば、そのユニットは不死なる存在と言えるものにもなる。ことは実践実行にかかっている。その行為の中においてすべてはその正体を表してくれる。人間はもう最初から完璧に完成したるのインターフェイス機能を備えたるの存在なのだ。だがその隠された機能の発動には真剣さが求められる必要とされてくる。現存する宇宙と同じくして、その構成の丸ごと全体全存在をもってしての自己投入たるものが必要。バラバラにでは一生無理。これを為すのは魂からの祈念。それが主導権をとるにおいては不思議なことに他はすべてそれに自動的に服従するまで。キーとなるべきは自己を捨てて何かの誰かへの愛において目標を定めることになるのかも知れない…。


これでいくと…イエスはやはり特別なる存在になるわな〜。神の子としてでしか人類のすべてを救うなんて大望が持てるわけがないのだから…。自分は神の子だとの自覚が完璧に疑いえないほどまでに明晰にあったればこそ。そしてなにより奇跡的なのは、彼がそのことにおいて完全に同調できていたことになる…。彼が果たすべくしてのミッション、それの完遂のみが、そのこころには抱かれてあった。冷厳冷徹なる確信犯としてそのこころは定まってあれた。……。

そしてお約束通りに、この世界もまた、
そのことに向けての反映を、返してくれていたのであろう…。


   『汝等は神なり、みないと高きもの(至高者)の子等なり』

   詩篇より

   Ask, and it will be given to you;
   seek, and you will find;
   knock, and it will be opened to you.

   For everyone who asks receives, and he who seeks finds,
   and to him who knocks it will be opened.

   マタイより





蛇足:

あのフラグメンツの言説において知識と存在の道のはなしが出てくるじゃないですか〜。
あの知識と存在ってなんのことを言っているのか分かります〜?。
違う言葉で、自分の日常においてそれらを変換してみてください。


Re: 上記蛇足の後始末。

ヨハネ21:18
まことに誠になんぢに告ぐ、なんぢ若かりし時は自ら帶して欲する處を歩めり、
されど老いては手を伸べて他の人に帶せられ、汝の欲せぬ處に連れゆかれん…。


世界はヒトの願いに対してその反映を返す。

この反映において、もう一つ大変興味深い着目すべきは、恐れに対しても同じなのだ。

『将来はあって欲しくない、なって欲しくないものになる』(聖墨菲)

生来に関わる何かの事態を恐れば恐れるほど、厭えば厭う程、そのことは起こるが必然となる。

前者は「願い」に、後者は「忌避」に関わっている。両方ともに感情が大きく関わっている。

これの変動変化を読んで、それの有様に即して、世界は対応を反映を返す。

また同時に、それは誰によってのおいてのものなのか?も大変重要になってくる。

端折る。

人格においてのものならばどう転ぼうが、どう成ろうとも、行く行くのその末は、最終的に絶望するべくしての状態へと至る落ち着く。悲劇としてでしかありえないその状況はなにもその当人にとってのみならず、もしかしたら周りの誰かを巻き込んでの物となっているやも知れない。

ここに世界の反映たるものの、その目的が見透かされる…。

エゴとしての主体、その構成としての有り様を、その全体性を否定しにかかるのだ。

上げて落としてであったり、ゆっくりゆったいまさにその状況へと引き込むようにしてと、
最大限の心理的ショック、恐怖を与えるべくしての演出をもってして。

たぶんこれは神の構えた呪なんだと思う。この地球上にて機能すべくしての。


ところで、あの本質においてならばどうなるのだろうか?。

端折る。

それは有効なるものになるかもしれない。だがそれ単独にては大したことはできないだろう。
できたとしても何をどう現実においてすればいいのかがピンとこない。
あくまでも他愛のない思いとしてでしか願いは持てないことだろう。

ここではヒトの世の実際に関してを知識としてもっている必要がある。
ルールとか、社会的な常識とか、適切なる手順手続きとか、コード/プロトコルに関してを。
これに精通してあるのが人格だ。
だからエゴのフィルターを通さない限り確たる目的など持てるわけがないのだ。
このことは結果エゴにおいての求め、それに染まっての願いとしてでしかなりえない。
すると上記の展開が定めとなってしまう…。

端折る。

自分の独断としての考えにおいては、知恵の実の摂取により「人格への重心移動たる事態が人類において起こってしまった」が先ずある。この人格たるものは、マインドと呼ばれる場にて、便宜的に結ばれてある『枠/界面』のようなものなのだが、これへの同化が反復強化によって固定化固着化されてしまっているのだ。キメセクやってもうヤクとの縁が切れなくなってしまった。

ことの推進力となったのが動物的な本能領域からの要請。その強制プログラム。そして、周りの生きるべくしての社会環境それの情勢が、同じくしてそれに沿った形となっているから。モラルは低下し続けてきてる。多分、数千年単位でずっと下降基調となっていたはず。日本においてはあの敗戦を機に一挙にアクセルがかかってしまった。

端折る。

神がおかれたその『呪』たるものは、反面『祝福/救済』として役立たせることができる。
おそらくは罪の贖い、その浄化としての目的において置かれたものだと思う。

必要なのはエゴの支配を脱してそれを本質に従うものへとせねばならないのだ。このことの実際はエゴの息の根を一旦止めるを意味するのだけれども。社会的には一回死んでしまうがその実際になるのかも知れないけども。こだわりの一切を無碍に投げ捨てるその勇気がいるかもしれないけど。こと場合によっては、その個人の魂からの選択においては、従来のフォーメーションをガラリと変える契機ともなる。そうなりうる…。


ことは〜、のんきで気楽なはなしではまったくない。切実にして逼迫した事態、真の窮地たる
ものに至らない限りはそのことは絶対に為せないのだから。そういったことでもなければ内に
おける真の自己たるものは目覚め得ない。

また、あれだは…ヒトは労働をもってでしか自分の欲望を満たすことができないように、
ここ地球においてはなっている。これもまた、ヒトの逃げ道を完全に断つべくしての状況の
設えなのだ。

最後に稼ぎの奥義たるものをお教えしておきます。

他人(ひと)(いと)(いや)がることをするから

、お金はもらえるのだ。




補記:

冒頭はヨハネからの引用になるのだが、
この自分の頭の中においてこの箇所の箇所はこんな感じになる。
かなり改稿してしまってます。ご注意を!。


   あなたがその若かった折には、自分で自分の帯をしめて、
   またその思いのままにあちこちを歩きまわることができた。

   だが年をとって高齢となったならば、
   支えを助けを求めて、自分の手を誰かに伸ばすようになるであろう。

   そして、あたな以外の他の誰かが、あなたに下着を着せて帯を結び、
   その身支度をするようなる。そして、更には、
   あなたは行きたくもない所へと連れて行かれることとなるであろう…」。


イエスはあの時、なにかペテロの未来を見通されてしまっていたのだろう。

自分はね〜これは「ペテロは特養に放り込まれたなっ!」て読むんだ。
家族がもう面倒見きれないってことで彼は見放されてしまうんだ。

さて、ペテロはその特養なる地獄において苦しんだんだろうか? それとも、
例へそこが地獄であったしても、在ることに喜びを見出すことができたのだろうか?。

どっちでもいい。ことはそのペテロたる人間に

はなしでしかないのだから。

どっちにしたって自分が思うところにおいては、
特養だけは、施設にだけは、入ってはだめ〜…。

こっからは自分の独善的なる考えになるのだけれど、
すべてにおいて、拘りや執着から離れて、流れる水の様に生きてるヒトならば、
そういった事態になるその前に、天国へと召されることとなるんじゃないかな〜?。


人生の長い短いは関係ない。

早くに、そういった努力を真剣に、積み重ねて、始めておくのがいいかもね〜。

神はね〜、その人間に、いらぬ苦労を背負わせることはしない。



敬具


















おまけとしてのおすそ分け。

これはラランド贔屓を差っ引いたとしても素晴らしい記録映像だと思う。

https://www.youtube.com/watch?v=ZlK-FSQXI1Q&t=11s

なにか清々しい最高の青春映画を見たような気にさせる。




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